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小説『エミリーキャット』第57章・悲しみとダンス

日本へ来てエミリーが直面したことはアメリカに居た時から薄々感じてはいた幼い中、常に鈍痛のように自分の内に宿る『なんかおかしい、でもどうして?』
という自分自身への言葉に出来ない疑惑と違和感だった。
日本では目には見えないハードルや察知出来ない空気の微妙な綾のようなものの意味を周りの大人達はもちろんのこと、子供達までもが光の速度で感知し、理解した上で行動するのを見てエミリーは、どうしようもない不安感に駆られた。
この国では大人達も子供達もまるでエミリーは持っていないバーコードリーダーのようなものを全員持っていて、それを使ってエミリーには判読不可能な記号の上をまるで羽根のような軽やかなタッチで、なぞり、全てを読み取り、理解し、その理解し得た‘’何か‘’に沿った、より適切な言動を皆、起こすことが出来るのだ。
自分にとって理解不能な記号化された交流という隙間を繋ぐ不可思議なまるでブランコの鎖の結合部分か、あるいは煉瓦同士を、固めて堅牢な壁を造る為のあのパテのようなものが自分には理由は解らないが生まれつきどうやら無いらしいとエミリーは子供なりに痛くそして不安を持って感じた。

その為、コミュニケーションが時に点となってしまい、線となりづらく、時に糸の無いネックレスのようにばらばらになってしまう。
無論、バーコードリーダーも持っていない。
すなわち、それらは幼くして複合的に苦労するということに繋がっていた。
一見、無機質なバーコードの並列する上をなんとかその意味を理解したいと苦心惨憺、さながら大海原の上を飛ぶ孤独な鴎のように飛び回っても、記号化されたコミュニケーションの鍵となるそのバーコードの表面だけを虚しくかすめ飛ぶだけでエミリーはその意味を理解することは到底出来なかった。
ただ自分の影が虚ろにバーコードの上へ遠く小さく落ちるのを眺めながら空を飛ぶ仲間の鴎と、
はぐれてしまった鴎のように、
ただ独り、彼女は得ることも解ることも叶わずただ飛び続けるしか出来なかったのだ。
その無力感は子供なりにエミリーの胸を深くえぐった。
そしてもっと問題なのはそのことがいかに深刻なことか気づく大人や周囲が少なかったこともエミリーが独り悩みを秘めて生きてゆく土壌を否応なしに作ってしまった。
この不自由感や生きづらさをどうやって他者に伝えればよいのか?それはエミリー自身にも全く解らなかった。
何故ならその理由も判然としないままにただ周りが辛くないことが辛く、少しも困難でないことがとても困難であることを、解ってもらうことなど至難の技以上にもう奇跡でしかないことだったからだ。
時にその苦しみや不安はエミリーを居たたまれない焦燥感と引き裂かれそうな哀しみとで苛立たせた。
仮にその原因が判然とする現代であっても健常者と同じ土俵でしか決してジャッジされないこの国で
理解を望むなど毛頭、無理なことなのである。
幼くしてそのように感じること、そしてそれに付随する辛い経験の積み重ねはやがてエミリーの明朗活発さや人懐っこさ、おおらかさや伸びやかさを徐々に奪っていってしまった。

エミリーは小学校の学年が上がるたびそういったことに対する我が身の理解力の不足感や時にあやふやな日本人特有の空気を読む読解力が必要とどんどんされてくることに怖れを抱きながらも気づきはしているのだが、一体どうしたらいいのかは相変わらず解らないままだった。
アメリカ以上に日本はインヴィジブルな‘’何かを‘’察して行動しないとならないことがあまりにも多すぎる上に、日本人特有の繊細な配慮やしきたり、それらはエミリーをかえって戸惑わせることもあった。
普通は子供がしないような遠慮やうわべだけのお世辞はその時だけのもので、その直後から一口噛った林檎の如く見る見る色も香りも変質してしまう事実を何度も目の当たりにし、そういった現実は日本の風土的体質とも云えるある意味国民的な普遍なのだと彼女は小学校の高学年に上がる頃にはようやく薄ぼんやりと理屈ではなく感覚的に理解し始めていた。
だがそれはまだ幼い彼女には諦観と呼べるにはまだ早く、
ただ哀しく辛い認識でしかなかった。

『またいつでも遊びにいらっしゃい』という大人の言葉も、エミリーには時に恐ろしい意味不明な言葉であった。
この言葉を嬉々と受け止めた彼女はその翌日勇んで行くと何色と解らないあの不穏な色が立ち込め、それと同時に大人達は眉をひそめ『あらっ…どうしたの?
貴女なんで来たの?
なんか用事?昨日うちに忘れものでもした?』
『…いえ…だって…でも』
とおどおどするうち自分の舌が自分の舌ではないようにもつれてきちんと言葉が出てこなくなった。
やっと言いつのった言葉も空虚でなんだかエミリーは酷い間違いを自分がどうやら犯しているのだと悲しみでいっぱいになるばかりだった。

『おばさまはいつでも遊びに来てねっておっしゃられたから…』
言葉尻は消え入りそうになる。
エミリーは泣くのをこらえるだけでもう溺れそうな心地になった。『そんなことおばさん言った?
そんなこと言った?』
クラスメートの母親はそんな積もりは無いとはいえそろそろ夕飯の支度をしなくてはならないという多忙な時間帯に独りのこのこ嬉しそうにやってきた半分異国の血を引く奇妙な少女の突然の来訪に驚いてついまるで責めるような口調となってしまった。
『…言った』
エミリーは固く冷たい鉛の塊を飲み込むような思いでやっとそれだけ言うと頬をこらえていた泪が硝子窓をあっという間に伝い落ちる雨粒のように転げ落ちた。
『あらそう?
そりゃ悪かったわね、
でもねガーティちゃん、
それはね、人がおうちに招かれて帰る時に日本の人は皆、大抵そう言うものなのよ、
なんていうのかしらねぇ…
ご挨拶みたいなものね、
でもご挨拶なんだから形式だけものだし、そんなこといちいち本気にしてちゃ、かえって失礼な人だと思われちゃうわよ?』
『ケイシキって何?』
『う~んつまりね』
と主婦は鬱陶しげにため息混じりにエミリーを見ると薄い茶色のシミのついたエプロンでたくましい濡れた手を拭き拭きエミリーの目線に下がるように玄関の上がり端に屈み込んだ。
そのテカテカとまるで油でも塗っているかのような艶のある丸くて大きな蕪(かぶ)のような膝頭が、余りにも印象的で何年経っても何か辛いことがある都度それはエミリーの脳裡に浮かんでは消え、
浮かんでは消えた。
なんの関係も無いことなのに、
とエミリーは自分に言い聴かせても言い聴かせてもそれは彼女が幾つになっても悲しみに出逢うと、フラッシュバックする光景のひとつであった。

『形だけってことよ、
全く嘘ってわけでもないんだけどね、でもまぁそうねえ、
だからと言って言葉通りじゃないし…確かに難しいわよね、
大人同士でも難しいと感じる時があるんだから子供なら尚更そうよね、でもね、そう言うのは相手に気持ち良く思って欲しいから優しい言葉をかけるだけなのよ、
つまりは、そう、思いやりなの、日本人ならではの繊細な心配(こころくば)りなのね、
だからそれをいちいち本気にしてたらちょっと問題よ、
日本人は特にそういう習慣が多いからね、今後はガーティちゃんも気をつけたほうがいいわね』

『シュウカンって何?』
『うーん…家へ帰ったら和英だか英和だかの辞書を引くといいわ、
そのほうが貴女にとって勉強になるでしょう?
貴女のお母さんは日本の人だって云うからお母さんに聴いてもいいと思うわよ、
よそのおばさんに聴くよりもね、ずっと優しく教えてくれるでしょう?』
『……』
『とにかく‘’いつでもいらっしゃい‘’と言われていつでも来ちゃ駄目、そんな意味で誰も言ってなんかいないんだから、
ねっ?解った?』
『じゃ…おばさまは口からでまかせを私に言ったの?
そんなこと言ったら本気にしちゃう人はきっと私じゃなくても他にも大勢居ると思うわ、
そんなケイシキは迷惑だからやめて下さい、本気にされて困るようなことなら最初から言わなきゃいいのよ』
『……んまあ!』

と顔中シミだらけだが透き通るように色の白い顔と猪を思わせる太い首から丸々とはらんだ腕までをも、すっかりピンクに染めて、
主婦は怒った。
『嘉子の言ってた通り、
ああいえばこう言う、おかしな変な子だって本当だったのね、
人がせっかく親切で教えてあげたってのになんて子でしょう!
子供らしさが無いというか、
可愛げが無いというか…
兎に角、こんな時間に、ひょっこり現れてどこのおうちだって困りますよ、嘉子だってもうすぐ帰ってくるだろうけどお習字教室へ行っているのよ、
そういえば貴女、嘉子からも聴いたけど一桁の計算も全然出来ないんだって?
音楽の授業でも音符がみんなと同じように見えないとか読めないとか大騒ぎだったって嘉子が呆れていたわよ』
『でも…でもピアノは…ちゃんと弾けるわ!』
『ピアノが弾けても楽譜が読めなきゃ駄目でしょう?
何事も基本があるんだから、
それに順序だてて物事は行われるものよ、ピアノが弾けても楽譜が読めないようじゃ常識的なピアノの演奏とは言えないわ、
下着を全然身に付けなくていきなり洋服を着る人は居ないでしょう?それと同じよ、
貴女も算数と楽譜が読めるようになる為の基礎的なお勉強をもっとおうちできちんとしたほうがいいわね、』
『ジョウシキ?キホン?
おば様、それ、どういう意味?』エミリーは解らないことは相手がほとほと辟易するまで質問責めにしてしまう時があった。

主婦は敢えてそれを無視すると、こう言った。
『あのね、先生も言ってらしたわよ?
貴女には本当に困ってるって…
なんだか解るような気がするわ、

貴女が居る為にクラスの足並みが揃わない時があるってね、
貴女に合わせようとするとクラスのみいんなが迷惑するのよ、』
『…迷惑?私が?それ、
私がかけてるの?私、迷惑なの?でもなんで迷惑なの?
私、そんな積もり無い!』
『だって貴女が一桁の計算にうんうん言って悩んでる間、他の生徒達は授業が進まなくてみんな困っているのよ、
だってみんなはそんな簡単な計算はもうとうに卒業した子ばかりだもの、出来ない子は貴女だけよ、お陰でみんな迷惑してるの、
先生もそう言ってたし貴女だってよくそう言われてるはずよ、
みんなガーティはおかしい子だって言ってるって娘も言うもの』

『私だけ…?おかしい?…
出来ない子…』
『そうよ、みんな出来るのに、
出来ない子は貴女だけ、
先生が言ってらしたわ、
貴女だけ低能児ばかりが通う特殊な学校へ通わせたらいいのにってそれに理由ははっきりとはしないらしいんだけどなんか気味が悪い、なんかどっか妙で変、ってみんな言ってるって嘉子も言ってたわきっとどこか、おかしいとこがあの子にはあるのよって、
貴女一度お医者さまに頭のレントゲンでも撮ってもらったらどう?
それか、先生も言ってた特殊な普通ではない子供達が通う学校へ通うようにしたらいいのよ、普通の子供達の中で貴女だって独り浮いていて…淋しいんじゃないの?

そんなんだったら小学校通っていたって楽しくないでしょう?
これね意地悪で言ってるんじゃなくてガーティちゃんのこと、思っておばちゃん言って上げてるの、娘と同じクラスメートでお友達だしそう忠告してあげているの、
解ってね?』
‘’そんなの嘘だ…!‘’
とエミリーは心の中で叫んだ。
この国の人間の言いがちな『貴女の為を思って』
『貴女のことを思うからこそ』
という麗しい前置きの後の言動はその通りのことも勿論あるが、
甚だしいフェイクとして尻切れトンボのような心無い終わりかたをするほうが圧倒的だった。
‘’そんな綺麗な言葉で自分の口をクリーニングしなくても本当のことを言えばいいのに、
本当は私の為なんかじゃなくて、自分が言いたいことを言ってるだけでしょう?
それならそうと言ったらいいのに、なんでそんなクリーニングをする必要があるの?‘’
エミリーはそう思ったが唇を薄く解らないように噛むとその言葉を飲み込んだ。
するとその自分の思いがさながら薔薇の棘を飲み込んだように硬質の痛みとなって、彼女の内部を引っ掻き、傷つけながら自分の秘奥へと通過してゆくのをエミリーは感じた。
やがて彼女の小さな胸の奥へとエミリーにしか聴こえない音を立ててそれは孤独という澱(おり)の奥深く沈殿していった。

須臾(しゅゆ)婦人の言葉はエミリーには聴こえなかったが、再びその声は遠くから甦るように再びエミリーの耳に谺(こだま)した。
『ねっ?解る?
これは先生が言ってらしたことなのよ、私じゃないの、でもね、
貴女みたいな低能児ばかりが通う特殊なところへ転校したほうが他の子供達の足を引っ張らなくても済むでしょう?
貴女も似たようなお友達も出来るし、今の学校よりきっと貴女に合ってると思うわよ』

『…低能児…』

エミリーはその言葉だけはさながら頬を打たれるように激しく理解した。
何故なら日常的に母親から浴びせられていた言葉だったからだ。
エミリーは思った。
‘’ママだけじゃないんだ、
私のことを低能児って言う人は…
この世界に私のことをそう思う人は他にも居るんだ、
きっとこの人以外にももっと他にも沢山…‘’
エミリーは泪が熱湯のように苦しく溢れてくるのを感じて
『意地悪ババア、デブの出不精!
不肖のムスコめ!』と日本語の辞書を見て覚えたての言葉を並べ立てるといきなり踵(きびす)を返し、走って逃げるようにクラスメートの家を後にした。
すると石礫(いしつぶて)のような主婦の言葉が背後から風に乗って飛んできてエミリーの逃げるその小さな背(そびら)を打った。
『まあ!なんて口汚い!!
とんでもない子だこと!
きっと親の育て方も悪いのね
四捨五入も出来ない低能児の癖に口先だけはいっちょまえだなんて、ああ、うちの嘉子はちゃんとした普通の子供でよかったわ!』

『普通の子供』
『普通でない子供』
この国に来てから特によく言われたり聴いたりするその言葉はエミリーの中で振り子のように揺れ動き、揺れ動いたところで答えなど出ない中、彼女は徐々に『どうして私なんか生まれてきたんだろう?アデルだけで充分だった筈なのに、』
といった想いにどんどん傾斜していってしまった。

エミリーは走って走ってこれ以上走れないというほど走り抜け、
気がつくと総合病院の前の急峻な坂道の下で独り喘いでいた。
彼女はその既に暗い坂道を登り切ると、病院の前でエミリーはその夜目にもエキゾチックな容姿ゆえに七十代くらいの夜警の男から奇異の眼を一瞬向けられたが、そのまま彼女は病院の回転ドアへと絡め取られるようにして入って行った。
病院の最上階の無人の屋上へ出るとそこからエミリーはさながらスポットライトの当たった砕氷の寄せ集めのようにひんやりと輝く遠い夜の街を見つめた。
屋上では白いシーツやあらゆる洗濯物が渇き切らずに昼間からそのまま干しっぱなしにされているのだろう。
タオルが円柱状に干されてそれがまるで中国の灯籠のように夜風にくるくるとどこか幻想的に回転するのをエミリーは悲しい想いで見た。
屋上一杯に放射線状に、綱が張られ、その上で白いシーツが幾重にも連なって暗闇の中、翻(ひるがえ)るその隙間(すきま)をエミリーは、くぐり抜け、屋上の欄干へと歩み寄った。
『…ここからアメリカはきっと遠すぎて見えない』
とエミリーは口に出して言った。
『エイプリルに逢いたい…
シェリーにも…日本は難しい…
半分は私の国なのにこの国に居ると私はとても淋しい…』

『…でももう帰らなくちゃ…
パパが心配するわ、
それに遅くなるとママにまたぶたれるもの、それは絶対にいや!
それにロイがきっと待っていてくれる…ロージィも…。
ロージィはまたロイの赤ちゃんを産むし…カヨちゃんもサブちゃんもみんなが楽しみにしている、
そして私も…
そうよ、だから…だからもう帰らなくちゃ』
病院を出て坂道を歩き出すエミリーに白髪の夜警がおずおずと声をかけた。
『ジェーンちゃん?
もしかして…
ジェーンちゃんかい?』
『…私、ジェーンじゃない』
『そうか、悪かったね、
以前ねジェーンって半分ニュージーランドの子がここの病院へ通っていてね、病気のお母さんのお見舞いだとか言って…
暗いからおじさんつい君を見て、ジェーンちゃんが帰ってきたのかと思っちゃった、ジェーンちゃんはお母さんを亡くして二年前にお父さんと一緒にお父さんの国へ帰っていったんだが…
でもそういえばお嬢ちゃんのほうが背がだいぶ高いしジェーンちゃんは眼鏡もかけてはいなかったからね』
『…おじさんとそのジェーンは仲がよかったの?』
『う~ん…仲がよいというか…』
と夜警は苦笑するとそれでもどこか寂しげな微笑みなのか真顔なのか、よく解らない日本人特有のまるでモナリザのような不思議な表情を老いたガードマンは浮かべると頷いてこう言った。
『そうだね、寂しそうな子供だったから時々…なんとなく…心配で…声はかけていたんだ、』
『私、エミリー、
イギリス人とのハーフなの、
ジェーンじゃなくてごめんね』
『いいんだよそんな…何も謝らなくても、』
夜警は思わず顔をほころばせた。
『今日はこんな時間にお見舞いかい?ご家族の?』
『違う、ただ来ちゃったの…
気がつけば…来ていたの、
屋上に登って遠くを見たわ…
うちは見えなかったけど…
でも、きっと世界中どこへ行ったって私のうちなんか見えやしないんだわきっと…』

『……』
エミリーがそう言った後、泣き声を立てずにただ肩を震わせて泪を一条こぼすのを見て、夜警は思わず自分でも意外な言葉を口に出してしまっていた。
『あのねエミリーちゃん、
今度昼間おいでよ、もし…よかったらだけど…おじさんでよかったらエミリーちゃんのお話を聴いて上げるよ、
何か…辛いことがあったんだろう?
違うかい?』
『……』エミリーは自分の靴先を見つめたまま蒼白なまるで人形のように生気の失せた顔でコクンと一つ頷いた。
その時エミリーは生まれて初めて自分が死という概念を持って屋上へ発作的に登っていたことにまるで他人事のように薄ぼんやりと気がついた。
白髪の小柄なガードマンは訝(いぶか)しむ様子をありありと見せながらも妙に明るい調子で言いつのった。
『日曜日にね、
日曜日のお昼、12時から1時までの間ならおじさんここの屋上よりもっと素敵な場所知ってるから教えて上げるよ、実はねこの病院の真ん前なんだけど…ほら、
あの丘の上…』
そう指差された背後の急峻な高台に直接、階(きざはし)が刻まれ、
その一段ごとに頑丈な滑り止めの横木が渡されてあった。
そしてその階梯の両脇を細長い鈴蘭灯が蒼白く照らし出していた。
『本当はね、そこはおじさんだけの秘密基地だったんだけどね』
とガードマンは悪戯っぽく笑って見せた。
『秘密基地?』
『そう、お天気のいい時はね、
おじさんはそこでお弁当を食べるの、お弁当たっておじさんが自分で適当に前の晩のおかずを詰めてこしらえるもんだから、そんなに凝ってていいもんでも、特別美味しいようなもんでも無いんだけどさ、でもね、そこ、凄く見晴らしがいいんだよ、
まだ寒い早い春なんかね、
野生のマーガレットが沢山咲いてまだ冷たい春風に丘の上一面に茫々と揺れていたりしてね…
おじさん、そこが好きでそこの高台に腰かけてよく独りでお弁当食べるの、明日の日曜もおじさんここに立ってるからエミリーちゃん、
もしよかったら来ないかい?
エミリーちゃんがもし来るのならおじさん拙いお弁当やめて日曜日はふたりぶんのサンドイッチとオレンジジュースかなんか買っとくから、
ふたりであの丘の上で食べようか?』
『…おじさんお友達になってくれるの?』
エミリーは泣き濡れた長い睫毛の為にすっかり曇った眼鏡のレンズ越しに老人を見上げた。
『友達か…そうだね、…
うん、エミリーちゃんさえよかったらじゃあ友達になろう、
エミリーちゃんはどんな種類のサンドイッチが好き?』

病院の真向かいの高台の上には旧い廃(すた)れたマンション群が並列して建っていた。
マンションは何か理由はあるのだろうがほぼ人は住んでおらず、
2、3の家族は住んでいるらしかったが、それでも半ば廃墟化していた。
ふたりはその廃墟化したマンションの中央の小さな公園でひとしきり遊んだあと、手を繋いで急斜面の草地の崖の上へ出た。
崖の裏は自転車置場だったが、
そこには一台の自転車も無かった。
そのすぐ背後に廃墟のマンションは建ち並び、打ち棄てられた小さな三輪車が赤いハンドル部分に蜘蛛の巣を風に震わせながらマンションの錆びついた扉の前にまるで時が止まったように在った。
まろやかな円形ではないジグザグの螺旋階段がマンションの中央を突き抜け、その階(きざはし)
の裏側のギザギザは甚だしいような光と翳との克明な差異を見せながらも塗料がところどころ脱落し、マンションの扉のドアノブのほとんどには水道局の水道管閉栓の旨を書いた白い札が結わえつけられ、それは風にまるで疲れたように揺れていた。
エミリーは急峻な丘の斜面にガードマンと並んで座ると差し出されたトマトと玉子のサンドイッチを食べた。
そしてオレンジジュースならぬガードマンが持参してきた水筒から
暖かく甘ったるい子供向けのミルクティーを飲んだ。
そして日本に来てから生きにくさに拍車がかかったこと、
それをどうしようもなく、ただ惑乱の日々の中に居ることをエミリーはガードマンに縷々(るる)と語った。
ガードマンはまるで父親のようにエミリーの話に深く耳を傾け、
共感とねぎらいを持ってエミリーの心の片隅に寄り添おうと努めた。
エミリーは他者から言われた言葉を額面通り受け止め、なんでも真に受けてしまうタイプであり、何度も辛い思いをしながらもそれらはかなり大人になるまで性懲りも無くその癖(へき)は続き、それにより騙されたり、騙されたがゆえに高価な物品を買わされたりとかいうことまであった。その為に父が仲介となってその解決をするということも度々起きた。

彼女は人間である以上、人を疑うということを知らないわけでは無かったが親しい人や近しい人、また大抵の世間の人々がだいそれた悪意など持っていようはずもなく増してや自分を騙したりなんかある筈もない、と何故だか、固く思い込んでいた。
『だって騙してどうするの?
なんにもならないじゃない』
というのが子供時代のエミリーの持論であった。

エミリーは『日本人の血を引いているのだから半分は日本語は母国語なのだから英語ばかりが流暢な子になってもらったら困る、
それは恥ずかしいことだと思いなさい、貴女は半分はイギリス人でも半分は日本人なんだから、その誇りを捨てては駄目よ』
というミヨコの口癖の通り、エミリーはアメリカに居る時から日本語を母からみっちりと教え込まれ、英語と日本語そのどちらでも会話をしていた為に、日本へ来てからも会話にはさほど困らなかったが、それ以上の距離感を、彼女は同じ年端の子供達に対して痛感していた。

ピアノのレッスンは日本でも続けていたエミリーはピアノ教室でも一緒のクラスメートの少女達とい一緒にレッスンからの帰りみち、こんなことを言われたことが長く心に深い傷となって残り続けた。
ふたりの少女達は、エミリーの居ないところでふたりきりで事前に示しあわせていたようで、こんなことを言い出した。
『ねえ、ここんちの庭にある木、綺麗よね、まるで作りものみたいだと思わない?』
『そうね、ゴールドクレストに似てる、でも違うようだけど…』
『これ本当に作りものなのよ』『えっ…』とエミリーは驚き、しみじみと木を凝視したが木は精巧な作りものに見えなくはないが、やはり生きている波動のようなものを感じる気がして彼女は言った。
『でも…』
『ここのおうちはお金持ちだから枯れない作りものの木を植えてるの、』
『…そうなの?』と再びエミリーは広い庭の木々に瞠目を放つと
『あれ?でも枯れてる場所もあるわよ、ところどころ枯れた葉っぱもくっついてる』
『リアリティーよ』

『リアルに見せる為に枯れた葉っぱも作ってくっつけてるの、
凄いでしょう?』
『……凄いね本当、リアリズムね、そっかあ、日本のお金持ちはこんなことをするのね、
枯れない木だなんてナンセンスだと思うけど作りものだから手入れしなくていいし、一年中緑のままだし、そう思って庭木にしたのかしら、』
『ねっ凄いと思わない?』
『思う!凄い、
そういうことするのが素敵とは思わないけど凄いこと考えてする人が居るんだなあと思うわ』
エミリーがいかにも感に堪えたように言いながらその枯れた部分をしみじみ、眺め入っているのを尻目に少女達はクスクスうつ向きながらも互いの眼を見合って目知らせをし合いながら、更にお互いの肘でお互いを突っつき合っていた。
『…?』
エミリーはそのような少女達ふたりの様子を見て疑念は全く無かったので怪訝には思わないものの、決していい気持ちや印象は受けなかった。

なんだろう?この人達と居て居心地が悪い、敵意や悪意、害意をはっきりと感じる、でも何故?。
どうしてそんなものを感じるのだろう?私は彼女達に何かしたのかしら?エミリーは肘で突つき合いながらうつ向き、とうとう吹き出すまでに至るふたりの少女達を見て酷く困惑した。
しかしまだ幼かったエミリーは、しばしば感じるこの不愉快な敵意や悪意、害意、そこには陥れてやろう、傷つけてやろうという善くない作為すら時にはらんでいることにまだ気づかなかった。
その悪意や害意はエミリーを罠にかけて騙して遊ぶという意図があり、その意図通りに何度でも似たような安仕掛けに簡単に引っ掛かるエミリーをみんなで莫迦にして遊ぶ、または溜飲を下げるといういわゆる苛めの一種のゲームでもあった。
ずっと笑いながら、吹き出しながら、それでも後から取り繕うように懸命に笑うのをこらえようとするふたりがエミリーの後ろから、よろめきながらとついてくるのを何度も振り返って見つめては、
エミリーは言葉にならない不安感をその都度、噛み締めた。
そしてとうとうこう言った。
『ねえ何がそんなに可笑しいの?私も一緒になって笑えること?』少女達は大きく揃って吹き出すと大笑いをした。
その爆笑はしばし続き、エミリーはますます狼狽えた。
『ねえ私も仲間に入れてよ、
何がそんなに可笑しいの?』

『あんたのことよ』

と癖の強い縮れた髪を無理矢理、三つ編みにした色の黒い一人の少女が言った。夏に行った海水浴の日焼けの名残りがすっかり秋が深まった今も尚、少女のえくぼの出来る人形のような小さくふくよかな手足にも顔にも残存し続けていた。
『ガーティさぁ、あんなこと本気にするなんて…ねえ?』
とその少女は色白の目の細い少女に向かって言うと再度下を向いてツバの飛沫を散らすほど下卑た笑いを堪えきれずに漏らした。
オカッパ頭に瓜実顔でキツネ目の少女が引き継ぐようにこう言った。
『あの木が本物じゃないなんてそんなワケないでしょう?
どう見ても本物じゃない、
だって下のほうなんて枯れてるのよ、あれ見たら誰でもすぐ解りそうなものなのに』
『でも…枯れてるのはリアリティーを出す為にって』
『そんなはずないでしょう?
わざわざあの庭全体の木全部作りものの木を立てるなんて…いくらお金持ちって言ったってそんな莫迦らしいことする人が居ると思うの?』
『だってふたりがそう言ったから…』エミリーはその先の言葉が出なくなった。

悲しみで目の前が一瞬真っ暗になった。
やっと出た言葉にエミリーは出来うる限りの想いを乗せてこうふたりに言いつのった。
『何故、嘘をついたの?
何かそうしないとならない深いわけでもあったの?』
これはエミリーにとって本音だった。エミリーにとって自分が折檻を受けない為の嘘や危険から我が身を守る手段として嘘をつくことは自然なことで気分は良くはないものの、それは有益な護身の術でもあった。だが友達を騙したり、意味も無く騙したり騙されたり、偽ってその結果を見て愉しむという娯楽的意味を持つ嘘という概念はエミリーの中にはどうしても無かった。
その為に意味もなく人間が人間を苦しみや危険にさらされているわけでもないのに騙すなど理解に苦しむことでしかなかった。
『ねえ何かあったの?
そうなんでしょう?私を騙さないとふたりが危ない目に遇うか、
なんかなの?それならそうと教えて欲しいの、
学校の先生に相談する?
先生がもし信じてくれなくても私は信じるわ、だからわけを教えて欲しいの』

ふたりは余計吹き出すと爆笑した。いつまでも止まない涙さえ浮かべながらの爆笑の渦の外に立ちながらエミリーはただ惑乱して立ち尽くすしかなかった。
『可笑しいからよ、ガーティたら何を言ってもすぐに信じるし、
それに今みたいに突飛なほうへ考えがすぐに飛んでいっちゃうから…
どんなにあり得ないこと言っても真に受けるから面白いのよ、
みんな言ってるわよ、ムシャクシャすることやいやなことがあったらガーティを騙して、すっきりしようって』
『………』
『この間さあ、ガーティ言ってたよね?お父さんと一緒に古い映画のリバイバル見に行ったって』『名犬リンティンティンのこと?』『そう、それ!名犬オーチンチン』少女達は下品極まる爆笑を互いの体や自分の膝を叩きながらゲラゲラ笑い転げ、あまりにも大口を開けたまま仰け反って笑う為、少女達の虫歯の跡に被せた銀歯や犬歯の横の金歯などが丸見えとなった。
『そのことはもういいわ、
リンティのことについてはもう話したくないの…』
エミリーはようやく表面がまだ緩くはあってもゼリー状に固まりつつある傷口にまた乱暴に触れられるような思いになって閉口した。
『日本ではリンティンティンなんて気取って呼ばないのよ、
お母さんが言ってたわリンチンチンなんだって、
そのオーチンチンが素敵なシェパードでとても賢くて大活躍だったって話してくれたじゃない?』
『私達、リバイバルなんてお父さんに連れていったりなんかしてもらえないから、あれって自慢したかったんでしょう?リバイバルを見たあと、家族で帝国ホテルでディナーだったって言ってたよね?鼻高々って感じで威張って言ってた』
『そんな…!威張って言ったんじゃない!』
エミリーは慄然として言った。
『だって本当のことをただ言っただけよ?』
『嘘だあ、うちはお金持ちだからあんた達とは違うのよって本当は言いたいんじゃないの?
だからあんなこと自慢して言ったんでしょう?帝国ホテルでディナーなんてしたこともない私達に、』
『私、そんな風に考えたこと無かったわ…ただあった出来事を話しただけだったんですもの…』
『だったんですもの…だってさ』
そう言われてエミリーは何か自分の日本語が可笑しいのか、自分自身が可笑しいのか混乱し、不安に爆発しそうな思いになった。
『そんなんだからよ、
オーチンチンのことでガツンという目に遇わせてやろうって私達女子のクラスメートみんなて話し合ったの、そしたらガーティたら信じられないほどバッチリ引っ掛かって…』
『というより、何度でも本当に面白いくらい私達の作り話を信じちゃうのよね』
『ねえ、ガートルードさん?
自分は私達とは違うって本当は思ってるんでしょう、
私は綺麗だとか、おうちが裕福だとか、でも教えてあげましょうか?貴女なんかたいしてそんなに綺麗でもないのよ、
その色づきのヘンテコな眼鏡もカッコ悪いしその眼鏡の下の眼の色は片跛(かたちんば)で気味が悪いってことだってみんな知ってるんだから、その不気味なまるで妖怪みたいな眼を隠す為にそんな不恰好なでっかい眼鏡掛けたりして…
余計気味が悪く見えるだけなのにってみんな影で嗤ってるわ』

『私…水色の右目がほとんど生まれつきの弱視で見えていないのよ、左のブラウンのほうの眼はよく見えてくれているんだけど…
でもどちらも直射日光に弱いの、だから仕方無くて紫外線や赤外線やいろんな刺激から眼を守る為にこんなまるでサングラスみたいな眼鏡を掛けているの、
でもそれはこれ以上弱視が進まないようにするためのプロテクトで…見た目が変でもそれをやめることは私には出来ないんですもの』
『バレエや乗馬も習わせてもらっているんでしょう?』
『ええでもどうして?』
『ええでもどうして?』
ふたりは驚くほど高低、揃えて同時に歌うように美しくハーモニーと化してエミリーの言葉をオウム返しにした。
そしてその偶然の調和の美しさに戦慄するエミリーに気づかないふたりはまるで舞台に立つ息の合った女優達のようにそのままごく自然に喋り始めた。
『よっぽどご自慢なのね、
私みたいに御姫様のようなブルジョア育ちはあんた達みたいな平民とは一緒にしないでよねってまるで言ってるみたいだった』
『…私…
ただ習ってるって言っただけよ?
他にも習ってる人がいたら同じ話が出来るかと思って』
と言いかけてエミリーは固唾を飲むようにその先の言葉を飲み込んだ。それはまるで痛い針のように自分の胸を刺すのを感じた。
『そんなこと…
思ってもみなかったし…そんなこと…どうしたら思えるの?』
エミリーの瞳から耐えきれずに泪があふれだした。
『自慢はやめてよね』
『自慢?
本当のことを言っただけじゃない、それに』と思わずエミリーは言いつのった。
『もし自慢したとしてもそれのどこが悪いの?いいじゃない?
素敵なことがあって、嬉しかったらこんなに嬉しかったの、ってみんなに伝えても、
私はこんなとこが素敵なのよ、
そう思わない?って言っても…』

『自惚れ屋さんだってみんなからシカトされるだけよ、
お金持ちの画家のお嬢様だってちやほやされたがってるって嫌われるだけよ、
誰もそんなお嬢様のことなんか、本気で楽しく興味持って話聴いたりなんか出来ないもの』
『なんで?』
『なんでって…』ふたりは呆れたように顔を見合わせた。
『私だったら興味ある、
いろいろ聴いて薔薇いろめいた想像をしてしまうわきっと』
エミリーにとってそれは本音だった。ふたりは大きく吹き出すと『薔薇いろぉ??
ちょっと今の聴いた?
‘’薔薇いろめいた‘’だって、
気持ち悪い、
やっぱりガーティって変わってるわ、
なんでそんな言葉使いなの??
ねえ、あんたの日本語絶対可笑しいって、』
ふたりは暫し、身をよじって爆笑していたがようやく色白の少女のほうが人形のように艶のあるおかっぱ頭を振り振り、
こう言いつのった。
『私達は面白くないのよ、
不愉快になるの、
ねっ?国語でこないだ習ったじゃない?不愉快って言葉、
それなのよ、不愉快なのガーティは兎に角、不愉快なの!』
『でも私、本当のことを言っただけよ』
『じゃあもう本当のことを私達の前で二度と言わないでくれない?本当のことだからってなんでも言えばいいってもんじゃないのよ』

『私達もさぁ、ガーティがただのお金持ちの綺麗な女の子なだけなら、そんならこと誰も考えたりしないのよ、
でもガーティは普通に話していて‘’薔薇いろ‘’って言うくらい変じゃん?』
『そう、変、
変なだけじゃなくて誰もが簡単に出来ることが出来ない、
だいたいどうして15引く4は幾つか、解らないの?
貴女、数字の位取りも解ってないから大きい数だと読むことすら出来ないでしょう?
1250円お金を払わないといけない場合、お札でしか払えない時には二千円札と一緒に払うべき小銭の数は何円でしょうか?』
『お願い、やめて』
『答えなさいよ、ガーティ貴女の為を思って教えて上げようとしているんじゃないの、私達』
『そんなの嘘…もうやめて』
エミリーは苦しげに両耳をふさいだ。
色の黒い三つ編みの少女がその手を無理に開くとエミリーにむっとするほど生臭く同時にミルク菓子のような濃く甘い呼気を吹きかけながらこう言った。
『五十円か、あれば二百五十円、よ、でもその意味、貴女に解る?』
『解るわけ無いでしょう?
ガーティったら本当に莫迦なんだから』
『こんなにお莫迦さんなのに毎日あんな素敵な車で送迎されたりしているんだもの、何か石でもぶつけてやりたくなっちゃう、
低能児の癖に!』
『低能児…』
『先生も貴女のことそう言って困ってるし、うちのお母さんもそう言ってた、そういう特殊集団が行く学校へ行けばいいのにって』『みんなそう言ってるわ、
ガーティは綺麗だけどあれは白痴美だって』
『わあ、それはちょっと言い過ぎじゃない?』とふたりはエミリーの前で立ったまま笑い転げた。
『黙れ!メス豚ども!』
一瞬ふたりは凍りついたようにエミリーを見た。
その口はあんぐりと暗い小さな穴のように空いている。
『ブサイク!お前らは全員ブサイクだ!
イジワルでブサイク!
シハイテキで嘘つきで無責任な銀行強盗!スーパー・ブサイクのゲリラ・ブサイク!
一人の私にふたりでよってたかってブサイクなことしか、出来ないなんて恥を知れっ!』
『…ナ…ナニあれ、』
『ブサイクって言った、
私達にブサイクって』
『しかもスーパー・ブサイク??ゲリラ・ブサイクってなんなのよ一体』
『言った!言った!
銀行強盗なんて私達してないわよ!
私、傷ついた!
帰ったらママ達に一緒に言おう、ガーティに苛められたって、』
『もう知らない、
勝手にすれば?どうせ私だけが悪いっていつも言われるだけだもの、
ブサイクデュエットは私の人生から早く消えて無くなれ!』

エミリーはそう激しい語調で言い残すと旋風(つむじかぜ)のように、くるりと薄い背(そびら)を向けると逃げ去った。

『そりゃあ、辛かったね、
それは最近のことなのかい?』
ガードマンは内心半分笑いたいような気持ちを抑えながら神妙な顔をしてエミリーの小さな肩にいたわるように手を置いた。
エミリーは小さく頷いた。
『私、ブサイクって言っちゃったの、本当にブサイクって思ったわけじゃないんだけど悔しくて苦しくなって…そう言ってしまったの、後で後悔したけれど…男の子を殴って怪我させたこともあるわ、』
『そうなんだ、でもまぁいいさ、そんなの、
そのふたり組のほうがずっと上手(うわて)というか…酷いんだから、
よってたかって…
だって2対1だろう?』
『……』
『さっき話の中に出てきた名犬リンチンチンの話は…一体なんだったの?またそのふたりになんか言って騙されたのかい?』
『……』
『名犬リンチンチンなんて懐かしいな、おじさんが若い頃、名犬ラッシーだ、名犬リンチンチンだと白黒映画で流行ったもんだよ、
エミリーちゃんみたいな子供があんな古い映画を知ってるなんて…
そうか、リバイバルか、エミリーちゃんはそれをお父さんと見に行ったのかい?』

『…リンティンティンは本当は日本人のブリーダーさんのお宅で生まれてハリウッドへ貰われていって大活躍したんだってあのふたりに言われたの、』
『へっ?』
『去年のことだったけど…
そのリンティの子供や孫みたいな仔犬が沢山まだ受け継がれて毎年生まれているからリンティンティンの仔犬を見せて下さいってそこの家へ訪ねて行けばそこの人は喜んで見せてくれるから行ってご覧って…』
『それでそれを本気にしたのかい?』
老人は驚いて瞠目すると今度は悲しい驢馬(ろば)のような眼をしてエミリーの頭を撫でた。
そしてその撫でた手のひらを通じて少女の深くて到達出来ない痛みを彼はやはり深い老いで感じた。
エミリーは、それを敏感に感じ取って大粒の泪をこぼすと頷いて言った。
『私、やっぱりおかしいのね?
だってそのおうちは学校から近い場所にあるちっさくてボロっちいおうちだったのよ、
だから私、嬉しくて嬉しくて…
だってそんなボロっちいおうちに実は名犬リンティンティンの孫やその孫の犬達が本当は住んでいるだなんて…まるで童話の妖精や魔法使いが棲む隠れ家みたいでしょう?
なんて面白くて素敵なことを教えてもらえたんだろうって思ったの、なんて私ってラッキーなんだろうって物凄く喜んでしまったの、だってとても嬉しくて…嬉しくて…リンティンティンも嬉しいけれど…そんなに素敵なことを教えてくれたことが、私、とても…とても…
嬉しかったの…』
『……』高いとこへ持ち上げられていきなり前触れもなく意味も解らないまま今度は突き落とされた気持ちにエミリーはなったのだろうと老人は思い、胸がつまった。
『下校の時、いつもお迎えに来てくれる運転手の佐武郎さんに頼んでそのお宅へ行かせて貰おうとしたの、サブちゃんも一緒にリンティンティンの血をひく仔犬が沢山見れるわよって、そしたら…』
『うん?そしたら?』
『サブちゃんがその家は有名な家で…行かないほうがいいって私に言ったの、どうして?私、仔犬が見たいわって言うとサブちゃんがとても悲しそうな顔をしてこう言ったわ、その子達はなんて狡い子達なんだろう、その子達は悪意があってそんなことをエミリーちゃんに吹き込んだんだねって…
サブちゃん泣きそうな顔になって私を黙って運転席で抱き締めてしまったの』
『……』
『後で解ったことなんだけど…
そこの家には男の人が独りで住んでいて…小さな女の子や男の子に変な真似をすることで有名で今までも何回も警察に捕まったり、刑務所を出たり入ったりしている人だったの…あのふたりは私をそこへリンティンティンの仔犬がいるから男の人が出てきたらそう言って見せてもらえって言ったのよ』
『じゃあ、もし本当にエミリーちゃんが行ってその人と逢っていたら…』
疑念の欠片(かけら)も無く訪問してきたエミリーを喜色満面に家へ招き入れるその男の想像をしてガードマンは背中に冷水を浴びせられたように思わず身震いをした。

『ああ、エミリーちゃん、
佐武郎さんに言ってよかったね、もし言わずに独りで行ったりしていたらと思うと…おじさんは居たたまれなくなるよ』
『後でそのことをママに言うとママは私をぶったの、
私が床にひっくり返るほど強くね、
なんでそんな馬鹿馬鹿しいことを本気にするのよって、そんな馬鹿なことがあるわけないでしょう?普通そんなの騙されてるって誰だって気がつくわよって、昔のハリウッド映画で活躍したリンティのブリードをしている人がたとえ今でも居るとしたって、なんでそれが日本の、しかもあんたの通ってる小学校の近所の普通のうちなのよ、ちょっとおかしいとは思わないの?って…そう言って私を白い眼で見てこう言ったの、
‘’ああ、もうこんな子、うんざりよ‘’って』
ガードマンは騙されて傷ついた娘に手を上げた母親の複雑な胸中も察して余りあるものがあったのだろう、と感じながらもエミリーは母親にこそ抱き締めて泣いてその不条理な労をねぎらわれたかったであろうにと不憫に思った。
『私はみんなから騙されてみんなから嫌われてみんなから低能児だ、白痴だなんだって莫迦にされ続けるんだわ、
きっと生きている限り…!』
『……エミリーちゃん…』
『それと私はきっと逆さまの世界で生きているのかも、』
『逆さま?』
『だって私は英語の文字を書くと逆さまにどうしてもなってしまうの、よく注意されたんだけどどうしても治らなくて…まるで鏡に映った文字みたいだねって言われたわ、それと私はリボンや靴紐がどうしても結べなくて…でも最近気がついたの、私は利き手とは逆の手の使い方の方向で結ぶとブサイクだけど結べるのよ、
他にもそういった似たようなことだらけなの、
私はきっと鏡の中に映っている私のほうが本物で、私はニセモノなのかも…ニセモノだからきっとなんにも出来ないのよ』

『…なんだかおじさんはエミリーちゃんと出逢ったことが偶然ではないような気がしてきたよ、』
『どうして?』
『ジェーンちゃんがね、そういう子だったんだよ、だから学校でよく苛められると悩んでいたよ、
あの子も半分外国の子だったけど合の子にはそういう子が多いのかなあ…』
『そんなんじゃない』
とエミリーは即座に否定した。
『私にもよく解らないけど…きっとそんなんじゃない、
でも何かおかしいの、どうしてなのかは解らないけど…でも自分でも感じるの、私、どこかおかしいんだって』

『…ジェーンちゃんがね、
こんなことを言っていたよ、
何度も何度もばっちり騙されて何度もなん信じてしまって私は大馬鹿だってね、
そして最後に逢った時こう言ってたよ、また騙されたんだって、
しかも親友だと思ってた子から騙されてしまったんだってね、』
『……』
『もう二度と人の言うことは信じないし誰とも話したくない、
出来るだけ黙ってもう人と話さないようにする、
ただ馬鹿みたいにニコニコ笑ってるだけでなんにも本当のことは言わない子になるんだって、
それを聴いておじさんは悲しかったよ…

でもジェーンちゃんがそう絞り出すようにして言った気持ちも解るんだ、そう言うまでに追い詰められた経験が多すぎたんだろう、
子供にあんな言葉を吐くように言わせるような国だったんだなぁ、この国は…
昔はそうじゃなかったはずなんだが…それともそれは私の幻想だったのかな、
昔、子供達はみんな、みんな…
私を見て幸せそうに笑ってるように見えたんだが…』

老人はエミリーの頭に暖かい手を起き、その緩やかに波打つなめらかな彩絹のような髪を黙って撫でた。
『ねえ、エミリーちゃん見てご覧、
ここからの風景、綺麗だろう?』『うん…でも少しフォギーね』
『うん?フォギー?
なんだい?そりゃあ、ああ…そうか、霞んでるって云いたいんだね、うん…
…春霞(はるがすみ)だよって云いたいとこだけど…今は春じゃないし…
あれは光化学スモッグかな』
『コウカガク?…ってナニ?』
『人間だけが便利な思いをする代わりに地球や生き物全てを汚してしまう人間が造り出してしまった毒のことさ』
『それ…酷い』
『そうだね、地球や人間以外の生き物全てにまで迷惑をかけてしまっているものね、
きっと光化学スモッグもだけど、これからいろんなことで人間はこの大切な地球をもしかしたら失ってしまうのかもしれない』
『そんなのいや、そんなの駄目よ、私も人間だもの、
私もきっと悪いのね?』
『おじさんもなんだよ、
人間はみんな罪深いんだ、
でも自分は関係無い、知らないなんて気づきの無い人が一番可哀想なんだ、
だけど可哀想なんだから赦してあげなきゃ…』
『……私、赦せない、
私を騙したり嗤ったりしたたくさんの人達のこと…』
『…そうだね…いいんだよ
、それで…おじさんもずっと他人のことが赦せなかったもの、
今だって本当に赦せてるのかって云われたら…
もしかしたらそうじゃないかもしれない、
だとしたらだてに歳だけとってしまったってことなのかな…』
『……おじさんはダテに歳なんかとってないよ、
大丈夫、素敵な人よ、だっておじさんは綺麗な色をしているもの』『綺麗な色?おじさんのどこが綺麗な色?』
ガードマンは楽しそうに質問した。
『…解らないわ、どこの色なのか、でも感じるの、見えるんじゃなくて…感じるの、
人には色があるわ、
それぞれ、音や声、気持ちが動く時にも安心出来る色、怖いような色、不安で…辛くなる色、
でもそんな色が興奮や嬉しさや悲しみやいろんな気持ちが強すぎる時には見えにくくなる時があるの、』
『とても不思議な現象だね…
それは一体なんだろう?
人の魂の色なのかな?私の色は綺麗に見えるのかい?』
『うん、とても綺麗よ、
よく似た色の薔薇を知っているわ』『エミリーちゃんは知らないんだ、私はそんな綺麗な色の人間なんかじゃないんだよ、
長く生きてきたからね…後悔することだって沢山抱えている』
『でも…本当に綺麗よ』
ガードマンはあの哀しみと優しさを混ぜ合わせた糖蜜のように黒く澄んだ驢馬のような瞳でエミリーをじっと見つめると何かを言いかけてふと止めた。
『さてと、おじさんはエミリーちゃんとサンドイッチで腹ごしらえしたから食後の運動代わりに今度は小さなレディをダンスにお誘いしようかな?』
『私と?嬉しい、
丘の上でダンスなんて素敵!
私、パパとよく家でダンス踊るのよ』
『そいつぁ素晴らしい、
エミリーちゃんのパパのように上品で素敵なダンスは出来ないと思うがおじさんは若い頃、これでも社交ダンスを習ったことあってね、だけどそれほど上手じゃないからちょっぴり迷ったんだが…
でも悲しそうなエミリーちゃんを見てたら…』
『迷わないで、
おじさんは迷う人じゃないわ、
だって今キラキラしてるもの、
おじさんの色!』
『エミリーちゃん…』
エミリーはふと老人の眼に泪が光った気がした。
ガードマンは持ってきていたラジオにカセットテープを入れるとラジオボタンを圧した。
『おじさんの好きな音楽なんだ、エミリーちゃんさあ一緒に踊って』その曲はエミリーが初めて耳にするアフリカ系アメリカ人の黒人音楽だった。
美しいメロディアスなラブ・バラードでLa La La…から始まり男性歌手の甘いビブラートが心地好くラジオカセットを置いた地面を通じて踊るふたりの足裏にまで響いた。
男性シンガーの唄う女性名を老人は『エミリー』に替えて『アイラブユー』と歌った。
そのほんのり粘稠度(ねんちゅうど)のあるアメリカの砂糖菓子のようにどこかに癖のあるくどさを秘めたそれでいて甘美なその若い歌声に合わせて老人は一生懸命歌った。
踊りながら老人は歌うのをやめ、突然打ち明けるようにこう言った。
『エミリーちゃん、
あのね、おじさんは若い頃、
サーカスの花形ピエロだったんだ!』

とうに昼休みは終わったというのにふたりはいつまでも誰も居ない丘の上で歌いながら泣きながら笑いながら…
楽しく哀しく滑稽に醜くそして美しく時を忘れて踊り続けた。
そしてエミリーは小さく真っ暗な胸の中でこう思った。

‘’生きよう‘’と…





…to be continued…

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