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第9夜 塩沢・牧之通りのラーメン 赤塚漫画「シェーッ!」の縁

 なじみだったラーメン店が閉店してしまった。新潟県南魚沼市のJR塩沢駅から徒歩5分ほど。宿場町の風情を残す旧三国街道「牧之(ぼくし)通り」にあった「さかいや」である。通りの名前は、雪国塩沢の暮らしを描いた江戸時代のベストセラー『北越雪譜(せっぷ)』の著者、鈴木牧之にちなむ。子どものころ、父の仕事の関係で旧塩沢町に住んでいたので、私にとっては古里と呼べる場所だ。
 さかいやは、上村薫さん(73)と「年上女房」の昭子さん(75)が夫婦で営んできた。人気だったのは、白髪ネギたっぷりのネギラーメン。1995年に薫さんが「46歳の決断」で始めたラーメン店は、地元で愛されてきた。閉店の情報が伝わると、雁木(がんぎ)の下に、行列ができたという。
 元々はまちの雑貨・食料品店。塩沢に住んでいたころ、母は毎日のようにおかずを買いに行っていた。昭子さんは快活で、笑顔のすてきなお姉さん。60年代半ば、5歳くらいの私が、お店の近くで撮ってもらった写真が残る。当時、大流行していた「シェーッ!」のポーズを取っている。赤塚不二夫さんのギャグ漫画『おそ松くん』で、キザ男のイヤミが驚いた時に披露する珍妙なポーズだ。
 新聞記者になり、取材で塩沢を訪れた時、「さかいやさん」がラーメン店に変わっているのに驚いた。昭子さんは私のことをよく覚えていて、「シェーッ!の真理ちゃん」と、歓待してくれた。
 赤塚さんが新潟にゆかりの深い苦労人であることも、大人になってから知った。生まれは旧満州(中国東北部)。敗戦の翌年、母の実家があった奈良県に引き揚げた。父の実家は、新潟県西蒲原郡四ツ合村(現・新潟市西蒲区)。赤塚少年は中学時代を、新潟市と四ツ合村で過ごした。中学卒業後は、新潟市の看板店に住み込みで働きながら、漫画家を目指したという(山口孝『赤塚不二夫伝』)。
 私がさかいやにお邪魔するのは、主に近辺に出張した時だった。冬になると、墨汁を流したような暗い空から、湿った雪がぼさぼさと落ちてくる。震えながら店に入り、熱々の麵をすすると「生き返った…」という感じがした。そこで話題になるのは、いつも「シェーッ!」のこと。「かわいかったね。懐かしいねえ」。そう言われると、還暦を過ぎた身としては、何とも照れくさかったけれど。
 幼いころの自分を覚えてくれている人がいて、他愛のない思い出話ができる場がある。それは、何と幸せな時間であったことか。感謝しなければ。新潟時代の赤塚さんが隣にいたなら、ラーメンの大盛りをおごりたい。
 (写真は以前、南魚沼市のさかいやで食べたラーメン。♥を押していただくと、猫おかみがお礼を言います。下の記事は「大衆食堂の詩人」と呼ばれた南魚沼市出身のフリーライター、遠藤哲夫さんの物語です)

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