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小説『エミリーキャット』第79章・It's not a coincidence

『またあんた達なんだぁって思ったわよ』

という口ぶりを聞いて病院のベッドの上の慎哉は心の中で“オカマみたいな口ききやがって”と呟いた。

しかしじっと睨みつけるような慎哉の顔を見もせずにメンデルスゾーンコップは慎哉の傍に座る彩にだけ熱心に話しかけた。

『でもさぁ、あんなビルの4階建てくらいはあろうか?って高いとこから真っ逆さまにおっこちたら普通死ぬよ?
下、アスファルトだからね、
九死に一生を得たとしたってさ、首の骨折ったり頭蓋骨骨折とか…
陥没とかね?
生涯車椅子とかそういう事態になり兼ねないと思うじゃん?
ところがあの野郎、
片手首と片脚のみの単純骨折ですんだって云うんだから悪運が強いなんてもんじゃないってぇかさ、
全くもって不思議だよね、
しかも全治5ヶ月ってこりゃ奇跡だよ、』

『……』

彩は黙って頷いたものの、
心の中では“本当に奇跡だ”と思った。
悪運が強いと云えばそれまでだが、陸橋としては可成り珍しい高さのあるその欄干を乗り越えて、頭から落下していった大の男がその程度で済んだとは、増して死ななかったこと事態、彩には奇蹟としか思えなかった。
刑事の言葉は続く。

『なんでもさ、
あの男曰(いわ)く落ちる時、
空中で躰が急にクルッて一回転したらしいんだよ、
ほら猫みたいにさ、

猫って高いとこから落下しても意外と無事なこともあるらしくってさ、それはなんでか?っていうと要するに空中で一回転してから着地するからだって言われているんだって、
これは獣医学的にも有名な話らしいんだけどね、

空中でくるんと一回、回ることによって猫は落下中のパニックを一旦自分で落ち着かせることが出来るらしいんだ。落ち着いてからスタッて着地するってわけだよね、忍者みたいって思っちゃうけどさ、本当は忍者ってそんな映画みたいな芸当、実際には出来なかったらしいから、人間に置き換えられない身体能力だわな、猫だって無論、個体差もあるから落ちて無事な奴ばっかりとは限らないだろうが、躰が人みたいに大きくなくて身軽で柔軟だし、そういった離れ業が出来るんだろうけど…でもまさか人間がそれやっちゃうとはね?俺そんなの初めて聞いたわ、

本人は回ろうとして回った訳じゃないらしくてなんでそうなったのか、さっぱり解らないんだそうだ。
ただ無理矢理、何者かの力で宙返りさせられたような感じだったって言ってるんだ、
まるで誰かがあいつの躰をご丁寧にも空中で回してやったとしか思えないもんな、
だってさ?その為にあいつ、
あの程度の軽症で済んだんだから』

とメンデルスゾーンコップはそう一気に言いつのると突如、ベッドの上にくの字型に渡された簡易テーブルの上の慎哉の為の紙コップを鷲掴みにし、その中の経口補水液を一気に飲み干した。

彩は刑事がごくごくと音を立てて飲むに連れ、その喉仏が激しく上下したり、さながら鶏の卵を飲み込む蛇のように収縮する様を酷く不気味なものを見るように見守っていたものの、刑事はそんな彩の凝視など気にすることなく彼女へと向き直った。

『でね?また質問に戻るんだけどあいつ本当に独りで陸橋の欄干乗り越えて自ら落下していったわけね?』

『そうです』

と彩は刑事のまだ運動収縮している喉元を見つめたまま頷いたが、そう言いながらも彩自身腑に落ちないことだらけだった。

“あの時、私は一体何故急に身体が動いたのかしら?
まるで誰かに突き動かされるように自然と…まるで力強い奔流に押し流されるように、
何も考える余裕など無かった自分とは裏腹に、自分の身体が勝手に動いた。まるで自分の意思とは別の、誰かの意思とが疎通してそうなったかのように…もしかして…”と彩は思った。

“それってエミリー?
貴女なの?”

彩は心の奥底に幾重にも連なり巨大な波紋を拡げるその秘奥(ひおう)で思った。
“だってそれ以外とても考えられない”

刑事の言葉は更に続く。

『でもさあ、
それっておかしくない?
なんというのか…どう考えても…なんっか不自然なんだよね?』

『なんですか?刑事さん、
まるで彩に嫌疑がかかっているみたいな口ぶりですね』

慎哉が後頭部の湿布に巻かれた包帯を気にして苛々と触りながらすこぶる不服そうに言った。

『そんなこと出来るわけないでしょう??
だってあいつ、見たとこそう立端(たっぱ)があるほうじゃなかったけど結構がっちりした奴でしたよ、
そんな奴と彩が一対一で闘って橋の下へ投げ落とすなんて真似出来るわけないでしょう?
漫画じゃあるまいし彼女はごく普通の女性ですよ、そんなことすぐ解りそうなもんだ!
むしろ彩は被害者で、あいつに襲われたんですよ!
彩のほうが橋から落とされるとこだったんだ、それを』

刑事は慎哉のその先の言葉を遮るように、そのほぼ銀髪に近い豊かに波打つ長髪に指を入れると軽く持ち上げるように揺すりながら、
『いやいやそりゃ解ってんだ、あいつ今この病院の別室に居るけれど、ワアワアなんか戯言(たわごと)ほざいてるらしくって…
確認のためにちょっと聞いただけ』

『戯言?』

慎哉は額を覆う包帯が鬱陶しく、指を包帯の下へ差し入れて額をボリボリ掻きながら憤懣やる方ない声で聞き返した。

『まだ解んないけど、あいつもしかしたらクスリでもやってるのかもしれないな、
そっちのほうも怪しいってんで今、あいつの血液検査の結果を待ってるんだがね、
あの野郎、おかしなまるで…
怪談めいた世迷い言、
云いやがって』

『怪談めいた世迷い言?』

慎哉はそう言いながらも包帯をなんとか取ってやろうと留め金の位置を指先で苛々と調べ始めた。

『そう、なんでもあいつ曰くあの陸橋からは吉田さんではなく、誰か別の…
見知らぬ女に突き落とされたって』

『見知らぬ女?』

『しかもその女は、日本人じゃなくて、ガイジンだったって』

そう云いながら刑事は慎哉の手を持つと半ばたしなめる様な手つきでその手を下へ降ろした。
と同時に彩は刑事の言葉を、まるで自分にだけ聴こえる周波数を持つ音を聴いてしまったかのように驚いて彼の顔を見た。
それはさながら彩以外には聴こえない音であり、同時に意味でもあり、犬笛の音が犬にしか聴こえぬように何気なく語った刑事のその言葉で彩は総てを理解した。

『そのガイジンの女が吉田さんの背後から急に現れて吉田さんを助けたってさ、
でもそれも奇妙なんだよな、背後ったってその時の吉田さんの背後は空中だったわけだから』

『ガイジンって…?
彩、そんな外国人、あの時、あそこに誰か居たのか?』

驚いた慎哉は刑事に下ろされた手をすぐに上げ、再び包帯をさも煩わしげにまさぐり始めた。

『そのガイジン女性はあいつに烈火の如く怒ってて、
とっても怖い顔してたって言うんだ、
あいつ曰く落とされる時見たその顔は怒りのあまり般若(はんにゃ)のようで、何故か片眼だけがレーザーみたいに碧く光ってたんだとさ、
それが酷く印象に残ってるって話しだ』

そう説きながら再び刑事は、慎哉の性懲りも無い手をむんずと掴むと慎哉の上掛けの膝の上へと自分の手を上から強く重ねるようにして伏せ置いた。

『片眼が?』

と慎哉はまだ不満げな犬が唸るような声を上げて刑事を睨んだ。刑事はそんな慎哉の眼を見つめたまま頷くと苦笑を漏らしこう言った。

『よっぽど女好きなんだろうな、あのバカ、
怖いけど美人の幽霊だったなんて抜かしやがって、
まぁ、おおよそ落ちた時、
死なない程度に強めに頭でも打って、幻かなんか見たんじゃないのか?って…
誰も本気にはしてないんだけどね』

『…エミリーだわ』

『えっ?』
とふたりの男達は急にそう独りごちた彩を思わず全く似ていない鏡像のように向かい合ったまま、同時に揃って振り返った。

『エミリー?』

とふたりは高低声を合わせ、まるではもるように訊ね返した。

『いえ』

彩はそう言って頭を振り、
俯くとまるでもう何一つ言う積もりは無いと意を決したかのように押し黙った。

エミリーの名をつい発作的に独りごちてしまったものの、彩はその言葉の意味をここの誰にも言うわけにはゆかない、と思った。

そんなことをすれば…
と彼女は思った。
”本当にエミリーとの絆が消えてしまうような気がする、
それは決して自分の意思ではなく、周りの人間模様によって有耶無耶に揉み消され、星の数にも匹敵するような浜の真砂(まさご)へ知らずに落とした一粒の真珠を後から捜し出すのと同じ位の困難となってしまうと彩は思った。

その一粒の真珠のようにエミリーと彼女の棲まう世界は二度とは捜し出せないものとなってしまうかもしれない…”

何事かを黙って恣意する彩の横顔を見つめていた刑事はしばらく沈黙していたものの、

『不思議だなぁ…
俺ね、昔の知り人がそういう変わった眼をしててエミリーって名前だったの、
なんか…彼女を思い出して…
懐かしいな…』
と語り出した。

『昔の?』と慎哉が尋ねた。

『もしかして刑事さんが以前言ってたあの…橋の上で逢った…保護室の?』

『そう、真珠の涙の女性(ひと)…』

『真珠の涙?』
彩はもう何一つ言わないと意を決したことを忘れて思わず、刑事を振り返った。

『昔ね、悪いことしたわけでもなんでもなかったのに、
とても悲しい事情で警察の保護室へ一晩中閉じ込められたハーフの女性がいてね、
彼女が保護室の中で見たんだよ、床に落ちてる不思議なものを…』

『それが真珠の涙?』

彩の声は微かに震戦しているもののその芯は硬くしっかりとしていた。

『そう、彼女はのちにそれを、いつかここへ来る自分と同じ悲しみや孤独を持つ人が流す涙だって言ったんだ。
つまり将来誰かが自分と同じ場所に立って流すであろうその涙の結晶を、時を超えて現在(いま)、見ているのだと云うような…
まぁタイムトリップっていうのかな?
でも俺も見たんだよそれを…
その女性(ひと)がそこを出た後、俺はそれを探したが、
…何故かもうそれは消えてしまっていた…』

それを聞いた彩は思わず強く瞳を閉じた。

"ああエミリーやっぱり貴女なのね?
間違いないわ、
貴女と私は紛れもなく繋がっている、
過去の私、過去の貴女、
貴女もあそこに居たのね…?
あの恐ろしい不安と叫びと悲しみの吐き溜のような場所に…
独りぽっちで今にも壊れそうな自分で自分を抱き締めて…
そして遠い過去から未来に向かってずっと私を呼んでいてくれたんだわ、
“貴女は独りじゃない”って、
そして私達は時空を超えて出逢った…

でも何故どうして私達は出逢ったの?”

慎哉はそんな彩を危ぶむように眉をひそめ、同時に声もひそめるとこう尋ねた。

『エミリーって…一体誰のことだ?』

『…なんでもないの』

『なんでもないって…
それ誰なんだよ?彩、
外国の知り合いや友達なんて彩にいたっけ?
俺、今までそんなこと全然聞いたこと無かったけど…』

そう言った直後、慎哉は記憶の淵へ無理矢理押しやっていたことが今更降って沸いたかのように急に色濃く思い出されてハッとした。

"そういやあの時のあの女…
豊島順子とか言ったっけ、
確かエミリーさんがどうのこうのと彼女もその名を口走っていたな”
と彼は思った。

”彩と同じでどうせメンヘラなんだろうと、ろくに相手にもせず、彩から引き離して山下さんと二人がかりで彩を連れ帰って来はしたものの…
彩はあの日ずっと泣き通しだった、

「順子さんみたいな善い人はこの世の中そうそう居ないわ!
彼女はとても大切な私の友達なのに、シンちゃんはそんな順子さんをまるで気狂いじみたかのような酷い扱いをして!
順子さんは看護師さんで貴方が思うような人なんかじゃないわっ!
私にとても良くしてくれたのに…きっと優しい彼女を深く傷つけてしまったに違いないわ!」

…とあの晩の彩はまるで人が変わったように俺に対して怒り狂っていた…"

慎哉の脳裡にその時の彩の言葉が甦る。

『順子さんのことをもう一度そんな差別的な言葉を使って悪く言ってご覧なさいよ!?私、そんな貴方をもう二度と赦さないからっ!』

彩は頻(しき)りに泣き臥せっていたベッドから電流が走ったような挙措で反射的に顔をもたげると、ほぼ絶叫するように、そう言いつのった。その眼は怒りに燃え盛り、それは明らかに慎哉の見知らぬ熾烈(しれつ)な彩だった。
慎哉は投薬や点滴でだいぶ遠く小さくなりつつある頭痛の片隅で思った。

"あの順子という女…
一体誰なんだ?
あんな頭のネジが飛んだようなのと彩は一体いつどこで知り合ったと言うんだ?
考えられるのは彩の通うメンタルクリニック仲間ということ以外考えられない、
彩は彼女を看護師と言ってはいるが…
メンタルクリニックのナースということか?あるいはナースというのも妄想なのかもしれないぞ、
あんな夢物語じみた話、
どうせ二人の病んだ憐れな女の傷の舐め合いから生じた奇妙な作り話とは思うが…”

そしてそれ以上に気になって仕方がないのは、その順子が言っていた”エミリー”という名前の人物だ。
エミリーというくらいだから恐らくは外国人で女なのであろうが、ビューティフルワールドだの森がなんだとそれこそ世迷い言を口走って気味が悪いことこの上無い、

どのみち彩と云いあの順子と云い、''エミリー“とはふたりの狂女が創り上げた妄想の産物であることは間違いがない、
彩の主治医にこの前逢った時以上に詳細に話して彩の病気の進行が相当のもので今やかなり危険な段階にまで達しているのだと、更に訴えなくてはならない、でないと彩の妄想や幻想はどんどん癌のようにそのステージをレベルアップさせていってしまう。そんなことさせてなるものか!
もとの聡明で明るくしっかり者の彼女に戻ってもらわなくては…!"

『その人、エミリーなんていうの?つまり…名字だけど』

そう訊ねる刑事の眼つきが何故だか彩には酷く不穏なものとして感じられた。
刑事自身も抑え切れない衝動的な好奇と共に個人的過ぎる欲求からそれを知りたく思っていることを彩は強く感じてしまい、”でも何故だろう?過去に警官としてエミリーを見識っている、何かそれ以上のものを、この人からは感じるけれど…
私の思い過ごしかしら?"
と彼女は訝(いぶか)しんだ。

『……』

『ダルトン?それともキーティング?』

刑事は問わず語りにいきなりそう言って躊躇う彩をはっとさせた。何故彼は戸籍上のエミリー・ダルトンではなく、キーティングという実際には使われてなどいなかった父方のアイルランド姓を知っているのだろう?

『…そうなんだね?
偶然かな?それとも…』

何故だか刑事の声は優しい。

驚きと疑問を隠し切れない彩の顔を横目に刑事はわざと話題を反らすように慎哉のほうへとその身体を傾けた。

『まぁそれにしてもよかったじゃない、
あんた身体が相当丈夫なんだね、あん畜生にパンチ受けても頭も身体も異常無し、
レントゲンもMRIの検査結果も全くもって無事、よく身体が丈夫なことだけが取り柄だとか言う人いるけどさ、それって何よりもの事だからね、そんな身体に生んでもらって有難いと思いなさいよ?
ところであの宙返り男のことだけどさ?ここいらではちょっと有名なボクシング・ジムに以前通ってたことがあるらしくって…
喧嘩っぱやくて、よく職場とかでも上司とかとトラブってはひと悶着あってさ、
警察もちょっと困ってる人だったの、
でもあのジムも昔はね、
”山嵜(やまざき)佐武郎ボクシング・ジム''って有名ないいところだったんだよ』

その言葉に彩は再び慄然として顔を上げた。
”山嵜佐武郎?それって…佐武郎さんのこと?”
動揺する彩の隣りで刑事の言葉は尚も続いた。

『あそこは沢山有名なボクサー輩出したしね、
もともと戦後、引退したその山嵜ってボクサーがやってたとこだったんだけどそういうのも全部彼の功労だよ、
彼がもと英国の外交官のお嬢さんと結婚することになったかなんだかで…なんでもボクシング稼業やめなきゃ娘とは結婚させないって向こうの親御さん達から頑(かたく)なに反対されたらしくってさ、
で、彼がボクシング講師、兼ジムの経営やら一切退いて、ジム事態の質が落ちたっていうか……
平成の今やボクシング・ジムというよりはヤクザな輩(やから)の出入りするようなただのちゃらい喧嘩ジムみたいになっちまって…』

慎哉は刑事がそう言うか言い終わらないかのうちに彩に向かってこう問うた。

『そう言えばあの男、
彩のことでなんだか猥褻(ひわい)な…
というか聞き捨てならないこと言いやがって…
あいつの言ったこと全部嘘だよな?』

『……』

慎哉の寝具に視線を落としたまま押し黙る彩を見て、咄嗟に刑事が助け船を出した。

『君が検査中、彼女さんからいろいろと話聴いたんだけどね、あの男と吉田さんとは昔、君と知り合うずっと前よく行くドラッグストアの店長とお客程度の…要は顔見知りだったそうなんだ…
だけどあいつが一方的に君の彼女さんに逆上(のぼ)せててさ、あいつに夜道で待ち伏せされててちょっと…その…
いろいろその時に、一悶着あったようなんだ』

『いろいろ?一悶着って…
なんなんですか?』

と慎哉は刑事をまるで責めるような口調に否がおうにもなった。

『それは…今はまだ彼女は言いたくないだろうから、
追い追い婚約者さんが打ち明けたくなれば、聞いてみたらいいんじゃないかな?
まぁあんまり興奮しないで、身体に障るよ』

そう聴いて慎哉は今度は彩のほうへと鋭く向き直った。
が、刑事はそんな慎哉を制すると同時に彩を庇う口ぶりとなり、慎哉はその持って行き場の無い不安感と憤(いきどお)りを心の中で持て余したまま無理矢理、獅噛(しが)むように隠忍するのがその顔色で見てとれた。
刑事は浅いため息を目立たぬようにつくと言葉を続ける。

『彼女が悪いわけじゃないんだからさ、責めたりしたら気の毒だよ、悪いのは全部あの男のほうなんだから』

『だから一体何があったっていうんですかっ??』

と慎哉はまるで掛け金が弾(はじ)け飛ぶように思わずベッド上の簡易テーブルを拳で叩くと、そう叫んだ。
と同時に彩が席を蹴るようにパイプ椅子から立ち上がると、こう言った。

『私、ちょっと…
御手洗いへ行ってきてもいいでしょうか?』

『ダメだ独りじゃ!』

あまりに鋭敏過ぎる慎哉の反応を見て、彩は急に首輪を掛けられた獣のように怯えた眼を慎哉に向けた。

慎哉の中で何かが囁く。
メンデルスゾーンも豊島順子も、そして連中が語る真珠の涙も何とかワールドも、異口同音に何度も繰り返される『エミリー』という見ず知らずの女の名前も…
全ては狂気からくる気の迷い?単なる偶然の一致?
更にはあの男が陸橋から落下するその間際に見たというガイジンの女というのも果たして全てが"世迷い言"なのだろうか?
何だかそれだけでは済まないような気がする。
慎哉の耳元であの紫がかったスチール・ブルーに輝くような鴉の羽ばたきが大きく反響するような気がした。

『私吐きそうなの、なんだかムカムカして…』

と彩は言った。
しかしその顔はむしろ平静で冷たくさえ見える。
慎哉は彩がどんどん見知らぬ彩へと変貌を遂げてゆく為に目の前で透明の繭(まゆ)のような被膜を一枚一枚脱いでゆくかのような気がした。

『じゃあ彼女がついててくれるから、』

刑事が取りなすようにそう言い廊下に立つ警官を呼び寄せた。中年のずんぐりした小柄な女性警官が丸眼鏡に柔和な微笑みを浮かべ、彩の背に労(いたわ)るような温かい手のひらを置いた。

『大丈夫、彼女が彼女を見張っててくれるから、ねっ?』

刑事は慎哉に向かって少しは落ち着けとなだめすかすような口振りとなった。
やっと深々とため息をついたと同時に肩を落とした慎哉を尻目に彩は女性警官に付き添われながら廊下に出た。

『大丈夫?真っ青よ』
と女性警官は、心配そうな眼差しを向けた。

『ええすみません』

『彼ずいぶん過干渉なのね、あそこまで拘束されると辛いでしょう?まだ婚約中なら本当に結婚して大丈夫な人なのかどうか?よく考えたほうがいいんじゃない?あんなことがあった後だし無理も無いけど…彼、ちょっと普通の人じゃないみたい』

女性警官は、廊下を彩と並んで歩きながら今更その声を潜めて囁いた。
彩の中でたびたび聞かされるようになった“普通''という言葉とそれを言う人々の心の温度差とに彼女は今、あの暗く狭い保護室に居るような途方も無い孤独と虚しさを感じた。

『じゃ外で待ってるから、急がないでゆっくりして』

警官はこの上無い温厚な笑みを浮かべて彩を労(ねぎら)った。

『…ありがとうございます』
と彩は警官に微笑み軽く“普通''に会釈した。

彩は洗面所内の側廊の奥の押し上げ式の窓から、外を眺め、そこから何度も深呼吸を狂おしげにした。
そのなかなか溺れたように容易ではない息の下、彼女は窓外の遠い景色の中、屹立するような鋭い街路樹の上に留まる一羽の鴉を見た。

トイレから出ると女性警官は慎哉の病室の前廊下に立ち、別の若い男の警官と、何か滑稽で不謹慎な談話なのであろうか?
女性警官は笑い過ぎて目元に滲む涙を指先で拭いながら、声を殺してクスクス笑ってはその男の腕を『ちょっと鈴木くんもうそんな話やめなさいよ!』と叩いたりしている。

彩が帰ってきたのを見て、
彼女は然しその笑顔の密度を保持したまま、彩に向かって朗(ほが)らかに頷き、慎哉の病室へ戻るようにと無言の視線で促(うなが)した。

病室の開け放たれた戸口に差し掛かり、彩はその足も呼吸も同時に凍りつくのを感じた。

何故なら慎哉がメンデルスゾーンコップに向かって囁くように話す声は、一語一語さながら点字を指でなぞって読むように彩にはかえって刺激的な感触、と同時に聴覚となって鮮明に聴こえたからだ。

『この今の検査が済んだら、彩を真っ直ぐ彼女の掛かりつけの病院へ連れて行きます。この前のことといい…
この頃の彼女は常軌を逸し過ぎている…。
おかしな女友達まで知らないまに作っていて…
豊島順子とかいう彩より歳上の…恐らく同じ病院で知り合った患者同士の友達なんじゃないかと推測しているものの、その人の話もなんだか支離滅裂で……彼女も彩もまるで狂人だ。だからその人にこう言ったんですよ、
”もう二度と彩と逢わないで欲しい"って』

『そんなこと言ったの?
だって彩さんとその人は友達なんでしょ?』

と刑事も一緒になって声を潜(ひそ)める。
潜めれば潜めるほど何故かその会話は室の隅々までやけにひんやりと響き渡るように彩には感じられた。

『その人は彩の心身によくない影響を与える人だと思ったんです。
恐らく幻想なんだと思うけど妙なことをいろいろ口走る人でもあったし、偶然なんでしょうがその順子って人もエミリーさんがどうのこうのと口走っていたことをちょうど今さっき思い出して…
なんだか不安なんです俺、』

『その女性が?なんでまた…』

『解らない…
でもなんだかどうにも不穏なものを感じるんです、
兎に角もうこれ以上彩をこのままにはしておけない、
彩には思いきって長期入院をさせます。数ヶ月とか半年とか一年でもいい、
彼女にはじっくりと腰を据えた治療と静養が必要なんです、
俺は彼女が心身共に健康になってくれたらそれでいい。
それまで俺はどれだけ月日が経とうが待つ積もりだし、なんとか彼女を治してやりたい…。
半年も失踪しておいて、その間(かん)自分がどこに居たのかもよく解らないだなんて、
相当病状は重いはずだし…
医師に失踪以降の彩の言動についても彩には秘密でいろいろ話したら、医師も確かにそれは不穏な病理状態だと…
今の彼女はそれだけ治療に専念させるべき危機的な状態なんだと思います。
たとえ彩が望まない隔離病棟へ入ったとしてもいっそ長期入院させたほうが長い目で見て、きっとそれが彼女の為なんです』

『……俺は彼女がそう一概にはおかしいとは思えないんだがね、その…吉田さんの友達って女性もなんだけど…もう少し二人の話をよく聞いてみたらどう?最初っからそう拒絶反応示さないでさ、ちゃんと話を聞いてみたら案外何かの糸口が掴めるかもかもしれないよ?』

『刑事さん解ってないんですよ、彩がどんなに重症か、昔の彼女を知っていたらそんな呑気なことは言えないですよ、俺はもとの彩に戻って欲しいだけだ!今の彩はいくらなんでも普通じゃない、
異常です!』

彩は扉の影で聞き耳を立てていたが、やがてその足でそっと外廊下へと退いた。

女性警官は少し離れたとこで鈴木と呼ばれる警官と相変わらず談笑し、やがて彩との間に病院食を乗せた配膳用カートがガラガラと音をたてて運ばれてきた。それは適温配膳車であった為まるで一枚の壁のように廊下を横切る一瞬、その場を分厚く何も見えないまでに完全に塞いだ。
八宝菜の匂いが、ムッと立ち込める一瞬、その配膳車で作られた小さいが完全な死角へと彩はその身を咄嗟に滑り込ませた。そしてその僅かな隙を衝いて目の前のナース・ステーションを配した広い一角に向かい、開いたエレベーターの中へと彼女は猫のような身のこなしで飛び込んだ。

彩がエレベーターへ飛び込んだその瞬間、談笑中であった女性警官は彩の異変に気がついた。
彼女は彩の張りついたような表情を見て、これが異常な事態なのだと急に覚醒してその顔色を変えた。

『ちょっと貴女、どこへ行くの??』
と思わず大声で尋ねた女性警官が駆け寄る前に無言の彩を乗せたエレベーターは、女性警官の『駄目よ、戻りなさい、彼はどうするの?
貴女、どうしたの?一体、
大丈夫!?』
という言葉を残して、その鉄の扉は吸い寄せられるように、
と同時に彼女達を切り隔てるようにふたりの目の前で音も無く閉まった。





to be continued…

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