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連載小説『恋する白猫』第一章・スイートハート

『スミ子、スミちゃん!
ゴハンだよっ
早くお上がり』

光(みつる)は出窓にちんまりと座る白猫に向かってそう言った。

しかし‘’スミ子‘’はもう1時間も前からその窓辺に座り、
三角形の大きな耳以外微動だにせず、まるで猫の置き物のようだ。

原色とパステルの電飾が絡み合いうねうねと窓枠に伝うその出窓にスミ子はもう一時間近くも座り続けている。

猫にとっての一時間とは人間の体感に換算すると一体何時間くらいなのだろうと光は思った。
夕刻過ぎて既に店々のシャッターが一斉に閉まりつつある中、
そののっぺりと灰色勝ちに染まるアーケイド付きの商店街を、スミ子はただ一心に見つめ続けている。
 
正月もとうに過ぎ、2月も近づく侘びしく味気ない商店街の一角に建つこの小さな猫カフェは、近隣に住む孤独な老人や傷ついた心と障害を持つ若者達の鎮(しず)かな溜まり場となっていた。

もっと都市部にある猫カフェならばカップルや゙普通の若者達、
心身共に健康な親子連れなどで、もっと晴れやかに賑わうのかもしれない、
と光は思った。

だがここは違うのだ。 

この町の商店街は近所の‘’しまむら‘’で買い物をする中高年の主婦達が比較的若い層と見なされてしまうほどに、ほとんどが手押し車を引いた7、80代の高齢者達で占め尽くされていたからだ。

急速に過疎の進むこの旧いベットタウンの若者達は何故か人畜無害な知的障害を含む身障者達が多かった。
そしてそれ以外は中学生までの子供達だった。

そんな子供たちも高校ともなれば電車で遠方の街へ通学するようになる。
大学あるいはその卒業後、
彼らは都心へと、都心近くの街へとあるいは海外へと思い思いの新境地を目指して旅立っていった。

光自身も高校卒業後、美容師になるため東京の美容学校へ通っていたものの、一年に満たずして美容師の道を自分は不器用で向いてないとたちまち心の中で小さく頓挫し、程なく親に無断で中退した。
以降、東京からそう遠くない、
そしてやや野暮ったいが、
住むには充分といったコンパクトでまとまりのよい、ごく簡便な街に住んでいる。

そこから彼女は電車通勤で、この如月野商店街の猫カフェ『スイートハート』へ通っているのだ。
もう『スイートハート』の職員となって早、今年で10年にもなろうとする山田光(やまだみつる)は昨年末で29歳になったばかりだ。

地元の東北がいやで彼女は東京ヘと勇んで出てきたものの、
都会に馴染めず激しい失恋と共になんとなく神奈川くんだりへ発作的に都落ちしたのが9年前だった。

『別に東京じゃなくたって、
神奈川ならいいんじゃないの?
そこだって一応は横浜でしょ』

…と言う人も居るには居たが、
光は‘’一応横浜‘’ではあるものの、お洒落な雰囲気とは無縁の小汚ない河口沿いの街に住む自分をほとんど憎んでいた。
憧れていたヘアスタイリストを簡単に諦らめ、猫カフェなんかにまるで逃げるように鞍替えした自分のことを、当時の彼女は、さながら負け犬のように感じていたからだ。

しかし彼女はスイートハートの職員になるべく面接当時、店長夫人に気に入られようと見え透いた嘘を吐(つ)き、なんとか採用されようと小さく藻掻いた。

美容学校を辞めて更には実家へも帰りたくない、その言い訳の為には、働きもせず親からの仕送りでダラダラ半分遊んで暮らすわけにもゆかない。
しかし彼女は親から‘’暫くの間そうしてみるか?
東京の一人暮らしを経験するのも悪くはない”と敢えて提案された。

そんな娘の挫折を労らう解り易い親心にさえ、光は理不尽なほど深々と傷ついた。
暫く遊んで半年か一年したら、
田舎へ戻っておいでとの言葉のその裏に、幼い頃から常に自分に劣等感を抱かせてきたあの白い人影がチラチラ透けて見えるような気がしたからだ。

光は実家で家族が溺愛する猫をさも自分独りが大切に育て上げたかのように面接で縷縷(るる)と語った後でこう言った。

『毎日実家に置いてきたあの子を思い出すと恋しくてなりません、
猫って本当に可愛らしい生き物ですよね』
微かに引き攣った苦(にが)い媚びを滲ませて光は不器用に微笑んだ。

しかしそんな辻褄の合わない光の話に店長夫人は俯向き加減の顔をそのままに、眼鏡越しに光を眺めると撲切棒(ぶっきらぼう)にこう言った。

『そんなに実家の猫ちゃんが恋しくてならないのに、
貴女よくその子を残して東京へなんか出てこれたわね?』

嘘を見透かされて一瞬怯んだ光は返す言葉に窮したものの、
一呼吸置き、ようやく言葉の接ぎ穂を探り当てると口籠(ごも)るようにこう言った。

『でもうちは私以外もみんな家族ぐるみで猫を可愛がって大切にしてるので、だから…
安心して猫を託せたんです、
それに比べたら私の時間なんて、今だけのものでしょう?めちゃくちゃ有限じゃないですか?
だからどうしても田舎で猫の世話なんかで、くすぶっていたくなかったんです』

そしてその言葉の先には『姉のように』というのがあったのだが、
彼女はそれを苦く固いものを口に含んだかのように、妙に首を延ばすと醜く苦しげなガチョウのような顔をして飲み込んだ。

『…そ〜お?
ま、そうなのかもしれないけど…』

と副店長はやや無感動に上辺だけの薄っぺらい肯定をすると
『明日まで答えは待ってくれる?ラインでなくもしオーケーなら、ちゃんと電話で伝えるようにするから』

そう言って彼女は透明ピンクの安っぽい飴細工のようなフレームの老眼鏡を左へ捻じるようにして顔から取り外すとそう言った。

光は特に猫好きというわけではなかったものの、
中学生時代、姉がどこからか拾ってきた黒猫が今も家庭に居た為に、なんとなくつかず離れず猫とも家族とも暮らしていた。

心は弱いが光よりずっと成績優秀だった光の姉はその黒猫を酷く可愛がり、
そんな姉を両親はこれまた酷く偏愛した。

その光の姉は高校で何故か急に不登校となった。
‘’将来お姉ちゃんは東大へ進み、お医者さんになるのよ‘’
とまで言われていたほど成績優秀であったにも関わらず、東大どころか短大すら行かず、三十路を過ぎても‘’家事手伝い‘’という世間向けの詭弁のもと姉は延々親と暮らし続けた。

‘’障害か、あるいは深刻な病気でもあるのか?‘’と暇な近所の人々は噂しあったが特にそういうわけでは無い。

姉は光よりよほど躰も丈夫でスタイルもよく、田舎では誰もがハッするほど水際だった美人だった為に高校時代のクラスメイトにより送られた写真が許(もと)でアイドル雑誌の一般人部門である全国美少女コンテストでは3位以下の特別賞という微妙な立ち位置を取ったこともあった。

もともと勝手に送られた写真審査だけで終わる積もりが、当時の姉の親友や東京に住む従兄弟までもがその気になって、姉を東京まで連れ出し最終の水着審査まで敢行させたのである。
姉は東京へ行きたかったという単純な理由と周りにそそのかされて渋々付き合ったコンテストではあったものの、そもそも最終審査まで残るとは夢にも思っていなかった。
後日東京でモデルをしないかというスカウトもあったのに姉は東京はもう見たしいろいろ経験もしたから充分だと嫌がり、そのことを後々羞じる様子すら見せた。

そのせいなのかは解らないが、
親達は中学までは明朗快活だった姉が高校に入った辺りから急に内気な性格となって引き籠もりたがるようになったことを、当時はさほど深刻に受け止めていなかった。

医者になれなかったのは残念だが、女の子なんだからそのうち誰か教養ある善い人と恵まれた結婚をして幸せになるだろうと親の自惚れから呑気に構えていたからだ。
しかしいつの間にか薹(とう)の立ってしまった娘にはそんな救いの落とし所さえなかなか見つからず、今や先の見通しは皆目つく様子は無い。

多少内気ではあるが根は明るく気立ても悪くはない並み以上に器量良しの姉はモテもしたのに何故そうなってしまったのか、
姉自身も何も言わないし、
親も特に娘に訊こうともせず、
その理由は結局判然とはしないまま月日はどんどん過ぎた。

父親はそんな姉の将来を危ぶむまではゆかないものの、
薄ぼんやりとようやく心配する素振りを見せ始めはしたのだが、母親のほうがそれを男親の杞憂だと一蹴してしまった。

『なんだかんだ言っても瞬(まどか)はまだ若い、今どき二十代で結婚しないからとガタガタ周りが言う時代じゃない、
四十(しじゅう)までにどうにかなればいいのよ、今はまだ瞬のタイミングでは無いのかもしれないし、そっとしといてあげたほうがいいの』

と言う妻に圧されて再度無言となった温和しい父は家庭の女たちにますます追従するようになってしまった。

そんな父を光は無自覚めいた軽侮(けいぶ)を持って見つめたが、
特に口に出しては何も言わなかった。

光はひたすら姉を擁護し、
溺愛する親たちを見て、まるで指先に当たる本の頁(ページ)ほどのもろく切れ味のいい嫌悪感を心の隅でうっすらと感じていた。
そしていつも姉にだけ施されるあの細々(こまごま)とした過干渉を見るたび彼女は性懲りも無く一々傷ついた。

姉を中心とした母と父と、更には姉の愛猫とを取り囲むその色濃い団居(まどい)の中に、彼女だけが何故かどうしても入ってゆくことが出来なかったからだ。

むしろそれを見ていたくないが為に東京へ出てきてしまったというのも彼女の中で芽吹いた薄ら寒いほど過敏な理由のひとつだったかもしれない。
だが光はそのことを人に゙語ることは決っして無かった。

あれほど夢中で大好きだった彼にすら、3年も付き合いながら何故か姉の存在についてはとうとう一言も言わず終まいだった。

光はいつも『私は親に甘やかされて育ったお嬢様育ちの独りっ子』だと人には言っていたからだ。

彼女自身何故そんなことを人に言ったりするのか、
自分でもよく解らなかった。
だがそんな時の彼女の頭の片隅にはいつも、子供時代に見た安っぽいメロドラマで聞いたお嬢様女優の台詞が暗渠(あんきょ)の水に滴り落ちる雫のように鳴り響いていた。

『淋しい少女はいつも幸せみたいなフリをする』と…

そんな家庭の事情ともいえぬ事情の為に、たまには猫の世話をすることもあったせいか、光はある程度猫慣れしていた。
それが無かったら光は猫カフェに勤めようなどとはきっと夢にも思わなかったであろう、
そんな彼女はアパートのポストに投函されていた猫カフェの‘’店員募集中‘’のチラシを見て、すぐに電話で応募をし、翌々日にはもう‘’スイートハートの職員‘’となっていた。

とはいえそう繁盛しているわけでもないこの店は70歳の店長と副店長を務める67歳の店長夫人とが仲睦まじく切り盛りしているごく細(ささ)やかな店だった。
もとは彼らの持ち家を改装したものであるために家賃は要らないという好条件のため、彼らは今では近所のマンションに年老いた愛猫二匹と住みながら店舗へと自転車通勤していた。

半ば猫好きが昂じた趣味半分といえ老後のライフワークとして経営している表向き零細企業的でありつつも比較的金満家のシルバー層が営む何処かしら優雅なそのトーンは誰の目から見ても否めなかった。
なので猫の数も普通の猫のカフェのように多くはなく大抵8匹前後である。
スイートハートは猫カフェであると同時に、ボランティアが保護した幼猫の棄て猫などを中心に収容飼育する譲渡型の保護施設でもあった。その為、一、二年に一度のサイクルで猫カフェの猫達は里親がついて貰われてゆくことが多かった。
それと同時にボランティアの保護主から新しい保護猫が補充されてくる。
なのでいちばん多い時には10匹になることもあるが基本は7、8匹を維持していた。

今日もお客は常連客である統合失調症が寛解状態時の坂本瑞葉(ミズハ)とその母親の恭子のふたりしかいなかった。
35歳の瑞葉はたまに言うことが奇異(おか)しいが、
それ以外はむしろ朗らかなくらいで普段は全く普通の女性である。
いつも隣り゙に付き添っている母親の恭子のほうが病気なんじゃないかと思うくらいに暗かったが正直、光にはそんな客という名の隣人の芝生の色艶などどうでもよかった。

猫が好きで優しく穏やかに接することが出来て、他の客人達に対しても同様、
そしてその対価もきちんと払える、
そのルールを完全に尊守出来るならば、陽キャだろうが陰キャだろうがお客がどんな病気や忌まわしい性癖、人に言えない暗黒の過去を隠し持っていたとしても全然構わない、
と光は思った。

このあと来るお客は…
と光は持ち込みで使っている私物のタブレットの画面を見やりながら、そこによく見る馴染み客の名前を確認した。
それは決まって夕刻過ぎてから来るタクシーの運転手の72歳の朝倉勇(いさむ)の予約が電話で入っているきりだ。
バタッと予約も無しにさながら、すぐ止む通り雨のように現れる新規の客や゙馴染み客も居なくはないが、今日はなんとなくもう誰も来ない気がする、
と光は思った。

‘’ただ一人‘’を除いては…‘’

と人差し指の関節を下唇に゙押し当てながら光はそう思った。

その一人はわざわざ都心から電車で足繁く通う四年前からの常連中の常連の手島亜希子だ。

彼女は猫カフェの猫達に癒やされに来る他の客達とは可成、趣きを異(こと)にしている、と光は思っている。
手島亜希子が逢いに来るのはここの7匹の猫達の中でも、たった一匹だけだったからだ。
その他の猫達に彼女は見向きもしなかったし彼女が贔屓(ひいき)の猫もまた、彼女以外の客に決っして懐くことは無かった。

それが白猫の‘’隅っこスミ子‘’なのである。 

亜希子は日曜を除き毎日四時にスイートハートを訪れ、
スミ子だけに逢いに来る。
そして閉店の8時5分前に亜希子は‘’今から仕事なのだ‘’とスイートハートを閉店きっかりに出てゆくのだった。

迫りくる宵闇のように、自力で振り切ることの出来ぬさみしさを、ぶるぶる震えるほど全身に滲ませるスミ子のその顔を、何度も何度も悲しげに振り返りながら亜希子はスイートハートを出ていく。

その女性(ひと)が珍しく今夜は来るのが遅い、
しかも20分も遅刻している。
いつもは4分前には必ず到着しているはずだった。
そして脱いだジャケットや゙リュックをロッカーへ仕舞うと飲み物を選び、時間指定を‘’いつも通り‘’と言って店長か、あるいは夜の部を一任された光が代わりに宿帳ならぬカフェ帳と呼ぶ古ぼけた大学ノートに記帳する。

いつもなら、この二階屋の奥に在る猫の爪研ぎでボロボロになった象牙色のソファに手島亜希子はスミ子を膝に゙乗せ、ゆったりと座っているはずである。

この旧い元は喫茶店だったという古民家の一階と二階の一部を猫カフェに改装したそう広くはないものの、心地好い空間を、亜希子はまるでそこの女主(おんなあるじ)であるかのように鷹揚にソファへ座るなり、待ちかねたスミ子が彼女の膝に飛び乗るのだ。
そしてあの不思議な空間が生まれる。
それは誰もにわかには信じがたいような魔法がかかったような空間なのだ。
独りの女と一匹の猫を中心に、
この決して広くはない木造モルタルの古民家一杯に゙拡がる、
それはさながら小宇宙だった。
やがてそれは色妖々(とりどり)に拡がるのを光はいつも息を密(ひそ)めて見守っていた。

そしてそれを知っているのはここでは私だけなのだと、光はまるで自負するように心の中で思っていた。
『私以外誰も知らない、
気づきもしない』

しかしそんな中、今日はあの女性(ひと)の来るのが酷く遅い、
何かあったんだろうか?

そういえば仕事で疲れて体調が優れないと2、3日前に亜希子が言っていたことが光の頭に思い浮かぶ。

ふと亜希子への心配が空飛ぶ鳥が自分の足元に落とす一瞬の陰のように光(みつる)の中を闇く掠めたその瞬間、窓辺に座るスミ子が腰を落としたままその華奢な上半身を素早く伸び上げるのを彼女は見た。

スミ子は窓外に見つけたその女(ひと)のために声にならない掠れた声を、小さく戦慄(わなな)くように上げると板敷きの床を見つめてはまた窓外を見つめ、
また床に視線を落としては、
窓の外を見る、
…を忙(せわ)しなく繰り返した。

そしてようやく出窓から音を立てて飛び降りるなり、扉に向かって一目散に馳せ参じるそのまるで思いつめたかのような姿を見て、
光は手島亜希子の来訪を痛感するのであった。

亜希子はいつも通りのミリタリー調のモッズコートで黒のニット帽を被っている。
ニット帽にはわざとなのであろうか?
近くで見るとスミ子の白い柔毛(にこげ)がたくさん付いたままだ。

亜希子は急いで来たのであろう、リュックを下ろしながら足元に駆け寄るスミ子を見て、弾む吐息の下、揺らぐ灯影(ほかげ)のようにどこか不安げな多幸感を滲ませて暖かく微笑む。

スミ子はそれを見て堪らずニャアと鳴いて彼女の膝へ前脚を掛けて伸び上がるようにして抱っこをせがむ。

『ごめんごめん、
今日は遅刻しちゃって、
待っててくれたのね?
真っ白スミちゃん、
窓が明るいから暗くても外からよく見えたよ』

と亜希子は思わず優しい波がさらい上げるように小柄なスミ子を、そっと優しくその胸に抱き上げた。

‘’こんなこと言いたくはないが…‘’
と、熱過ぎる親指を冷たい手のひらに固くたわめ込むと光は猫カフェの規則を亜希子へボソリとこう言い伝えた。

『あの…
コートは脱いでからにして下さい。それと抱っこする前には一応私に断ってからでお願いしますね』

『あっそうでした、
ごめんなさい』

と亜希子はさり気ない様子を装いながらも一瞬緊張がその細面に滲んだ。
彼女は小声でスミ子に詑びるとスミ子の躰を優しく床へ下ろし、慌ただしくコートを脱ぐと、見慣れた蒼紫のマフラーをぐるぐると取り外し始めた。

『今日は遅かったんですね、
こんなに遅いの珍しいからスミちゃんお待ちかねで、
ずっと窓辺に張りついたままだったんですよ』

と光は不本意にもぱっくりと空いてしまった悲しい空隙(すきま)に、まるで継ぎ当てを当てるような気持ちとなってそう言った。

『そうなんですか?
スミちゃんゴハンもう食べました?』

『いいえ手島さん今日遅かったから、スミ子ゴハンも喉を通らなかったんです、
他の子がみんな夜ゴハン食べてるっていうのに、スミ子ったらずっと窓の外ばかり見てたから…』

『まぁ』 

と亜希子は直線的な濃い眉を上げ、黒目勝ちの大きな瞳を瞠(みは)るとスミ子に向かって素早く佇みこう言った。

『私と一緒に食べようね?ゴハンちゃんと食べないと駄目よ』 

白猫にそう言うと亜希子は光を振り返ってこう言った。

『スミちゃんのゴハンまだあります?』

『ええもちろん』

亜希子はそのボウルを光から受け取ると、定位置である奥のソファに向かってあのゆったりとした身のこなしで歩み寄り、いつも通り腰を下ろした。

スミ子はそれと同時にまるで打てば響くと言わんばかりに、亜希子の膝へ飛び乗るや否や亜希子が片手でかざし持つボウルからウェットフードとドライフードを混ぜ合わせた夕飯を安心したように急にガツガツと食べ始めた。

亜希子はそんなスミ子をさも愛おしげに片手で撫でさすりつつ、
片手で給餌をしながら猫にしか聴こえない声で何かを低く頻(しき)りに語りかけた。

もうすぐタクシー運転手の朝倉が仕事終(じま)いの帰途寄りに来る予定だが、光はそれまでに他の猫たちの食べた後始末や馴染み客の残したカップなどの洗いもの、
そして手島亜希子の飲む夜の珈琲を薫り高く淹れなくてはならない。

彼女は信頼出来る一握りの馴染み客にはいつもついつい、
頼んでしまうことがあった。
光はいつも通り言葉少なに亜希子にこう言い置くと、奥のキッチンへ一日の最後の仕事をする為に引っ込んだ。

『じゃあ手島さんすみませんが…
お店番お願いします、
何かあったらすぐに呼んでいただけますか?』

『解りました』

と客である亜希子は当然のように笑顔でうなずく。

ずっと以前、一階にお客が来ると呼び鈴を押し、店番をしている者が中から錠を下ろして扉を開けるというシステムをまだ取っていなかった頃新規の来客時、その‘’事件‘’は起きた。

二人連れの客であった為、
一階の二重扉がうっかり2秒ほど開きっぱなしとなり、
いつの間にか扉付近に居た黒猫のセサミンが、あっという間もなく外へ飛び出してしまうというショッキングな事態が起きてしまったのだ。

光は当時、一階で店番をしていたにも関わらずその事件は不意打ちのように起きた。
そんな時に店内に居た手島亜希子が、ものも言わず疾風(はやて)の如く外へ飛び出して行ってくれたのだ。

心折れて凍りついたようにその場にそそり立つ光の代わりに、商店街の外れまで駆け回って人騒がせな黒猫を捜し出し、
その胸に抱いて帰ってきてくれた亜希子の安寧な笑顔を、光は4年経った今も忘れることが出来ない。

然しながら入店したと同時にスルリと出ていった黒猫を呆然と見送ったカップルは、当時そのことに憤然とし、『私達のせいじゃないわよ!?猫ちゃんがこんなにドアぎりぎりに居るだなんて思わなかったんだもの、
お店の人がもっとちゃんと管理しとくべきだったんじゃないの!?』
と声高に光を責め、それに呼応するように彼氏が彼女を擁護する発言を次々と援護射撃の如く繰り出すために2対1となった光は、震える脚でその場に立ち尽くし、我が身が起こした不注意に、流れ伝う無自覚の頬の涙をただ飲むばかりだった。

そんな彼女の頭の中は猫カフェの猫を逃がしてしまい、一体どうやってこの責任をとればいいのだろう?
とそのことで一杯となり、
その眼の前は真っ暗となった。

そして東北の実家で彼女に失望する親たちと、その背後で憐れむように自分を無言で見つめる優しく無力な姉の美貌とが光の脳裏に冷たく浮かんだ。

何も言わずに光を置いて飛び出して行った亜希子がやがて黒猫セサミンを抱いて帰ってきたのはその約三十分後で、怒ったカップルがとうに立ち去った後だった。

客が途切れた無人の部屋で、
光は思わずエプロン姿のまま安堵のあまり床の上へと泣き崩れた。

そんな彼女を気がつくと亜希子はそっと抱き寄せ、光は彼女の肩に顔を埋(うず)めて咽び泣いたが、
あの時何故、周りの猫達が怯々と遠巻きに凝視するほどの激しい慟哭を上げてしまったのか、光自身解らなかった。
彼女は普段あまり感情を露(あら)わにするほうではなかったからだ。

セサミンが逃げたという予期せぬハプニングが切っ掛けであることに間違いはないものの、
光は亜希子の肩に取りすがって泣きじゃくり、その背中を赤ん坊のように撫でさすられながら心ゆくまで号泣したそのあとで、不思議とこんな寂れた猫カフェで働く自分もそう悪くは無いと思うようになった。

以降なんとなく流れで勤めるようになった猫カフェではあったが、光は‘’そこ‘’で少しずつ充足した時間を紡ぐようになり、‘’そこ‘’へ通う『様々』で『訳あり』な人々とも自然親しみを深めていった。

(第一話終わり)





to be continued to episode-2nd

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