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【漢詩で語る三国志】第1話「平原を覆う白骨、幼子を棄てる飢えた母」


漢王朝の衰退

 後漢の時代、宮廷では外戚(皇帝の母方の一族)と宦官(去勢した宮中の役人)が勢力争いを繰り広げていた。
 後漢では、幼少の皇帝が続いて即位したため、皇太后の一族が代わりに執政し、皇帝を輔佐するという名目で権力をほしいままにしていた。
 一方、宦官は、もとは奴隷的な卑しい身分であったが、つねに皇帝の傍らにいて宮廷内の機密に通じていたため、政治の舞台裏で暗躍し、朝廷を私物化するようになる。

 後漢末、一部の官僚がそうした宦官の弊害を公然と批判すると、宦官勢力は彼らに対して、延熹九年(一六六)と建寧二年(一六九)の二度にわたり、大がかりな弾圧を加えた。これが「党錮(とうこ)の禁」と呼ばれる歴史的事件である。多くの官僚が処刑されたり、政界から追放されたりした。

蔡倫(後漢の宦官)

 こうして王朝が衰退し、崩落の一途をたどる中、霊帝の中平元年(一八四)、「黄巾(こうきん)の乱」が勃発する。鉅鹿(きよろく)(河北省)の張角(ちようかく)が太平道(たいへいどう)という宗教結社を創始し、貧困と疫病にあえぐ農民たちを取り込んで蜂起した。
 「木、火、土、金、水」が循環して万物が相生ずると説く五行思想の「相生説」に基づき、「火徳」の漢王朝に取って代わる「土徳」の天下を目指すことを標榜し、信徒はシンボルカラーである黄色の頭巾を巻いた。

黄巾の乱

董卓の暴挙

 黄巾の乱は、やがて鎮圧されるが、都の混乱は収まることなく、中平六年(一八九)、宮中で事件が起きる。大将軍の任にあった外戚の何進(かしん)が宦官一掃を企てたが、計略が事前に発覚し、逆に十常侍(じゅうじょうじ)(霊帝の時に徒党を組んだ十人の宦官)によって謀殺されてしまう。

 代わって、袁紹(えんしょう)が宮中を襲って、宦官の殲滅に成功するが、今度は涼州(甘粛省)の軍閥董卓(とうたく)が、機に乗じて入城し、都洛陽を武力で制圧する。
 董卓は、霊帝の死後に即位した少帝を廃して、陳留王(献帝)を帝位に据え、宮中で傍若無人に振る舞い、暴虐の限りを尽くす。

董卓

 初平元年(一九〇)、悪逆非道の董卓に対して、袁紹・曹操らが挙兵して討伐軍を起こすと、董卓は洛陽を焼き払い、献帝を擁して長安への遷都を強行した。

 その董卓もまもなく王允(おういん)と呂布(りょふ)によって殺害され、やがて各地の軍閥が覇を競う分裂の時代が訪れる。
 戦禍は全土に及び、群雄割拠の中、星の数ほどの兵士たちが戦場に打ち棄てられ、民は家を焼かれ土地を逐われ、塗炭の苦しみにあえいでいた。

曹操

建安詩壇と王粲

 後漢末の建安年間、曹操父子とその周囲の孔融(こうゆう)・王粲(おうさん)・劉楨(りゅうてい)・陳琳(ちんりん)・阮瑀(げんう)・徐幹(じょかん)・応瑒(おうとう)の「建安の七子」らによって詩壇が形成された。

 動乱の時代を反映した風格と気骨に満ちた剛健な詩が多く作られ、「建安の風骨」と称された。王粲は、勇壮悲痛な詩風で名高く、七子の中でも卓越した詩人として評価されている。

 王粲(一七七~二一七)、字は仲宣(ちゅうせん)。曽祖父の王龔(おうきょう)、祖父の王暢(おうちょう)は、共に漢王朝の三公(最高位の大臣)となり、父の王謙(おうけん)は何進の長史(輔佐官)を務めた名門豪族の出身である。

王粲

 董卓が洛陽から長安に都を遷すと、王粲もそれに従って移住する。のち、董卓死後の混乱によって長安が乱れると、難を避けて荊州(けいしゅう)へ逃れ、その地に割拠していた軍閥劉表(りゅうひょう)のもとに身を寄せる。

 劉表と王粲とは、劉表が若い頃、王粲の祖父王暢に学問を学んだという繋がりがあった。ところが、劉表は、王粲が小男で風采の上がらぬ容貌である上に性格もずぼらであるのを嫌って、重用することはなかった。
 劉表の死後、王粲は荊州を併呑した曹操に仕え、曹操が魏公となると侍中(じちゅう)に任命され、法令や儀礼の制定に優れた才能を発揮した。

 ここに挙げるのは、王粲の代表作「七哀詩(しちあいし)」、五言古詩三首の中の第一首である。長安の混乱を逃れて荊州へ向かった際の体験を歌っている。                 
                             
  西京亂無象  西京(せいけい) 乱(みだ)れて象(みち)無(な)く
  豺虎方遘患  豺虎(さいこ) 方(まさ)に患(わざわ)いを遘(かま)う
  復棄中國去  復(ま)た中国(ちゅうごく)を棄(す)てて去(さ)り
  遠身適荊蠻  身(み)を遠(とお)ざけて荊蛮(けいばん)に適(ゆ)く

  親戚對我悲  親戚(しんせき) 我(われ)に対(たい)して悲(かな)しみ
  朋友相追攀  朋友(ほうゆう) 相(あい)追攀(ついはん)す
  出門無所見  門(もん)を出(い)でて見(み)る所(ところ)無(な)く
  白骨蔽平原  白骨(はっこつ) 平原(へいげん)を蔽(おお)う

  路有飢婦人  路(みち)に飢(う)えたる婦人(ふじん)有(あ)り
  抱子棄草閒  子(こ)を抱(いだ)きて草間(そうかん)に棄(す)つ
  顧聞號泣聲  顧(かえり)みて号泣(ごうきゅう)の声(こえ)を聞(き)くも
  揮涕獨不還  涕(なみだ)を揮(ふる)いて独(ひと)り還(かえ)らず

  未知身死處  未(いま)だ身(み)の死(し)する処(ところ)を知(し)らず
  何能兩相完  何ぞ能(よ)く両(ふた)つながら相(あい)完(まった)からん
  驅馬棄之去  馬(うま)を駆(か)りて之(これ)を棄(す)てて去(さ)る
  不忍聽此言  此(こ)の言(げん)を聴(き)くに忍(しの)びず

  南登覇陵岸  南(みなみ)のかた覇陵(はりょう)の岸(きし)に登(のぼ)り
  迴首望長安  首(こうべ)を迴(めぐ)らして長安(ちょうあん)を望(のぞ)む
  悟彼下泉人  悟(さと)る 彼(か)の下泉(かせん)の人(ひと)
  喟然傷心肝  喟然(きぜん)として心肝(しんかん)を傷(いた)ましむるを

 長安遷都の後、騒乱の渦中にあった都を脱出して荊州へ赴く道中での見聞を歌っている。「七哀」とは、さまざまな悲哀をいう。この詩は、後漢末の動乱を哀しんで歌ったものである。

平原を覆う白骨

 道中、王粲が目にしたのは、言葉を失う光景であった。都は戦火と略奪で廃墟と化し、拾う者もいない屍が野を覆い尽くしている。

西京(せいけい) 乱(みだ)れて象(みち)無(な)く
豺虎(さいこ) 方(まさ)に患(わざわ)いを遘(かま)う
復(ま)た中国(ちゅうごく)を棄(す)てて去(さ)り
身(み)を遠(とお)ざけて荊蛮(けいばん)に適(ゆ)く

――西の都長安は混乱に陥って秩序を失い、山犬や虎の如き者どもが今まさに災禍を引き起こしている。わたしはまたもや都を捨てて、遥か遠く荊州の地に身を寄せることになった。

「西京」は、長安。洛陽を「東京(とうけい)」と呼ぶのに対してこう呼ぶ。横暴を極めた董卓は、初平三年(一九二)、王允・呂布らによって殺害されるが、董卓の死後、その部下の李傕(りかく)・郭汜(かくし)らが挙兵して長安に攻め入り、都を占拠して略奪と殺戮を繰り返していた。「豺虎」は、これら乱賊のことを指す。
「中國」は、天下の中心をいう。天子のいる都、あるいは広く中原の地(長安・洛陽のある黄河中流域を中心とする地域)を指す。「復」とあるのは、王粲は先にも洛陽を捨てて長安に移り、今また長安を去ろうとしていることをいう。荊州は、江陵を中心とする湖北・湖南省一帯の地。かつては南方の異民族の地であり、中原の人々からは未開の地とされていたため「荊蛮」と呼ぶ。

親戚(しんせき) 我(われ)に対(たい)して悲(かな)しみ
朋友(ほうゆう) 相(あい)追攀(ついはん)す
門(もん)を出(い)でて見(み)る所(ところ)無(な)く
白骨(はっこつ) 平原(へいげん)を蔽(おお)う

――親類はわたしの面前で嘆き悲しみ、友人はわたしに追いすがって別れを惜しんでくれた。城門を出ると、そこにはほかに目に入るものは何もなく、ただ白骨が平原を覆うばかりだ。

 城門を出た王粲が最初に目撃したものは、平原を覆い尽くすおびただしい数の白骨であった。打ち続く戦乱の世に、屍体が野ざらしになっているという情景描写は、曹操の楽府詩(がふし)「蒿里行(こうりこう)」にも、「白骨野に露(さら)され、千里鶏鳴無し」(白骨が野ざらしになっていて、千里四方ニワトリの鳴き声すら聞こえない)と歌われているように、戦場と化した町や村の惨状を描く常套表現であるが、おそらく王粲の目が捉えた実景そのものでもあったであろう。

幼子を棄てる母

 詩はさらに続く。道を急ぐ王粲の視界に入ってきたのは、泣き叫ぶ幼子とそれを力無く抱きかかえる母親であった。

路(みち)に飢(う)えたる婦人(ふじん)有(あ)り
子(こ)を抱(いだ)きて草間(そうかん)に棄(す)つ
顧(かえり)みて号泣(ごうきゅう)の声(こえ)を聞(き)くも
涕(なみだ)を揮(ふる)いて独(ひと)り還(かえ)らず

――路傍には、飢えた女性が一人、胸に抱いた幼子を草むらに棄てている。わが子の泣き叫ぶ声を耳にして、振り返りはしたものの、涙をぬぐいながらその場を離れ、引き返そうとはしない。

 広角で捉えた平原の光景から、あたかもズームをかけるかのように、目の前の飢えた母親が幼子を棄てる場面へと視線が移る。そこには、戦時下の民衆の悲惨な現実が縮図として映し出される。

未(いま)だ身(み)の死(し)する処(ところ)を知(し)らず
何(なん)ぞ能(よ)く両(ふた)つながら相(あい)完(まった)からん
馬(うま)を駆(か)りて之(これ)を棄(す)てて去(さ)る
此(こ)の言(げん)を聴(き)くに忍(しの)びず

――女は言う、「わが身さえどこで果てるかもわからぬありさま。どうして母子二人いっしょに生き延びることなどできましょう」。わたしは馬に鞭打ち、母子を見捨てて立ち去った。彼女の言葉を聞くに忍びなかったからだ。

 飢餓のためにわが子を棄てざるをえない現実。きわめて悲惨な状景でありながら、当時にあってはごく日常的な、ありふれた状景でもあった。
 王粲は、その場に立ち会いながら、自らは何一つしてやることもできぬまま去っていく。繰り返し用いられる「棄」の字が、作者の悲愴感と無力感を雄弁に物語っている。

南(みなみ)のかた覇陵(はりょう)の岸(きし)に登(のぼ)り
首(こうべ)を迴(めぐ)らして長安(ちょうあん)を望(のぞ)む
悟(さと)る 彼(か)の下泉(かせん)の人(ひと)
喟然(きぜん)として心肝(しんかん)を傷(いた)ましむるを

――南へ向かって、覇陵の高みに登り、振り向いて長安の方角を望み見る。今こそはっきりとわかった。あの「下泉」の詩を歌った人々が深くため息をついて心を痛めたその気持ちが。

 「覇陵」は、前漢の文帝(劉恒)の陵墓。長安の東南郊外にある。文帝の時代は、太平の世が保たれた時代であった。古(いにしえ)の平和な都と今の荒廃した都とが、鮮やかな対比をなしている。
 「下泉」は、『詩経』「曹風」にある詩。悪政に苦しむ民衆が昔の治世を思い、明君を待ち望んだ詩とされ、周の都鎬京(こうけい)の盛時を偲ぶ詩句が繰り返されている。「七哀詩」最後の四句は、当世の惨状を目の当たりにした作者王粲が、「下泉」の詩に込められた古代民衆の悲痛な思いを今しみじみと思い知るという結びである。

三国争覇の幕開け

 長安遷都に伴う董卓の暴挙によって、洛陽は壊滅的な被害を受けた。
 北宋・司馬光(しばこう)の撰した『資治通鑑(しじつがん)』の献帝初平元年(一九〇)の条に、

悉(ことごと)く宮廟・官府・居家を焼き、二百里の内、室屋蕩尽し、復た鶏犬も無し。又呂布(りょふ)をして諸帝陵及び公卿以下の冢墓を発(あば)かしめ、其の珍宝を収む。

――宮殿、宗廟、官舎、民家を尽く焼き払い、二百里四方、建物はすべてなくなり、ニワトリや犬さえも姿を消してしまった。さらに、呂布に命じて歴代皇帝の陵墓や三公九卿ら高位高官の墓をあばかせ、埋葬された宝物を収奪した。

とあるように、洛陽は文字通りの廃墟と化した。

 献帝は、その後なお三十年間帝位にあったが、洛陽の崩壊は漢王朝の滅亡を意味するものであった。前漢・後漢併せて四百年の栄華を誇った王朝の終焉と同時に、荒廃と混沌の中に三国争覇の時代がいよいよ幕を開ける。

 小説『三国志演義』の冒頭は、次のような言葉で始まる。

話説(さて)、天下の大勢、分かるること久しければ必ず合し、合すること久しければ必ず分かる。

――そもそも天下の大勢というものは、長い間分裂していればいつかは統一され、長い間統一されていればいつかは分裂する。 
 
 中国の歴史は、「一治一乱」の繰り返しである。周王朝の末、戦国時代に七つの強国が覇を競うが、やがて秦によって併合され、秦が滅ぶと楚漢の興亡が続き、やがて漢が天下を治める。漢王朝は、一時は王莽(おうもう)の簒奪で滅びるが、光武帝によって再興される。

 そして、前後四百年の長きに及んだ漢王朝による統一が崩れると、やがて三国争覇の時代が訪れ、再び隋によって統一されるまでの三百数十年の間、長い分裂の時代が続くことになるのである。


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