小林勘弁

食えない作家。 趣味は百姓、DIY、車整備、音楽鑑賞、漫画読みなど。他のSNSはやって…

小林勘弁

食えない作家。 趣味は百姓、DIY、車整備、音楽鑑賞、漫画読みなど。他のSNSはやっておりません。 小さなカタストロフィは物語になっております。第1章の若い番号から、順番に、森本レオさんの声をイメージして、読んで頂ければ幸いです。 #microcatastrophe

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  • 音楽から一言

    音楽を聴いていて、ハットした一言

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    新作を投稿します。

  • 小さなカタストロフィ 序章

    小さなカタストロフィの序章です。

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    特に印象深かった本などです。

  • 小さなカタストロフィ 終章

    小さなカタストロフィの終章 脱・社会依存症 です。

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 2007年5月に東京から南信州に家族3人で移住しました。先代にここでの暮らし方を学び、2008年5月からほぼ専業で執筆活動を始め、予定1年を大幅に越え、2010年7月に原稿『小さなカタストロフィ』(真の社会貢献は自給自足の方向にある、本当は誰もが知っている社会問題の解き方)(microcatastrophe)が完成しました。  それから、9社に審査して頂きましたが、不採用になりました。  その後、2010年12月から2013年4月まで全93回、信州日報に連載されました。  

    • 「恋人達は、とても幸せそうに手をつないでつないで歩いているからね。まるで全てのことが上手くいっているように見えるよね。真実(ほんとう)は二人しか知らない。🎵」浜崎あゆみ(appears)

      • リストカットなど自傷行為の正常性

        現代社会で、リストカットなど自傷行為をすることは、至極真っ当なことだと考えている。 生まれて、このかた社会(世界、国家、地域、会社、職場、学校、保育幼稚園、家族、友人など)の影響を受け、身に付けた価値観と本来人間が自然の中で自然に育まれる自分自身の価値観とでは相違があるから。 なのに自分自身の価値観を社会の価値観に合わせようとすることが、リストカットなど自傷行為の形で現れるのである。。 頭で考えている価値観と心で感じている価値観との相違を、心で感じている価値観を殺すことが、自

        • 信州日報 小さなカタストロフィ 連載開始

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        • 「恋人達は、とても幸せそうに手をつないでつないで歩いているからね。まるで全てのことが上手くいっているように見えるよね。真実(ほんとう)は二人しか知らない。🎵」浜崎あゆみ(appears)

        • リストカットなど自傷行為の正常性

        • 信州日報 小さなカタストロフィ 連載開始

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          1本
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        • 小さなカタストロフィ 第8章
          5本

        記事

          A001 西部邁から一本とる

          西部邁氏の著作を幾つか読んでいる。 特に移住先を探している時に、最初に読んだ「国民の道徳」は面白かった。 その後もいくつか著作を読み、多大な影響を受けた。 特に、保守、平衡、語源、虚無、伝統、精神、心構え、立場など、社会問題を解くキーワードを授かった。 また、書籍以外の映像での発言からも悟性が働いたのも、事実である。 中でも、大学生の時に観た深夜の討論番組での「犯罪のない社会など恐ろしい。」といった主旨の発言は、ずっと記憶に残っている。 移住前に幾つか西部氏の著作を読んた時

          A001 西部邁から一本とる

          0097 あとがき

          投稿後も時々修正しており、また今度も気が付いた時に修正するかも知れませが、なんとか「小さなカタストロフィ」の投稿を終えることが出来ました。 主題は社会問題の「ときかた」とその「こたえ」を示したものになります。 この書は、各項目が独立しておりますが、全体で一つの物語となっております。 全体を読んで、「小さなカタストロフィが自身の中で起きるかどうか」判定をお願いしたく存じます。 自分でいうべきことではありませんが、この書は、1854年に米国により開けられたパンドラの箱、か

          0097 あとがき

          096 「はなし」の終わりに

          洒落臭い文言を並べてもどうにも気になることがある。 それは、読書後感についてである。 本来、読書後感などは自由でしかるべきである。 しかし蛇足とわきまえつつも、一言いって筆をおくことにする。 この書を読んで、もし「はなし」以上に何かを感じたとしたら、それは早合点です。 いずれ失望に代わります。 それは「はなし」以上に何かを入れていないからです。 この書を読み興味を持った分野の色々な本を読めばわかります。 逆にこの書を読んで「はなし」にならないと感じたら、それも早合点です。

          096 「はなし」の終わりに

          095 すべての学問のとき方

          社会学には「社会問題は社会の病気」という前提がある。 その社会を構成している要素は個人である。 その個人のなかで社会不適合者を対象にしているのが心理学である。 心理学には「すべての愛は自己愛である」(愛する自分を愛す)という前提がある。 社会学の前提を心理学の前提で解いてみる。 その心は「すべての社会問題は自己病気」となる。 「すべての見立ては自己(自分自身の)見立て」なのだから当然である。 これは哲学の一つの結論でもある。 社会学で問題とする社会の病気は社会学では対処療

          095 すべての学問のとき方

          094 ものいう肩書き

          肩書きをみれば、どんな人物か検討がつく。 肩書きがあれば、相手が察してくれ、話がとおりやすくなる。 肩書きがものをいう場面は多くある。 いろいろなメディアを通じ、多くの公言を目にする。 そのすべての公言は、発言者の立場に基づくものである。 だから、よくよく聞いて行動するなら、結局は発言者と同じ立場に立つことになる。 社会における立場とは社会的役割である職業に還元される。 職業は色々あるから社会は回るのである。 それなのに多くの人間が同じ立場(職業)に立てば社会は回らなくな

          094 ものいう肩書き

          093 すべて変える

          すべては時々刻々と変化している。 すべてには、経緯がある。 すべてには、事情がある。 すべてには、存在価値がある。 すべてには、尊厳がある。 だから、すべては、否定されない。 一方、社会は進歩している。 科学技術は深化している。 文化は画一化になっている。 生活はスマートになっている。 それまでのものは、否定されている。 社会の進歩は、社会内で分業・細分化・大量生産・代行サービスの促進である。 社会の名の下に役割分担して、自分の最適化を図ることである。 結局は社会内の陣

          093 すべて変える

          092 金のたまたまたま

          (第1章 013 金のたまたま の続き) 心の奥にしまった金の玉を少しずつ表に出した。 なんだか気分はよくなっていくようだった。 だんだん、出し方のコツもわかってきた。 なんとか、すべて出し終えることができた。 さすがに金の玉は違った。 見ていて惚れ惚れした。 どうせならと、すべての金の小玉を溶かして一つにした。 もとの金の玉に戻った。 また錆びついていた銀の玉を磨いた。 銀の玉では、金の玉の隣では釣り合いが取れないような感じがしたからである。 だから、もっともっとピカ

          092 金のたまたまたま

          091 未開発な私

          「私」には、「密(ひそ)やか」の意がある。 秘密にしておきたいプライベートな領域があるということである。 公にさらすほどでもないということである。 本来さらしてはいけないものという感覚である。 秘密にしている私がいる。 秘密の私が確かにいる。 時々、感じるのである。 どうしても、私に対して秘密にしておきたいようである。 第一印象で何かを「いい」と感じる。 その何かは興味の対象であり、その何かを探っていく。 だんだんその訳がわかってくる。 直感は確信に変わっていく。 色々

          091 未開発な私

          085 自尊・他尊・全尊・無尊・空尊・自尊

          ものさし(価値観)とは、自分自身である。 だれかが、なにかを決めても、ちがうと思えば違うのだ。 皆が違うといっても、自分がそうだ思えば、そうなのだ。 だから、周りに配慮するのである。 決して回りに合わすために配慮しているのではない。 自らの尊(とうと)さを知れば、他の尊さ(存在価値)を知ることになる。 自らと他の尊さを知れば、全ての尊さを知ることになる。 全てが尊く差がなくなれば、全ては尊く無いようになる。 全てが尊く無くなっても、それを感じている主体が残っている。 主体を

          085 自尊・他尊・全尊・無尊・空尊・自尊

          084 不愛知の哲学

          「すべては相対である」 赤があるのは、青や黄などと区別するためである。 世界が赤一色なら赤という言葉はない。 赤があるのは、他の色があるからである。 赤は他の色と相対として存在する。 赤と他色をまとめると色になる。 色があるのは、形があるためである。 色や形があるのは、視覚があるからである。 色は形との相対である。 視覚があるのは聴覚・触覚・味覚・臭覚の知覚があるためである。 知覚があるのは、感情・意思があるからである。 知情意があるのは、人間だからである。 人間は集

          084 不愛知の哲学

          083 社会神の姿

           そろそろ人間は、その半分を神にかえるときが来ているのではないか。人は神聖なことを感じることができる。厳かな儀式を大事にすることもできる。人間には神聖がある。しかし、不自然な神聖さは不要である。字面ほど大それたことではない。少し前の暮しを今の暮しにとり入れるだけである。  「神を見る人」は「神」である。神にならなければ神は見えない。尊厳がある人がものごとの尊厳を見ることができる。大工になれば大工の腕が見える。料理をすればほかの料理が見えるようになる。真摯に生きれば、真摯に生き

          083 社会神の姿

          082 タブーなロゴス(言葉・論理)

          タブーとは明確にしるしをつけること  いつの時代のどの人間の社会でも、タブー(禁忌・きんき)というものが存在する。そのタブーとは普通、してはならないこと、禁じられていること、である。  そもそもタブーはポリネシア語で「明確にしるしをつける」という意味である『ベネッセ表現読解国語辞典』『カレッジクラウン英和辞典』。  明確にしるしをつけることがタブーなので、明確でなければタブーではないと言うことはできない。この場合、基本的にしるすことはタブーであり、明瞭度はタブーの大きさなので

          082 タブーなロゴス(言葉・論理)