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【第27章・駒込の妖怪】狩野岑信 元禄二刀流絵巻(歴史小説)

第二十七章  駒込の妖怪

 元禄十年(一六九七年)師走二日の夕刻、甲府藩主従は、三河島御狩場から浜屋敷に帰還した。吉之助と竜之進が間部の御用部屋で待機していると、藩主夫妻への報告を済ませた間部が戻ってきた。

「間部様。山中さんの容態は?」
「ええ。右肩に矢を受けて重傷ですが、命に別状はありません」
「それはよかった。あの時、近習頭が、殿の肩に付いた枯葉を払おうと手を伸ばさなければ、大変なことに・・・」

「幸運でした。殿にお怪我でもあれば、我ら揃って、これです」と言うと、間部は自分の腹に右拳を当て、さっと横に引いた。綱豊はともかく、正室・近衛熙子にこっぴどく叱られたようだ。その場にいなくてよかった。

 すると、竜之進が警備上の反省点を述べ始めた。
「鷹狩をしながらの警護は思った以上に難しいですね。動いている間に鳴海様の指揮する部隊との連携も乱れ、警護の輪に大穴が開いてましたよ」
「そうだな。あと、鶴を驚かさないよう、全員徒歩でお守りしていたのも失敗だった。せめて一人でも騎乗の者がおれば、事前に見つけられたはずだ。下手人を取り逃がすこともなかっただろう」

 ちょうど同じ頃、その下手人が、駒込の川越藩下屋敷に入った。

 背が高い。肩の筋肉は鋼の如し。そして、腰に普通より反りの深い大刀を差す。誰あろう。半年前、京都島原の遊郭から姿を消した新見典膳ではないか。

 彼は今、川越藩士である。役職は江戸家老直属の密事方組頭並。まだ一代抱え(臨時雇い)扱いだが、禄は百石相当。吉之助や竜之進より高給取りだ。

 彼が川越藩に仕官できた理由はいくつかある。まず、近江米原の禅寺・青厳院の住職の紹介状を持っていたこと。この時代、僧侶の社会的信用力は現代の比ではない。

 次いで、彼が甲斐源氏の流れを汲む名門・新見家の出であること。

 川越藩の藩主は、言わずと知れた将軍綱吉第一の側近にして大老格老中首座・柳沢吉保である。官位は、従四位下出羽守。

 吉保は、主君が将軍継嗣となったことで館林藩士から幕臣に転じた。その時、二十三歳、五百石そこそこの平近習でしかなかった。それが元禄元年(一六八八年)、三十一歳で大名となる。上総(千葉県中央部)の佐貫藩主一万二千石。そして、出世はさらに加速。万石単位の加増が続き、今や七万二千石。領地も関東平野の要衝・川越に転じている。

 ただ、弊害も出る。出世のスピードに家中の整備が追い付かない。武士の雇用は、終身雇用どころか、正規採用が決まれば末代まで面倒を見なければならない。足りないからと言って誰でも彼でもというわけにはいかない。

 さらに、吉保は柳沢家が武田信玄の遺臣であることを事あるごとに強調し、家臣団の中核を甲州者で固めようとしていた。これがまた新規採用のハードルを上げてしまっているのだが、この点、典膳には幸いであった。

 そして最後に、川越藩において藩内の人事を一任されている江戸家老が、典膳の剣技と彼の持つ隠し金山にまつわる書類の価値を正当に評価できる目を持っていたこと。

 その江戸家老、名を穴山重蔵という。彼の主より五つ年長の四十五歳。

 駒込の下屋敷内、主殿の西端に穴山の執務室を兼ねる小座敷がある。穴山は、畳の上に数枚の図面を広げ、細かくチェックしていた。近々始まる屋敷の改修工事。図面は、その目玉となる大庭園と工夫を凝らした茶室などの配置図や設計図だ。すると、妙な方向から声がした。

「ご家老。新見典膳、ただいま戻りました」
「典膳か。どこにおる?」
「はっ、お庭先に」
「どうした? 構わぬ、入って来い」
「いえ。何せ、全身泥まみれなもので。こちらでご容赦を」

 穴山は立ち上がり、洒落た竹格子の連子窓から外を見た。
「何という格好だ。早く長屋に戻って体の手入れをしろ」
「はっ。取り敢えず、ご報告をと思いまして」
「後でよい。たった一人で中納言様のお命を取れるとは思っておらん。今回は、心胆寒からしめれば、それで十分よ」
「左様ですか。しかし、今一歩でした。あの近習が遮らなければ・・・」

「何だと?! 中納言様ご本人に矢を射たのか」
「はい」
「あのだだっ広い狩場で、よく。典膳、そなた、引きが強いのう。いやはや、驚いたぞ」

「残念です。本番では必ず」
「本番?」
「はい。次こそ、必ず仕留めて見せます」

「馬鹿を申すな。本番に刺客など放てるものか。今日そちに任せたは、ひとつの布石。いや、単なる腹いせだ。鶴御成、甲府中納言は辞退すると思っておった。それ故、殿から申し入れてもらったのだ。中納言が辞退すれば、御三家もそれに倣う。最終的に殿が家臣代表としてやる。殿の格がさらに上がる、とな。ところが、案に相違して受けおった。これでは、わざわざ中納言が目立つ舞台を設えてやったようなものだ。間部あたりの入れ知恵と思うが、してやられた」

「それでは、尚更」
「そうもいかん。鶴御成は朝廷のご要請。やる以上、しっかり鶴を狩って帝に献上してもらわねば、こちらも困る。桂昌院様叙位の件が上手く進んでおらん。朝廷のご機嫌取りは、殿にとっても大事なのだ」

「はあ」
「何だ、その気のない返事は。心配するな。そなたの働き所はいずれ用意する。そうだ。年が明けたら、私は一度都に上らねばならんが、その間にそなたは川越に行ってくれ」
「構いませんが、川越で何を?」

「当藩には、そなた同様、新規召し抱えの藩士が多い。江戸詰めの藩士はともかく、国元の連中やその子弟となると、なかなか目が届かん。特に家を継げない次男三男あたりに腕の立つ奴がいないか、見てきてくれ。いずれ、そなたと共に暴れてもらうことになろう」
「承知しました」

 そのまま下がろうとする典膳を、穴山が、「ああ、待て」と止めた。そして、違い棚の下の小引き出しから小判を二、三枚取って懐紙に包み、窓の竹格子から外に落とした。
「寒い中、ご苦労だった。湯屋にでも行ってこい」

 黙って拾い去って行く典膳。腰に三日月のような大刀。後ろ姿だけですでに物騒だ。仕官に際し、本人から申告はなかったが、穴山は、典膳が甲斐を出奔した経緯を知っている。構わない。主君の側に置くならともかく、彼自身が使う分には、凶状持ちだろうが何だろうが有能ならそれでよい。

 穴山が座に戻るべく振り向くと、畳の上の図面が目に入った。視点が変わったからか。
「そうだ。何か足りないと思っていたが、ここにもうひとつ、姿のいい灯籠でも置いたらどうだ? うん、いいぞ。池の景色が一層よくなる。明日、殿に申し上げてみよう」

 図面を一枚取り上げ、しばし凝視。さらに他の図面を見直す。中肉中背、何の変哲もない中年武士。典膳のような迫力や威圧感はない。かと言って、間部のような見るからに才子という風でもない。凡庸な中間管理職、それ以上にはまず見えない。

 しかし、この男は、長年、主の出世のため陰で策を巡らし、数え切れない政敵や邪魔者を葬ってきた。手は血で汚れ、体中に人の恨みがこびり付いている。

 無論、後悔などない。地獄落ちも覚悟の上。死後に見るのは血の池や針山ばかりだろう。ならば、死後に見れない極楽は、この世にある内に見ればよい。ないなら自分で作ってしまえ。
 そういう思いで、彼は、主と共に新しく作る大庭園の図面を飽きることなく眺めていた。

次章に続く


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