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小説『エミリーキャット』第74章・abyss

『彩さん大丈夫?』

順子は車で自分の家へ共に帰った彩が、家に着くなり少し横にならせて欲しいと頼むその顔を見て思わず言った。

タロウが主人のベッドに再び横たわる彩の帰還を悦んで、共に寝たがるあまりバタバタと尻尾を振りつつベッドの上で忙(せわ)しなく動き廻るのを順子は優しく制し、彩の額に手を当てるとこう言った。

『彩さん少し熱っぽいわ、
きっと疲れたのよ、
鷹柳先生のほうが私達よりはるかにご年配だけど、
あの方きっとメンタル的にはもの凄く、タフでいらっしゃるんだと思うの、
彩さんにはあそこで夜明かししてしまった以上にあの話の内容量と、
そして何よりもその質がとてもへヴィだったはずですもの…』

順子はそう言いかけて口をつぐんだと同時に色蒼褪めた彩の頬に触れて思った。

"彩さん一晩で酷くやつれたように見える…”

そう心の中で呟いたあと順子は、ふと
”まるで死相が現れているようだわ”
と思ってしまい、思わず苦い顔をした。

順子はベッドに横たわる彩の微熱のために刺激的なほど鮮やかな紅梅いろに染まった耳朶に、何故か一つだけ酷くクラシカルなデザインのイヤリングが光ることに今更ながらふと気がついた。
その雫型の琥珀が垂れ下がるイヤリングは何故か彩の右耳にだけあった。

『もう一つのはどうしたのかしら?
どこかへ落としたのかしら?』

と順子は思い、ふとうたた寝から目覚めたように一拍置いてから気がついた。

『もう一つは…エミリーさんが持っているのね』

無言で瞳を閉じたままの彩は、掠(かす)れて聞きとりにくい声で病苦に喘ぎ呻吟する患者の口調でこう言った。

『順子さんごめんなさい、
今日中には帰るから、
もう少し待って』

『いいのよ、
彩さんそんなことはいいの、遠慮しないで、
彼はまだ出張で帰らないし今夜も泊まっていったら?
明日の朝、熱が下がったら車でお宅まで送ってあげるから気にせずゆっくり休むといいわ』

順子の言葉を朦朧とした頭の隅で聴きながら、その声がどこか遠くから響く谺(こだま)のように聴こえることに彩は、何故か鈍い恐怖を感じた。
額に汗で張りついた自分の髪を順子はまるで母親のように優しく指先で整えると、その温かく大きな掌で彩の額をすっぽりと包みこんだ。
するとそれに呼応するかのように彩の閉じた眦(まなじり)から涙がひとすじ糸雨のように流れ落ちた。

『今は何も考えずに兎に角、休んで』

順子のその声を聴くと同時に彩の脳裡に夜の漆黒の水面が浮かんだ。

そこへ銀色の雫が一滴零(こぼ)れ落ちるのを、その閉じた瞼の裏で彩は見るというよりも感じた。
濡れいろに艶めく黒綸子(くろりんず)を張ったように静かな水面に落ちた雫が、広い水紋を幾重にも幾重にも絶え間ないリフレインのように描き出すのを彩は現実のように克明に見た。

『誰の泪なの?』

と彩は微熱と悪夢とに魘(うな)されたかのように枕の上で、首を左右に振ると思わず呟いた。

『エミリーの泪なの?
それともあれはあの時の…』
彩はそう言った。

彼女の脳裡に浮かぶ白い手のひらが闇の中でひらひらと花のように舞った。

そしてその指先は内側をこちらに見せるように振られ、その指の腹は幽かに赤く染まっていた。

彩の中でその指の主の声が響いた。
彼女は彩の持っていた母親の唯一の形見である母子手帖を手のひらでやんわりと突き返すと、花冷えのような微笑みと声で彩の総てを一蹴した。

『そんなもの…
巧みな偽造品じゃないとは言い切れないでしょう?
仮にもし貴女が本当に叔父様の孫だとしても…血は争えないって本当なのかしら?
貴女も貴女のお母様と同じなの?つまり…ご自分を売るお仕事とかなさっていらっしゃるのかしら?
貴女のお母様もそうでいらっしゃったんですものね』

彩は駆けつけたパトカーのボンネットに後ろ手に組み伏せられると、そのまま生まれて初めて見る血縁者の顔に向かって悔し紛れの視線をボーガンの矢のように放った。

『母を侮辱するなんて許さないっ!』

と猛り狂う彩の髪を掴んで警官はその顔をボンネットにもう一度叩きつけた。そしてその警官は予期せぬことを彩に語った。

『あの女性(ひと)はあんたの従姉妹なんかじゃないぜ、
実の姉さんだとさ、
あんた家族から一人だけ切り離されて施設へ入れられていたんだな、
生まれてすぐに棄てられたんだよ、
母親の不貞の赤ん坊だったかららしいぜ、
つまりあの自称、お従姉妹さんはあんたにとっちゃ異父姉妹の姉さんなわけだ』

暴れるように身をよじる彩は警官にコートごと首元を掴んで車中へと牽引され、静かにそこへ座ることを強いられた。
彼女はその辛い姿勢を保ったまま、まるで首を絞められているような吐き気を感じながらも、掠れてよく出ない声でこう言い放った。

『そんなはずないわっ!
姉が居るだなんて……
聞いたこともないっ!』

『居るんだよそれが、
だからもう此処には来て欲しくないとさ、
自分じゃ言えなかったんだろう、警察からお前さんにそう伝えてくれということだ』

パトランプが狂気的な赤の閃光を激しく、と同時に無機質に回転させるのを浴びながら彩は冷た過ぎるボンネットに押さえ込まれ、頬を擦りつけられたその感触を思い出していた。
すると今更その頬に遅れた痛みを感じて、彩は車中に座ったまま心の中で叫んだ。

”凍えてしまいそう、
お願いだれか助けて!”

そんな彩は更なる言葉を聞いても何故か顔色すら変えなかった。
『お前、姉さんをゆすりに来たんだろう?』
『ゆする?ゆするも何もあの人が姉さんだなんて今初めて知ったのよ』
と彼女は吐き棄てるような口調でありながら静かにそう言った。
だが心の中は嵐が渦巻いていた。

『土地売却代金についてだの遺産相続についてなんだかんだとあの人、
言っていたがどうせそんなこったろう』
『土地売却代金??
なんのこと?』
寝耳に水であってもきっと誰も信じてなどくれまい、と彩は思った。
すると案の定『とぼけるなよ、
そのことであんた、わざわざお袋さんの母子手帳まで持ってのこのこやってきたんだろうが?
私もそのお金を受け取る権利がありますよって』
歳の頃には30代と40代の二人連れとおぼしき警官たちは、お互い馬が合うのか、彩のことだというのにまるで自分達のことについて語るように、どこか棄て鉢な口調で縷々(るる)として、話しやまなかった。

『しかし気の毒だよな、
異父姉妹と言ったってそんなのあんたのせいじゃないもんな、
あんたのぶんもあの姉さんが全額受け取ることになるのをあんたみたいなんが現れたら、ハッキリ言ってあの姉さんにとっちゃあんたは兎に角邪魔なわけだ、
異父姉妹と言ったってれっきとした妹だ、
妹にも金を受けとる権利はあるわけだからな』

それに呼応するかのように、歳上風の警官は同情する口ぶりをうわべで装いつつも、
本音は鬱陶しいとしかもはや感じられない底知れぬ無関心が職業柄、染みついて取れないのを隠そうともしなかった。
しかしその率直さの中に彼は無自覚にも滲み出る、浅はかな感傷を、若い彩を前に赤裸々にするとこう言った。

『正直、俺達だって人情的には自分の頭にたかる蝿なんか忙しい警官呼ばずに自分で追えばよさそうなものだとも思うがね、
酷い姉さんだと思うよ。
本当のこと言いたいなら正々堂々お前が言えよってね、
俺たちだってそう言ってやりてえよ、
でも、あんた姉さんをひっぱたいたりしちゃったからな、
それだけであの姉さんもその周りにいる長老達も、これで堂々”妹”さんのあんたを訴えようと思えばそう出来るわけだ』

するともうひとりの警官がまるで慰めるような口調で先輩の言葉を受け継いだ。

『悪いことは言わない、
連中にはもう近づかないほうがいい、
あんな身内なんか最初からいなかったものだと思って諦めたほうがいいよ』

彩は車窓から4、5名の警官に囲まれながら何度も沈痛な顔をして頷く自称”従姉妹”の姉を見た。

”従姉妹”は小首を傾げて何か警官が労いでもしたのだろうか?こんな時だというのに微かに媚びたような微笑を警官達に向かって浮かべて見せた。
その”姉”はパトランプが妖しく回る車中から自分に向かって不穏な凝視を放つ妹の存在に今更気づくと、ややあってこちらを見つめ返した。
そして自分の淡い血染めの唇を拭うように触れると、その濡れた指の腹を彩に向けて、ごく目立たぬ仕草のようにして彼女はそっと振って見せた。

赤く濡れた指先を振りながらも唇の端と目尻だけで嗤う姉を見て彩は今、目の前にある総てを信じたくないと思った。

”生まれて初めて本当の血縁者と出逢えたというのに、
貴女は本当に私の姉さんなの?
子供の頃から親や兄弟姉妹にずっと憧れていた。
でも今私は貴女を姉とはとても信じられない、信じたくない”

追憶の赤い濃霧の底に沈み込んだまま、彩は眦から耳の奥へと流し込むように次々と降りやまぬ糸雨のように枕の上で泪を流し続けた。

『…彩さん…』

やがて額に掌を置かれたまま彩はまるで気を失うかのように深い睡りへと落ちていった。

その朝の光に滲んで揺れる水面をゆっくりと離れて、旧い硝子の断面がぎっしりと重積したような浅緑から深緑へとグラデーションを描く水底(みなぞこ)へと我が身が沈みゆくのを彩は敢えて抵抗しなかった。
そこは冷たくもなく温かくもない。
だが確実にゆっくりと彩の躰は砂地が造るすり鉢状の水底へと青味泥の断層をさっくりと切るように、より深部へと目指すかのように落ちていった。

『何故私はこんなにもエミリーにこだわるのだろう?
こんなに人を愛したこともなければこんなに命がけになったことなどなかった、
どうして?何故?
ああだってエミリー、
貴女は私、私は貴女、
ふたりは壊れたロケットペンダントの片割れ同士なんですもの』

彩は沈みながら遠く明るむ水面で順子が彩を悲しげにまるで祈るような姿勢で見守る姿が、小さく遠ざかってゆくのをぼんやりと見上げながら思った。

『エミリー、今私がこんなにも辛いのは貴女とあまりにも遠く長く遥か彼方なほど離れ過ぎているからよ、
ふたり一緒になれたなら私はまた生き返る、
変ね、
死をもって生き返るだなんて、でもそんなことはいいの、私にはそんなこと、少しも気にならない、
重要なことではないわ
それだけ私には貴女が…
どうしても必要なの!
ああエミリー早く私を迎えに来て!!
この世界は生きていてあまりにも苦し過ぎる、
貴女も私と同じだったでしょう?エミリー、貴女にしか解ってもらえない苦しみだわ、
だからお願いよ、
早く私を此処から救い出して、私に貴女の扉を閉ざさないで!』

水底(みなぞこ)へと落ちてゆきながら彩が見上げる小さく、まあるい井戸のような渕瀬に佇む順子の背後には、さながら舞台の書き割りを思わせるあの異様に形の揃った小綺麗な雲を無数に浮かべた、わざとらしいほど美々しい青空が高らかに在った。
そしてそれを遮(さえぎ)るかのように今度は長身の鷹柳がそっと揺らぐ影の如く現れた。
鷹柳は沈みゆく彩に向かって順子の隣りへ跪(ひざまづ)くとこう言った。

『私はエミリーの歌声に誘(おび)き寄せられたあの船乗りと同じだよ、
時に人魚の姿をし、時に鋼の鉤爪を有するグロテスクな脚と巨大な鷲のような翼で大空を羽ばたき、狙った獲物に襲いかかる魔物セイレーンの餌食となった憐れな船乗りとね、
しかしなんの後悔も無い、
だからこそ私は苦労して6年もかけて神父にまでなったんだ。
解るかね?
それを惜しげもなくやめたのは…君になら容易に解るだろう?吉田くん、
君もまたエミリーと同じ種(しゅ)の女だからだ、
君の後ろにはたくさんの蒼褪めた難破船がわたしには見える、
エミリーもそうだった、
彼女のために座礁したり、
沈んだりした船はまったくその積もりなどなかった彼女が犯した無邪気な顔を持つ罪という名の瑕瑾(かきん)だよ、
だが今度は君が沈む番だ、
吉田くん、
エミリーの鎮魂のためにどうかこの深淵にそのまま沈んでくれ給え』

その声が終わると、同時に慎哉の声がして彩は水底から思わず瞳を向け、
その円く眩しいさながら井戸の井桁のような草地の縁に覆われた岸辺を、
見上げた。
順子を真ん中にまるで小さな池の畔にいるように男達はその周りを取り囲んでいた。

順子の隣で岸辺に両手を突いた慎哉は、あのコーチングの時に出逢った時と同じ桜の花弁のようなペールピンクのネクタイをしていた。

『彩、君は違う!
君はそんなんじゃない!!
帰ってくるんだ!彩っ!!』

''シンちゃんは…”
と彩は水底へ足首を掴んでゆっくりと引きずり下ろされるような心地で、さながら壊れて打ち棄てられたマネキンのように垂直に沈みゆきながら思った。

”あのネクタイはもう持ってないはずなのに…どうして?”

彩は過去とはいえそのごく日常的な幻想に今更戦(おのの)いたが、やがて睡魔に敗れたように慎哉に向かって眼を閉じた。

『シンちゃんごめんなさい、どうかこんな私を赦して』

瞳を閉じたと同時に彼女は凝視(み)た。
瞳を閉じたまま彩はその瞼の裏で見た。

慎哉の隣りに現れたアデルが白いブラウスと濃紺のフレアースカート姿で顔周りに揺らめく金髪を片耳にだけ掛けると、持っていたマーガレットの花束を水底に居る彩に向かって無造作に投げ掛けるのを。

そしてアデルの声は、黄金(きん)いろの目には見えない輝きに濡れそぼったようにその水面に粉っぽい渦を巻き、やがてそれは砂金のようにゆっくりと綺羅めきながら彩に向かって重々しく沈殿し始めた。
彩はその砂金に全身隈無(くまな)く染まりながらその声を見えない黄金(きん)いろの意味として体感した。

黄金いろの意味すら解らないまま、何故かそれを理解として楽器の弦(つる)が震えるように彼女は本能で体感した。

それは鳥達が大いなる危険を察知し、一斉にまるで企てたかのように群れを成して飛び立つあの原始的な理解であって、現代人的な理解ではなかった為彩はそれを咄嗟に理解とは理解出来なかった。

が、それは次の瞬間異う容(かたち)の理解として”知''ではなく”感''として彩の中でそれは自然と伝わった。

そしてその声は声ではなくやがてただの黄金(きん)いろとなって彩の内部を占拠した。

その黄金の意味は言葉にして訳すとこうだった。

『彩、真実を探して、
エミリーは記憶のボタンを一部分だけ大きく掛け違えているの、
それを直せるのは貴女しかいない!』

そう言い終わるとアデルは『それと…』
と、急に正常な人間の言葉に戻るとふたりの男達に向かって叫ぶような悲痛な声でこう言い放った。

『エミリーはそんな人じゃないわっ!
勝手なことを言わないでちょうだい!』

『勝手?勝手が聞いて呆れるじゃないか、アデル!
お前は生きている時に一度だってエミリーに対して優しい、いい妹だったことがあったか?
お前さんはあの酷い母親とそっくりで酷い妹だよ!どんな綺麗事を言って今更その唇を美しく拭おうがわたしはお前さんの地金を見てきたからその本性を知っているんだ!

姉さんが死んだ後でお前のような妹が何を思おうが後の祭りさ!
わたしがどれだけエミリーのために尽くしたことか??
認められ成功した仕事もキャリアも棄て、わたしは彼女の為にだけ決意しイギリスへ渡航した!神学校で神父になるべく学ぶ為だ!
たとえ6年学んでも神父になれる人間は僅か……
篤い信仰を持つ者とて脱落してゆく者も日々いる、
イギリスでのわたしの日々が一体どんなものだったか、
お前などには解るまい!
信仰など無いことを隠し、血の滲む思いを重ねて神父になったのはただひとえに彼女の為だけだった!
お前のように自分のことしか考えなかった我が儘娘には何も解るまいよ』

『だからよ!
だからこそ私は姉さんを助けたいの、貴方には解らないのよ貞夫さんに何も出来なかった私の気持ちは…』

『死人に口無しというが此処じゃ死人は小五月蝿いときた』

横から耐えかねる口調で順子がふたりを叱咤した。
『もうやめたら!?
喧嘩してる場合じゃないでしょう?私達協力しないといけないのよ!
でないと彩さんを助けることは出来ないわ!』

鷹柳は鼻で嗤うと『助ける?わたしにはエミリーを救うために彼女は敢えて供物としての一人に過ぎんよ』

それを聞いた順子は急にいきり立つように声を荒げてこう言い放った。

『そんな勝手は許さないわ!いったい全体貴方は彩さんを殺す気なの!?』

三人が言い争う傍で慎哉だけがまるで別の世界にいるように見えた。
彼は三人の喧嘩などまるで見えていないかのように静かだった。

『彩!行かないで!
君が必要なんだ、
君はたぶんそう言っても信じてなどくれないのかもしれない、
でも本当なんだ、あれからいろいろ考えた、
でも俺にはやっぱり君しかいない、だからどうかお願いだ、彩、
そこへ行かないで!森へ行くんじゃない!
彩!
どんなに呼ばれてもあの深い森へは入っちゃ駄目だ!
君を失いたくないんだ!
早く目を覚まして!
彩!
君を誰よりも愛している!』

その途端アデルが投げ放ったマーガレットの花束は水中でばらばらとなり、白から仄かに赤みを帯びた色へと一転した。

オレンジのマーガレットは彩の貌(かお)に当たり、揺らぐ髪の間やうなじをすり抜け袖の隙間、両太股の間をくすぐったい感触を残しながら水中へと射し込む上界からの光にも似た放射線状の輝くような群れとなって沈んでいった。


やがて彩は瞳を閉じたまま鷹柳が昨夜語った記憶へとその身をゆだねるように想いを馳せた。

オレンジいろのマーガレットは全て沈み、
マーガレットを束ねていた黄金(きん)いろのリボンが、海蛇のように揺らめき頭上に舞い降りてくるのを彩は片手を延ばして掴み取ると、遠く太陽の揺れる水面の彼方から聴いたことも無いはずのコヨーテの鳴く声がさざ波となって伝播するのを感じた。

その時初めて彩は気がついた。

太陽と思っていたものは月であることに。
それは不思議な柑子(こうじ)いろに水の断層を透かして輝いていた。

それと同時に彩は躰全体にさざ波のように伝わる直感で、その月を自分と同じように見上げながらこの水の底のどこかでエミリーもまた泳いでいるのだと気づいた。
でもそれはあまりにも遠くかけ離れ過ぎた異(ちが)う次元の彼方の海なのかもしれない。
そう思う彩の瞳から泪が泡のように溢れ、小さな真珠となって水底へと輝きながら沈んでいった。


そしてずっと水の中を震わせ続けるさながらアルファ・ウェーヴのように響く、コヨーテの鳴き声に彩はなんの不安も怯えも感じなかった。

むしろ深い包み込まれるような安堵と共に自分の生まれつき見知らぬ巨大で恐ろしい、と同時に通常は誰もが見知った''何か”に抱擁されていることに彼女はふと気がついた。

すると彩はこの上ない安堵と共にいつも常に悲しみの胸で軋むようにする、浅い呼吸が次第に深まるのを感じた。

夢はそのまま追憶へと道を開いた。
ゆっくりとその門扉はボトルグリーンの濃霧の中、
彩に向かって開かれた。

新進気鋭と称されつつも25歳になったばかりの美術評論家の鷹柳貞夫は、今や望まずして宿敵とも言うべき立場になってしまった外国人人気画家の自宅へ招かれるという事態を、いったいどう捉えればよいのか?と、内心狼狽し切っていた。

彼は安アパートの室(へや)の洗面所に立ち、四隅が僅かに腐食しかけて、
くぐもった鏡面に映る一抹の怯えをはらんだ自分の顔と対峙した。

彼は健康な歯茎を傷めて出血するほど歯を磨いて磨いて磨き倒し何度も口をゆすぐと、今度は不慣れなネクタイを締めたり取り去ったりを繰り返しつつ悶々としていた。

相手は画家としてだけでなく中年の気品のある英国紳士としても有名な画家である。

スーツのセンスの良さにも定評のある画家を前に、近所のスーパーの紳士服コーナーでとりあえず買ったようなネクタイなど向こうの審美眼にかけられ鼻で嘲笑(あざわら)われるやもしれぬと貞夫は恣意し、
せっかく苦手なネクタイをやっと結んだというのに、
さながら蛇の威嚇音のような鋭い音を立ててそのネクタイを乱暴に振りほどいた。

彼はフランス留学時代向こうの先輩からもらったエルボーパッチつきのツイードジャケットに、黒いタートルネックとジャケットと対のボトムスに頭にはキャスケットというどこか若い年寄りのような似合わない格好を『パリの先輩にもらったものなんだから間違いはあるまい』と無理矢理、武装のように着込んでダルトン邸を約束の三時より5分前に訪れた。


ダルトン邸から近いバス停で降りると彼は地図から眼を放って、
エルムの街路樹に縁取られた小径へと歩き進んだ。

車道側とは反対に延々と続く空に向かって屹立するかのような異常なまでに背の高い金属の塀を彼は見上げた。
塀の鉄柵越しに中の森と呼んでもおかしくはない鬱然たる木立が垣間見える。
この森のはずれに例の画家の棲むダルトン邸が在ることを貞夫は既に識っていた。

黒塗りの金属の塀でその森を隈なく取り囲んだその奥に在るダルトン邸を護ろうとでもするかの如く居丈高な塀の先には、鋭い忍び返しが在った。
忍び返しが一見女の巻いた髪を思わせる優美な曲線を描いた剣先のように下方を歩く者へと一つは向けられ、また枝分かれしたもう一つの花弁のような剣先は天に向かって突き立てられていた。

『けっ…!』

と貞夫は内心舌打ちする想いの中、自分の今日のいでたちは大丈夫だろうか?
と急に不安でいっぱいになった。
もう帰りたいような気持ちで内から弾けそうな中、内側から開く居丈高な黒い門扉が弱気になった貞夫の目の前に現れた。

門扉は既に人ひとり充分通れるくらいの半開きとなっており、その傍には中年の小柄ではあるが拳闘士並みにがっしりとした男が立って貞夫を待っていた。

貞夫を見るとその筋骨たくましい小男はまるで張りのある紙をくしゃくしゃにしたような笑顔を見せてこう言った。

『鷹柳先生?
鷹柳貞夫先生ですよね
お待ちしてました。遅かったですね』

『時間通りだと思いますが?』
貞夫はツイードの袖口を指先で押し上げるとそこいらで買ったわけの解らないメーカー品の時計に向かって慇懃な視線を馳せた。

『玄関までわたしがお供致しますんでね』

と小男は満面の笑みとは裏腹に、妙に落ち着き払ったどこか冷たい口調でそう言った。

この陽気でいかにもひょうきん者でありながらどこか不敵な陰を持つその小男、佐武郎はダルトンを酷評する貞夫を館の正面玄関への直通の道を敢えて避け、庭に設えられた薔薇の迷路を貞夫が疲れるまで連れ回すと言うささやかな意趣返しをやってのけたということを貞夫は随分あとになって知った。

貞夫は咲き誇る大輪の蔓(つる)薔薇伝う金属のアーチを見上げながら、その香気と緊張とに酔いそうになりつつも、
先立ちまるで小走りするかのように瞬足な佐武郎の後を、貞夫は息を切らし、もつれる足で、ただ追いすがるようにしてひたすらに尾いてゆくしかなかった。

若いが体力にさほど自信の無い貞夫が疲弊した頃合いを見計らったかのように、薔薇のトンネルは急に切断されたように唐突に終わった。

貞夫は佐武郎の背後で狭いダクトのような迷路の中から、急に押し出された水のように、広い芝生の庭へとまるで誰かに突き飛ばされたかのような足取りで踊り出た。
そしてそんな自分がとても信じられないとでも言ったように惑乱し切った貞夫は思わず今まで自分が居た薔薇の迷路を現実かどうかと確かめるように振り返った。

目の前に拡がる前庭の遠くへ聳(そび)えるダルトン邸が別名『ビューティフル・ワールド』とビリー・ダルトンの愛妻の名を模して呼ばれていることを彼は知っていたが、その日本離れし過ぎた目の前の風景に貞夫は思わず気後れして息を飲んだ。

『こんにちは、君が鷹柳貞夫さん?』

目の前に突如現れたビリー・ダルトンは館が背後に見える前庭の巨木の下にある円卓の前へ腰掛けていた。
彼は英字新聞を読んでいたがその顔と姿は、大きく拡げ切った新聞と、目の前の風に裾(すそび)引く白く長いテーブル・クロスとに完全に隠されていた。
彼の日本語のアクセントはやや不自然なものの、喋ることになんの支障もないような流暢さでビリー・ダルトンは姿の見えぬ向かう側から話しかけた。
貞夫がその問いに答えようとして何故か息を呑むようにして答えられなかったことに、逆に呼応するかのようにビリー・ダルトンはインディペンデンス紙を鋭い脅しめいた音を立てて激しく閉じた。




to be continued…

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