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小説『エミリーキャット』第76章・メリーさんの羊

若い癖に寝つきの悪い貞夫は何度も寝返りを打ち、枕の上で荒々しいため息をついた。

そして思わずアパートの低い天井の片隅をまるでそこに親の仇(かたき)でも居るかのように睨みつけた。

夜風にガタつく安普請な櫺子窓(れんじまど)からしみ通る隙間風に幽かに揺らぐ蜘蛛の巣を、ずっと前から知ってはいたものの、そこに蜘蛛そのものを見たことが無い為に貞夫はそれを何とはなしに放置していたのだった。

カーテンレールから漏れる瓦斯灯(ガスとう)の蒼白いアセチレンの光を受けて、蜘蛛の巣がまるで濡れた銀糸のように輝くのを見つめながら彼は忌々しげにこう独りごちた。

『朝になったら絶対撤去してやるからな!』

その後も眠れぬ貞夫は開け放った冷蔵庫の前にしゃがみ込むと、その中に何も無いことを今更ながら嘆いた。

仕方無く彼は唯一コップ半杯ほど残っていた牛乳のカートンパックに直接口をつけて飲み干すと冷蔵庫を乱暴に閉め、生臭いゲップをひとつして心の底でこう呟いた。

『あのとんでもなくノッポなメガネ女、とうとう帰ってこなかったな…。あいつまるで仕立てのよいワンピースを着た優美なフランケンシュタインみたいだった、
夕食にも顔を出さず仕舞いで自分の父親が呼んだ客人に対してどれだけ失敬な奴なんだ!俺が父親に多大な影響力を持つ人間だと知ってか知らでか、だからといってもう子供じゃないんだ、
少しは礼儀を弁えるべきではないのか?』

彼は再び湿っぽい万年床の上へ勢いよく寝転びはしたものの、その日見たあの酷く日本離れした光景、
それはまさに彼にとって甚だしいほどの未曾有であった。

巴里に留学していた身である自身であってさえ、初めて身近に感じた異国情緒あふれるその館内や館内の家具、
そして調度品の数々、
何よりもダルトン家の一族とその周辺の人々への忘れ難く余りにも稀有で鮮麗な印象、

噎(む)せるほど薫り高く、
果てしなく思われたあの、
めくるめく薔薇の迷路、

その薔薇の迷路を含む前庭は過剰なほど緻密に手入れのゆき届いた幾何学的デザインを誇るフランス庭園部分と、
一見野趣で素朴に見え、実は意図されたバランスの中にある英国庭園の二つの顔を持つビューティフル・ワールドの風景のひとつひとつが彼の脳裡に焼きついて離れず、興奮した貞夫は益々眠りにつけなくなった。

今日見たことは本当にすべてこの高度経済成長という日本の巨きな夜明けの波に乗りつつある昭和の日本で見たことなのであろうか?

東京と横浜の狭間(はざま)に在るあのどこか冴えない寂々とした街で見た出来事だったのであろうか?

白昼夢であったのではないか?昼下がりから夜にかけてまで続く白昼夢…
と彼は思った。

しかし眼を瞑ると彼の脳裡にはあの森へと遠ざかる女を見送った後に見たあの不思議な一枚の絵がまざまざと浮かび上がるのだった。

あの一枚の絵が華麗な洋館『ビューティフル・ワールド』以上に彼の心の中をいっぱいに占拠してしまったことは、貞夫自身やはり美術評論家であり、絵を何よりも愛していることの当然の現れであると貞夫は思った。

圧倒的な魅惑とボリューム、それらが氾濫するビューティフル・ワールドでのあの稀有な体験、

重々しく厳(おごそ)かでありながら同時に華美なエキゾチシズムと綺羅びやかな香気を纏った空気感、
貞夫が留学時代からいつまで経っても慣れないあの白人特有の体臭を内包した天鵞絨(ビロード)張りの体感と夢想とを貞夫は想う時、
それらを覆い尽くすいかにも無敵な印象を、あのたった一枚の奇妙な絵がいとも軽々とその一切を凌駕してしまったことが彼には嗤い出したいほど小気味よかった。

『あれは…』
と貞夫は天井の一隅に"宿り主"不在のまま濡れ色に綺羅めく銀の蜘蛛の巣を眺めたまま呟いた。

『あれは一体何だったんだろう…?
やっぱり夢なのか?
それとも過度な緊張の中に居た俺の錯覚?
いやそんなはずはない、
あれは夢や錯覚なんかじゃない』

彼は薄っぺらい煎餅布団の上へ勢いよく起き上がり、腕組みしたまま頭を捻って独り暮らしの常で態とらしく声に出し、まるで独り舞台の大根役者の如くこう独りごちた。

『…ダルトンにあんな一面があったとは…
一体、俺はダルトンを見誤っていたということか?』

彼はふと腕時計をしたままパジャマを着ていたことに今更気づき、枕上(まくらがみ)にあるスタンドを点けるとその灯りで時刻を検めた。
夜の3時であった。

腕時計を外し、スタンドの傍へ置くと貞夫は諦めたように消灯した。
と同時に彼の想いは僅か数時間前まで居たビューティフル・ワールドへとたちまち、その記憶の時計の針を巻き戻していった。

あの日、
大猫と共に森へ遠ざかり、
いつの間にか姿を消したあの女を目で追うことを諦めた貞夫は、ダルトン達の誘うがままに居間へ続く廊下へと出た。

扉をくぐる寸前、
扉越しに貞夫は女が姿を消した森を見て、あの森がもっと本格的な秋をこれから迎えたらどんなに錦に染まって美しいかを想った。

まだ晩秋には後わずかに一歩だけ早いその季節、
セピアと鉛白とに染まる一見無機質げな冬枯れとも違い、まだどの季節にも属していない薄蒼い狭霧にひんやりと遠く煙る森はさながら紫水晶の帯のように裾拡がりに在った。

彼は彼を誘(いざな)うダルトン家を筆頭に出たその長い廊下を何故かしょんぼりと項垂(うなだ)れて歩いた。

廊下は日中でも薄暗く、同じ装飾彫りの施された重厚な扉が一定の間隔を置き、整然と並列していた。

そしてその並列する扉の一つが、まるで誰かが内側から指先でひと突きでもしたかのように音も無く自分に向かって小さく開くのを貞夫は見た。

今にして思えば、あれはダルトンのアトリエの一室だったのか?

…と貞夫はアパートの天井に残る雨漏りの跡がさながら子供の寝小便が褥(しとね)に描くあの地図のように見える様を憎み、その真隣にため息ほどの夜気にすら、びろびろと振戦する蜘蛛の巣へと視線を反らせた。

そして瞳を閉じたその瞼の裏で彼の追想の中、僅かに半開きとなった扉の陰から垣間見える濃い鉛紫(えんし)の薄闇の中に沈みつつも同時に浮かび上がるようなその貌(かお)を貞夫は再び見た。

あの日の貞夫は何気無くを装いつつも内心好奇心剥き出しでその室内へと横目を露骨に滑らせた。

日本にいながらにしてこんなに大規模な洋館へ個人的に招かれて訪れることなど、もう二度とはあるまいと貞夫は思った。
見れるところはどこでも見て、この目に焼きつけておいてやろうと彼は思った。

だがそう思って軽弾みな好奇心から覗き見したその室内に、廊下から漏れ伝う柑子(こうじ)いろの灯りに照らされた闇の中にその白っぽい何かが一つの塊(かたまり)となって浮かび上がるのを、彼はハッと息を飲んで見守った。

よく視線を絞って見澄ますうちに貞夫はそれがどうやら誰かの顔で、その者が闇の奥からこちらを見ていることを理解して思わず佇立した。

"室(へや)の中に誰かいる…!"
と貞夫は思った。

"しかもこちらを見ている、
俺も見ているが向こうも見ている、
あれは…使用人なのか?
それともここの家族の一員なのであろうか?"

だが室内を満たす闇に眼が馴れてくるにつれ、それはこちらを向いた人間の顔などではなくイーゼル・スタンドに立て掛けた一枚のカンヴァスに描かれた白っぽい絵の中の顔であることに貞夫はようやく気づいた。

それは大きな作品で、そこに描かれていたのはまさに人間の顔の大きさと寸分違(たが)わぬ羊の顔であった。

その羊は自分の周りに無数に群れ集う他の羊達に紛れてその羊達の波に押し流されそうになりながらもどこか怯々としたその眼を見開き、一体何に驚いているのか?

慄然としたその眼を一頭だけこちらに向かって張りつくように投げかけているのだ。
一心にこちらを見る羊の顔はしかし、動物の顔をしてはいなかった。

一見動物だがまるで人間があまりの衝撃に大きくその眼を見開き、口はだらしなく人のように半開きとなり、無いはずの眉をひそめているようにすら見える。
羊は他の羊達の中へ紛れ込み、こちらからは理解不能な彼だけの恐怖と不安から逃げ切る為に同類ではない同類の奥深くへと必死で埋没してしまおうとしているかのように見えた。

しかし周りの羊達はまるで惰眠を貪るかのように無表情で平和で愚鈍なまでに鎮かだった。
そんな平常な微睡(まどろ)みの中に居る羊達の中で何故か彼独りが羊なのに羊ではなかった。

が、描かれているのはあくまでも羊達の群れなのだ。
奇妙な羊を含め羊達は麗(うら)らかな木洩れ日の中に身を寄せあってただ睡るように立っていた。
木洩れ日は羊達の躰中に眩しい光と淡い陰とを物憂げに落とし、羊達の躰中にそれらは平和な斑(まだら)模様を造っていた。

しかし、さながら防水布の上に零した水滴のようにその羊だけが仲間とそれらを取り巻く世界へ浸透することを赦されず、彼だけが仕方無く異世界に独りぽっちで居るかのように見えた。

羊は木洩れ日という斑模様の中で異様なまでに白々と一頭だけ浮かび上がっていたからだ。
さながらその羊だけが誰かによって不条理なスポットライトを照射でもされたかのように貞夫には見えた。

しかし羊はそれを望んではいないのだ。
貞夫にはそれがよく解った。

そしてどう見てもその姿形は羊であるのに貞夫の腕時計の秒針の進行に添うように徐々に羊の顔は人間の顔に見えてくることが貞夫には恐ろしく、同時に酷く蠱惑(こわく)する出来事でもあった。

そしてその羊を貞夫は魅了を伴なう悪夢の如く見入っていると、羊の顔はだんだんその雌雄(しゆう)の差を溶解するかの如く曖昧模糊なるものへと見る見る変容していった。

その弓を射るような眼も、
どこかだらしなく締まりのない口元すらも、まるで何かを言いたげに幽かに蠢(うごめ)き、水面のように揺らめき出すかのように貞夫は感じ、
そのことに対して彼はときめきを覚えながらも同時に酷く怯えた。

そして貞夫を見つめ返す羊もまた怯え、惑い、怖気(おぞけ)だつその顔を、普通の羊の群れの中から一心に何かを貞夫に向けて伝えようとしてくる。
その戦慄し、総毛立つ瞠目の先にあるものは一体なんなのだろう?と貞夫は思った。
そして貞夫は絵の下に黒い絵の具で走り書きされている英語の文字に気づいて思わず視線を絞った。

『Mary had a little lamb』

痙攣する手で描いたようにひきつれたその文字はさながら書けない文字を麻痺した手指で無理矢理書いたように見えるほどの乱筆だ。
貞夫はそれを絞った視線の先で辛うじて読むと、心の中でその言葉を思わず牧草を食(は)む羊のように反芻した。

『マリーとは…
もしかしてあの"メリーさんの羊"という唄の…
あの羊のことなのだろうか?』

羊はただただこちらを固唾を飲み、貞夫に向かって怯えた眼で振り絞るように凍りついた凝視を放つのをやめない。

貞夫はそのおよそ羊らしくないその癖、紛れもなく羊という奇妙な彼、あるいは彼女の顔を見るうちにふとこう思った。

『ところで「マリー」は…
いや「メリー」は…
いったいどこに居るんだろう?あの羊はマリー…と同時にメリーの羊なのではないのか?』

絵の中で絵のテーマや 題材にある者や物が敢えて画(か)かれていないということはよくあることの筈なのに、それでも貞夫は思わずメリーを探す思いとなった。

すると胸の奥から、
そしてその昏い部屋の秘奥から、その両方から羊の声が貞夫に忍び寄り、やがて彼の中に充満するような感覚に襲われた。

貞夫は息を止め、固唾を飲んで羊を見つめ、羊もまた食い入るように貞夫を見た。

すると徐々にと同時に非常にゆっくりと、そして非常に素早く、羊が絵の中から抜け出し、羊の群れから独りだけ貞夫に向かって急接近してくるように感じられた。

羊の黄金(きん)いろの眼の奥に潜む、引き絞った黒点のような猛禽類を思わせる奇異な瞳は、その小ささとは裏腹にまるで人間のように瞳孔が開いていることに貞夫はふいにまるで至近距離で見たかのように突然気づき、芯から怖気立(おぞけだ)った。

その瞬間、羊は貞夫の耳にぴったりと濡れた口吻(こうふん)を擦り寄せ、熱く獣臭い吐息と共に悲痛な、そして男女無分別な声でこう囁いた。

『メリーは何処にも居ない』と…。

貞夫は冷や汗がひとすじその背筋に流れ伝うのを感じた、それと同時に彼の手は多面カットを施した無色透明のクリスタル硝子のドアノブへと無意識に添えられていた。

次の瞬間、彼は電流が走るような痛みを感じて硝子のドアノブから手を引っ込めると自分の指先を信じられないもののように見た。

貞夫の指の腹はまるで針で突いたかのようにつややかな珠のような血の雫を小さくぷっくりと結んでいた。

慄然とした貞夫が見た硝子のドアノブには僅かだが何かにぶつかって欠けたのか、
鋭い亀裂があった。
そしてその上には彼の鮮血が滲(にじ)み、それが暗く光って見えた。

躊躇(ためら)いつつも傷ついたままの指先で彼はもう一度そのドアノブを握りしめようとするとその震える手の上へ次の瞬間白く小さな人形の手が差し置かれたことに彼はゾッとして振り返った。

薄闇の中、その闇よりも濃い暗髪(くらがみ)に両頬をはさむように包み込んだ美世子夫人の白い貌がそこにあった。
彼女はあの西洋人形を胸に抱いたまま、こちらを凝視(み)ていた。
美世子夫人とビスクドールの四つの瞳が、薄暗い廊下の側灯に照らされて色違いであってもさながらひと番(つがい)のもののように濡れいろに輝くのを見て貞夫は本気で怖れた。

その逆三角形の小さな貌と容(かたち)のよいやや肉感的な唇で彼女は闇の中、囁くような低い声でこう言った。

『鷹柳さんどうなさったの?
みんな貴方を待っているのよ、早くいらっしゃいな、
お茶が冷めてしまうわ』

『……』
すると余りにも色蒼褪めた若者の顔を見て美世子夫人もその不安が伝播したかのような顔つきとなった。

『…貴方…大丈夫?』

そう言う美世子夫人の大きな瞳は廊下の闇の中、
ますます濡れ色に光り、貞夫に向かって急に労(いたわ)るような深い黒葡萄の色を見せた。その瞳の奥に在る貞夫への同調、懸念を含む温もりを見た貞夫はふと美世子夫人は本当は自分が最初感じたような冷たい女などではないのではないか?と一瞬思弁した。

『…ええ大丈夫です。
ただちょっと驚いてしまって…
あのう…あれは…
…あれは一体?』

そう言って巡(めぐ)らせた青年の視線の先を見た美世子夫人は、貞夫には酷く長く感じられる異様な沈黙を守った。

夫人はそのお白粉を塗っているのかと疑うほどに白く艶(なま)かしい手を貞夫の手の甲からまるで溶いた胡粉(ごふん)が滴(したた)るように彼の視界から液状となって流れ去り、同時に闇霞(やみがすみ)に沈んで何処へ消え果てたのかすら判らぬほど、彼の視界からすっかり消えて見えなくなった。

『奥さんあの…あの絵は、
あれは…その…
…ダルトンさんの新しい作品ですか?』

やっとの思いでそう言いつのった貞夫に、彼女は露ほども反応を示さなかった。

美世子夫人はあの絵を見たはずなのに、その貌は違うものを見ているかのような静謐と到底理解の及ばぬ冷酷さとに支配されるかの如く、微動だにせず造りものじみて見えるほどに無表情だった。
その為貞夫は"こんな無表情は生まれてこのかた見たことが無い"と思ったほどだった。

貞夫はふと美世子夫人の眉ひとつ動かさぬまるで人形のような過度な無表情の中にかえって大きな波紋を描く深過ぎる動揺を見た思いがしたものの、その思いに貞夫自身、他の感覚同様決して自信があるわけではなかった。

そんな怖じ気づいた心中、
貞夫の前でその扉はただひたすらに無言の美世子夫人によって、何故か疲れ切ったかのように非常にゆっくりと閉められた。

すると扉の向こうで羊は声にならない悲鳴のような、
助けを求める悲愴な表情を一層、色濃くしたが、その上からやがて永遠の闇の如く完全に扉は閉められた。

美世子夫人はそのまま何も言わず、ただ奥の居間へと貞夫は無言の所作で導かれ、やがてダルトン一家との宴は始まった。
そしてあの奇妙な眼鏡を掛けた女はとうとう森から帰ってはこなかった。

ダルトンの言葉に依ると、
彼女は森にある彼のアトリエに行ったのであろうとのことで、良人(おっと)の言葉の接ぎ穂を接ぐように、
"あそこには暖炉もあればキッチンやベッドもある、
生活に必要な何もかもが揃っている、
彼女は暖炉の火を興すのも消すのも徹頭徹尾、そういうことだけは完璧なので何ら心配は要らない、
放っておけばいい"
と母親の美世子夫人がティーカップに唇をつけようとしてその一瞬息を止めるよう、
どこか索然(さくぜん)とした口調で言い放つのを貞夫は聞いた。
そんな時の夫人はまるで他人事を語るように酷く無関心に見えたが貞夫はそれを心の片隅で小さく不可思議に、と同時にその怜悧過ぎる様子を"本当だろうか?"とふと疑問にも感じた。

すると更に母親の言葉を継ぐようにハリエットが半ば呆れたような声色でこう言い添えた。

『おまけにキャットフードの缶や袋が幾つもストックしてあるのよ、
まるでパパのじゃなくて姉さんのアトリエみたい!』

と誰もあの女の心配をする様子がないことを貞夫は最初違和感を持って感じたものの、そのような彼女だけの隠し砦があるのだとしたら、あの女はもしかしたらそこで、わけは解らぬがどこか冷ややかなこの家族から離れて、愛猫とふたりきりでそっと息がつけるのかもしれない、
などとつい思ったりもした。

その夜、貞夫はとうとう眠ることが出来ず夜明けになってからようやく得た浅い眠りの底で見た夢の中、
あの森は驚くほど色鮮やかに紅葉し、それに熔け入る黄葉と常緑樹と共に見事な綾織りと化した裾拡がりの森の彼方へと立ち去るあの女の後ろ姿を彼は何故か悩ましくそして狂おしい想いで見た。

女の足元を秋風が立ち、
病葉(わくらば)を巻き込んで渦を巻いて去ってゆく。
そんな色無し風の中、
女が立ち去ってゆく後ろ姿はあの日見た時より更にどうしようもなく哀しげだ。

やがて女は腕の中の猫をそっと地面へと下ろし、猫は女と並んで自らの意思で森へと向かう。
ふたりは歩きながら互いの顔を見合わせ、揃って歩を進めゆく。
そんな女と年老いた猫との親密な光景を眺めるうち、
貞夫の目の前にいつの間にか屋外であるにも関わらず一つの扉が立っていることに気がつき、彼はその扉を音を立てて閉めた。

すると全ての風景は一変し、そこはあの館の中にある、
…しかし現実の館と違って先が見えぬほど果てしなく長く、そして昏い廊下だった。

しかし彼は何故か安堵のため息をついた。
そして何かの気配を感じて振り返ると、そこにあの羊が立っていた。

壁から等間隔に突き出す蜜いろの鈴蘭灯に照らし出された暗闇の中、
羊はただ廊下に立ち尽くし、一心に貞夫を凝視していた。

そして羊はこう言った。
男でも女でもない、
同時に男でも女でもあるその声で羊はこう囁いた。

『わたしはメリーの羊だが、メリーのものではない、
わたしはわたしなのだ、
どんなにそれが辛いことか、
わたしはメリーのものどころか羊ですらないのだ、
どの世界のどこにいたって、いつもわたしは無所属なのだ、わたしはこの痛い孤独の中、一生メリーを求め探し続けるだろう、
そしてお前もそうなのだ』

貞夫は飛び起きて、いきなり冷水をかけられたように戦慄(わなな)く胸を抑えてこう思った。

『俺は真のダルトンを知らなかったのかもしれない、
ただの見映(みば)のよい甘美なだけの絵を描く奴と思っていたがあんな絵を描く者は…』
と、彼は額の汗を拭って闇に囁いた。

『…ただ者ではない』

それにしても何故今までダルトンはあの平和であると同時にどうしようもなく平板な、まるで絵の巧い大学生が描いた作品に毛が生えたような、
愛らしく甘やかな、同時に幼稚で無味乾燥、平板な世界ばかりを延々描き続けてきたのだろう?

彼の作品は画家としての技術は頗(すこぶ)る高いものの、
それがかえって仇(あだ)となり、貞夫の眼にはそのアカデミックさがむしろ痛ましく同時に薄っぺらくすら見えた。
そこが日本の老いも若きも婦人達の人気を病的なまでに集める要因だったのかもしれない。

それはそれでよい、
そういう作品もあってよい、と貞夫はもうひとつの脳裡で思った。
しかしもうひとつの脳裡でこうも思った。

しかしながらあんな鳥肌が立つほどの畏怖を感じさせる作品を描ける第五感と、そこから醸し出される並々ならぬ神がかり的技量が彼にあったとは…
今までそれをずっと隠してきたということか?
でも何故?
…何故隠す?
あの白々しいほど甘美な作風でこの日本での人気と地位を不動のものにしたダルトンは、本来の顔をひた隠しにしていたというわけなのか?

それならば…
と貞夫は思った。
俺があの平和な羊飼いダルトンという無垢な仮面を剥ぎ取って、彼が秘匿する真の才能を世に知らしめたい、
そうすればダルトンは日本のみならず世界的巨匠と呼ばれる切符を手にすることが出来るはずだ。

俺としたことがダルトン氏の真の才能を見抜くことが出来なかった!
だが今は違う、
あの絵を知ってしまっては、新たなる王国を発掘してダルトンの真実にこそ光を充てたい、
このままではそれこそ宝の持ち腐れだ、埋もれ木だ、
俺はもう一度、芸術に携わる人間としてダルトンに逢わなければならない、
そしてもう一度正式にあの絵を見に行くんだ。

偶(たま)さかとはいえ、
あんな物陰から盗み見という形などではなく、今度は真っ向からあの絵を俺は誰に遠慮もなく寸分余すとこなく、
時を忘れて見惚れてみたい、
あの作品なら必ずや世界に通用する!

彼が本当にあの絵の作者であるならば…

そう思ったあとで貞夫はふと自分の可笑しな考えに気づいて、思わず自分で自分を訝(いぶか)しんだ。

"作者はダルトンに決まっているさ、だって他に一体誰が居るというんだ?"

眠れないまま朝を迎え、
カーテンレールの隙間から受ける黎明の光に天井の一隅の蜘蛛の巣が虹色に輝くのを見ながら、貞夫はそんな自分の奇妙な疑惑ともいえぬ一瞬の気の迷いを蜘蛛の巣と同じくらいの脆さで嗤った。

不思議だ、と彼は思った

今まで馬鹿にしていた画家に対して急に言うに止まれぬ関心と震えるような尊敬と賛美とが湧き上がって来て、
それを止めることすら出来ず、そのことばかりを考えてしまう。
考えるのをやめようとすることがむしろ苦しいほどなのだ。

ダルトンとの再面談のアポイントは出版社を通じてあっさりと通り、貞夫は似合わないキャスケットだけはやめたものの、前回と全く同じ服装でダルトン邸を訪れた。

生真面目な彼はまたあの薔薇の迷路を踏破せねばダルトン邸へは辿り着けないと思い込んでいた為、朝から憂鬱で堪らなかった。

しかし予定の時刻には、あの居丈高な門柱の傍でやはりあの日同様、ニヤニヤ笑いをやめない佐武郎が立って貞夫を待っていた。

しかしこの日の佐武郎は貞夫を全く異方向へと導いた。
そして今度は取り立てて苦闘することもなく真っ直ぐ館の入り口へと到着した貞夫は、逆にそのことに仰天する思いとなった。

"この佐武郎という奴は…"
と貞夫は憎々しく思った。

"故意に玄関を遠ざけて俺をわざわざあの蔓薔薇(つるばら)伝う迷路へと連れ込んだというわけか?"

"なんて俺は単純なんだろう!"
と彼は思った。
芸術家というものはたとえダルトンのように一見凡庸に見える人物であったとしても皆、迷路だなんだと無駄に美しいだけのものをわざわざ身近に設(しつら)えて、そこを通らなければ館へは入れないというある意味、常軌を逸した真似を好むようなとこがあるのだろうと貞夫は妙な納得をしていたからだった。

佐武郎に一本やられた!
と貞夫は悔しく思った。

有り余る想像力による憶測に振り回されて妙なストーリーを創り上げていたのはむしろ自分のほうだった、と貞夫は情けなくなった。

だがこれからあの『Mary had a little lamb』を見られるのだと思うと、たちまちそんなことはどうでもよくなり、
貞夫は胸の内が夜の暗い波のように大きく騒ぐのを感じた。

あんなに蠱惑(こわく)する絵は今の世の中そうはない、
描かれている対象が凄艶なファム・ファタルなんぞでも無ければ、夜や夜明けや夕刻の空や壮大な海、あるいは神聖さを感じる山林の風景などでもない、

むしろ無骨な絵といってもよい。そのマチエールは不用意に触れれば指先が傷つきそうにツノが立つ部分集合の面と、薄っぺらく透き通るようにスムースな面とがまるでシームレスのようになんの不思議もなく溶解しあっている、
正反対の肌合い同士が絵の中で喧嘩することもなくすんなりと成立した稀有な絵でもあった。

ビリー・ダルトンはあのほんの一匙、紫を加味したようなネモフィラの花を思わせる碧眼と、変わらぬ陽気な笑顔とで、貞夫を迎え入れてくれたものの若い美術評論家の口から情熱を持ってとうとうと語られる羊の絵の話に急に顔を曇らせた。

『そんな絵は知らない』


…と一点張りのダルトンは挙げ句『夢でも見たのではないか?そのような作品は我が家には無い』
とまで言い出し、貞夫は絶句した。

美世子夫人と娘達は不在であったものの、佳容が丁寧に淹れた薫り高いダージリンに口をつけながらも貞夫は強過ぎる惑乱に紅茶の味すら分からず、その指が震えた。

ダルトンが美しく紅葉した庭や森を佐武郎と共に少し散策してから帰るとよいと混乱する青年を憐れみ慰撫するように薦めた前庭を、貞夫は心許なく練り歩いたのち、
無意識にまたあの薔薇の迷路へと踏み込みそうになっていた。

『オニイチャンよう、
あんたまた迷ったら拙(まず)かんべ?』

と白々しく云う佐武郎を振り切って断り、貞夫は灰色がかったもの悲しげな淡紫(うすむらさき)の冬薔薇が早くも咲き揃う茂みの中を沈潜しつつ、
漫(そぞ)ろ歩いた。

そうすることが今の自分には必要なのだと云わんばかりに彼はただ歩き通した。
佐武郎の『おら知らねぇよ?嬢ちゃん達やここの家族は助けても、あんたは迷ったっておらには関係ねえだ、
迷うならちゃんと覚悟してから迷うんだな』

…という無慈悲な言葉を背(そびら)に受けても尚、貞夫はその言葉から逃げるように迷路の中へと歩み去っていった。

何故そんな無謀な真似をしたのか、平素慎重な彼としてはあり得ない発作的な行為であったものの、彼にとってあの絵ともう二度と出逢えないということは恐ろしい絶望を現していた。

"ではあれは一体なんだったのか?"貞夫は心の中で密かに叫んだ。

"幻だったとでも云うのか!?あんな幻があるか!?"

と彼は思った。
"あんな確かな幻があるのか?それとも幻だからこそあれほどまでに確かに見えたというのか??
俺は幻など見たことがない、そんなものは信じない!
しかしだからこそ、幻を現実と取り違えているだけなのか?
…だとしたら…"

と彼は入ってまだ浅い迷路の薔薇の茂みの前で大きく肩を落とした。

"なんと云う大きな損失だ…
なんと云う…絶望だ…
あれほどの絵がこの世のものではないだなんて…"

そうして貞夫はその喪失感に引き裂かれるような深い悲しみに襲われて、思わず両手で顔を覆った。
"あの類いまれな絵をもう二度とこの眼で見ることが出来ないなんて…!!"

すると目の前の茂みがガサガサという激しい音と共に大きく揺らいだ。
その繁茂はやがてふいにぱっくりと左右に割れ、
その割れ目から唐突になんの前触れも無く白い手のひらが現れた。

たちまち長い腕全体が突き出され、次いで青い薔薇の葉を無数につけた頭部と上半身とが現れ、
やがて薔薇の迷路の垣根の中央を足掻くように無理無体に突き抜けて、いきなり貞夫の目前に出現したその人影はゼエゼエと肩で息をする、あの奇妙な眼鏡の女の全容を顕(あらわ)した。

貞夫は顔を覆っていた手を宙に浮かせたままあんぐりと口を開けて目の前に突如現れた女を前に、ただ呆然と立ち尽くすしかなかった。

女は硬い茂みの葉群を半ば破壊しながら大股で、その蕀(いばら)の塀の破れ目を乗り越え、迷路の地面に降り立つや否や、そのスカート越しの腿や胸についた葉っぱをパンパンと渇いた音を立てて払い落としつつもびっくりしたようにこう言った。

『あら、貴方!?
どうしてこんなところに居るの??』

人は迷路で迷うことはあっても、まるで固い鎧(よろい)を着ているかのようにその迷路の堅牢な塀を破壊してまで突出してくる者は通常あまり居ない。

しかもそうやって目の前に躍り出て来たのは見るからに型破りな屈強たる男ではなく、可成りの長身とはいえ、どちらかといえば腺病質な感じのする地味な若い女だ。

女はこの前逢った時と同じグレーのワンピースを着ていたが、そのワンピースの表面にはところどころ緋、白、黒、黄、青や緑、薄桃、橙(だいだい)、といった様々な色の塗料が小さく飛び散ったようにあちらこちらに点在していた。

頬や額にまでそれらは飛沫となって付着しており、頬にはさながらメディスン・マンが呪術の儀式の時につける特別な化粧のように白く太いラインが引かれてあった。

しかしそのラインの上には繁茂する蕀(いばら)を抜け潜ってきた際についた薔薇の棘や鋭い樹の枝で引っ掛かれてついた小さな傷口があった。

しかしそのことには頓着しない彼女は『いやだわ、
びっくりさせないでよ!』
と言いながらもそんな姿を見られたことがよほど恥ずかしかったのか、
その山梔子(くちなし)より白い顔に見る見る血潮を登らせて、とうとう彼女はその羞恥に細長い首すじまでをも薄桃いろに染め上げた。

貞夫は喫驚のあまり、
"それはこっちの科白(セリフ)だろう?"と思ったものの、
何故だか彼の中で判然としないままにずっと何日間も、
そして片時も頭から離れることのなかった"ノッポの眼鏡女"との不意打ちにも似た再会に彼の胸は急に危ういほど高鳴った。

ところが次の瞬間彼の口を衝いて出た言葉はその動揺を悟られたくないが為の青年らしいカモフラージュでしかなかった。

『ここにいたらいけないのか?こんな風にいきなり目の前に出現されて俺のほうこそショックだよ、』

思わず咄嗟に出た言葉だったが、女のムッとしたような顔を見て彼は内心自分に向かって舌打ちしたい思いとなった。
しかしそう思ったのも束の間で、女は一抹の内気を秘めた微苦笑を洩らすと人懐っこい口調でこう言った。

『私ったらいつもこうなのよ、いろんなことがよく解らなくて、おまけになかなか慣れないの、
世の中のみんなが容易に出来て操れることが私には死ぬほど困難なのよ、
なぁんにも出来ない、
なぁんにも解らない、
いっつもそう、
私ったら本当にお莫迦さん!
迷路じゃなくたってそう、
だからきっとみんなから軽んじられたり小莫迦にされて、そしてなんとなく嫌われるんだと思うわ、
自分でも自分の間抜けさにうんざりしているんだもの、
他人が私を少しおかしいと思うのは無理ないわ、
でもショックを与えたんならごめんなさいね』

そう言って女は女性としては骨太な、そして男性としては花車(きゃしゃ)過ぎるそのまるで青年のような骨格の肩をほんのりそびやかすと、酷く淋しそうに微笑んだ。

『子供の時一度だけここの迷路を独りで通り抜けたことがあったのよ、
とても嬉しかったわ達成感を感じた、
だけどそれ以降一度も駄目、だから時々何とかしてもう一度!って思うんだけど…
やっぱり今回も駄目だった、午前中からずっともう2、3時間は多分ここの中で彷徨っていたと思うわ、
でもとうとう怖くなっちゃって…だってまるで閉じ込められてしまったみたいで…
薔薇の茂みには可愛そうなんだけど、こうでもしないと私この迷路から一生出られなくなると本気で思ったの、
だから…もう奥の手を使うしかなかったの、
ここでこの迷路に迷わないのはサブちゃんと猫達だけよ、他の人間は全員多少は迷うの、
…でも一番酷いのは私…』

幽かに怖じ気づいた内面の不安とどこか捨て鉢な気持ちとが、彼女の蒼白い顔を透かしてオパールの遊色効果にも似て揺れ動くかのように見えたものの、初めて逢った時より彼女はずっと鷹揚でどこか朗らかですらあった。

『貴方、鷹柳貞夫さんでしょう?どうしてまたいらっしゃったの?
私もう貴方は二度とここへは来ないと思っていたわ』

『僕は…その…
森を見に来たんです
今頃紅葉していて美しいだろうなと思って…』
と貞夫は急に畏こまり咄嗟にそう嘯(うそぶ)いた。

何故そんなことを言ったのか彼にも解らなかった。

『森を?』すると女の顔は急に嬉しそうに輝いた。

『そう、そうなのよ4、5日前から森が色づき始めて今とても綺麗なのよ貴方の言う通り今が一番綺麗よ』

『そうみたいだね』

と言いながらも貞夫は改めて彼女の頬も水鳥のように細長い首すじも手の甲までもが薔薇の棘と茂みを覆う固い枝とで傷だらけになり流血している様に目を瞪(みは)った。

まるで子供がどこかの子供と取っ組みあいの喧嘩をした痕のようにも見えると彼は思った。彼は自分の額と首すじを長い指で指し示しながら恐る恐るこう言いかけた。

『あのう…君、
怪我してるよ?
あんなことしたんだから無理もないとは思うんだけど…
ここと…それと…』

『知ってる』

女は素っ気なく言うと、頬の血をその武骨な手の甲でぞんざいに拭ったが手の甲にも傷があった為、白桃のようなその頬に更に血がつき彼女の顔は真っ赤になった。
だがたいして気にしない彼女は今や血だらけの顔でまるで少女のように小首を傾げると、こう言った。

『いいわ貴方がせっかくうちの森を見に来たんなら私が案内してあげるわ、
だって案内人が居なければ、森じゃ絶対迷子になっちゃうもの』

そう言って微笑んだ女の眼鏡は相変わらず鏡のような奇妙な反射をしてその奥の瞳をさだかに見ることは出来なかったが、にもか関わらず

『庭より森のほうが私は迷子にならないの、
私は他の人となんでもが逆さまで反対なのね』

と言った彼女の瞳が一方だけ遠く碧く輝いて見える気がした。

だがそれは気のせいに思えるほどの一瞬の空気の動きのような微かな余韻にしか過ぎなかった。
ふたりは気がつくと浅い迷路の始まりを抜け出し、いつの間にか森に向かう草地を歩き始めていた。

『来て!』

馴れ馴れしい牝のフランケンシュタインが男のように大きな手のひらで貞夫の手首をいきなり掴むと、人間の貞夫の可哀想な心臓は過敏な横隔膜の上で小さな愛らしい二十日鼠のように飛び上がった。

そして音を立ててドンドンと太鼓のように波打ち始め、
貞夫はそんな自分の変化と体感とを一体どうしたことか?と我ながら訝(いぶか)しんだ。

途轍も無く奇妙で風変わりな女に急に腕を掴まれたそのヒヤリとするような刺激的な感触を貞夫は樂しむ余裕も何も無いままに、おもむろに彼女と共に聴こえない音楽のリズムに乗るように歩き出した。

木の葉を踏むその音を貞夫は遠い別世界からの音のようにどこか虚ろに感じながら森へ向かって躊躇いがちに、と同時に酷く胸踊る想いで歩く自分を彼はまるで別人になったようだと感じた。

そして彼は思った。

"何故だろう?
あのコケティッシュな金髪娘のように極めて美しいわけでもなければ、下手すりゃ男女の見分けもつきにくいようなこのどうにも風変わりで奇異な流血女が俺に向かって微笑みかけると、こんなにも強く昂(たかぶ)るような多幸感に包まれるのは……
一体どうしたことか?"

するとそんな貞夫の夢想を破るように彼女が言った。

『貴方に森の中でいいものを見せて上げるわ』

『いいもの?』

『そうよ森の中にパパの屋外用のアトリエがあるの、
そこで貴方に逢わせたい人もいるの、見せたいものもね』

『逢わせたい人?』

そう聴いて貞夫の頭にはあの羊の顔が浮かんだ。

『きっと貴方なら関心があると思うわとても素敵なのよ、
来る?来るわよね?』

貞夫は逆らうことも出来ず、ただ茫然と頷いた。

そこで俺を待っているものはきっとあのメリーの羊に違いない、と彼は思った。

と同時に自分の手首を掴む女の手も渇いた絵の具とおぼしき様々な色と、未だ新鮮な傷口から生々しく滲む血潮とに混ざり合い、美々しく痛ましく汚れているのを彼は見た。
しかしそれに対して微塵も嫌悪や不潔さを感じないことを貞夫は不思議に思った。

すると貞夫の思いを見抜いたかのように女は彼を肩越しに振り返るとこう言った。

『私は父のアトリエの片付けをしていたのよ、
でもぶきっちょだからすっかり自分が汚れてしまって…
掃除をしているんだか自分を汚しているんだかわけが解らないわ、
後できっとまた母から叱られてしまうんでしょうね、
私ったらパパのテレビン油をすっかりこぼしてしまったの、ホルバイン製のリィン・シードよ、
だからずっと床に這いつくばって拭き掃除をしていたの、だから今、私凄くいいにおいがするでしょう?
お陰で頭が痛くなりそう』

『君も絵を描くの?』

貞夫は思わずそう言っておきながら、何故そんなことを口走るように言ったのかが自分でも解らなかった。

『……そうね』

あれほど賑やかな問わず語りのお喋りに夢中だった女は急に気が変わったのか、ふいに素っ気なくツンとして答えた。
が、何か納得のいかない貞夫は女に腕を引っ張られながらも、もう一度試問するように重ねて訊ねた。

『君も絵を描くんだろう?
そのう…お父さんのように、
だって君、絵の具まみれだよ、それになんと言ってもビリー・ダルトンのお嬢さんでもあるわけだし…
ほら、血は争えないってよくいうじゃないか』
『いいえ私は違うわそれに…』と言いかけて女は急に押し黙り、その押し黙ったままの彼女に曳き連れられ、貞夫はただ幽かに狭霧煙る森へと向かった。

貞夫は女に手を曳かれたまま施設にいた頃、彼を歳の離れた弟のようにこよなく可愛がってくれた照(てる)をふと思い出していた。
ブランコに乗った内気で気難しい子供だった貞夫の背を優しく押しながら、彼女はよく知っている限りの色々な唄を孤独な少年への慰みに歌ってくれたものだった。

貞夫は屋外ではなく施設の中に立つまるで公園に在るような大仕掛けなブランコに揺られながら、施設の高く蒼い天井を眺めた。
天井には一面に羊雲の浮いた蒼い空がペンキで描かれており、そのペンキの一部が剥がれかかっている箇所が僅かだがあった。

ブランコが大きく揺れ始めると同時に目を閉じると、その剥がれたペンキの陰いろの隙間から巨大な白い光る手が幼い貞夫に向かって延ばされた。
それに掴まると彼は鳥のように羽ばたいて、どこへでも飛んで往けるような気がした。

そんな夢想の中でさえ、
十以上歳上の照の歌声は、
常に幼い貞夫の揺籃(ようらん)だった。

25歳となった今も尚、彼の根底で揺れて回るそのか細い歌声は貞夫の世界(すべて)だった。
ほんの少しではあったが知的遅延があり、軽度であるがゆえにそんな自分自身がよく解り、そのことに酷く苦しんだ照という優しい女の歌声が懐かしい痛みを伴い、今彼の中で鳴り響いた。

"メーリさんのひつじ、
ひつじ、ひつじ、
メーリさんのひつじ、
真っ白ね"






to be continued…

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