私が運んでいたものは

黄色いテーブルクロスの上に置かれた、きちんと折りたたまれた真っ白なナフキン。その上にはメニューカードが立てかけられ、スポットライトを浴びて輝いている。これからどんなメニューが出てくるのだろう。はやる気持ちを押さえながら、文字を追う。

何だ、このメニューは。

隅々まで知り尽くして、全てのメニューを把握しているはずのレストランで私たちに用意されていたのは、誰も知らないスペシャルコースだった。


大学生の頃、フレンチレストランで四年間アルバイトをしていた。そこでの仕事は楽しくて充実していたけれど、大学卒業のタイミングに合わせてアルバイトも辞める予定だった。せっかく慣れた仕事、可愛い後輩。離れたくないものもたくさんあった。あと少し、と思うと何もかもが愛おしくて、営業を終えて、ぱちり、とホールの電気を消すたびに寂しさがこみ上げた。

出勤も残り数回になった三月上旬、料理長から声を掛けられた。

「かおりちゃん、今度ディナー食べに来たら?」

一緒にアルバイトを卒業する予定だった同級生と三人でおいで、と誘われた。四年間働いていたけれど、自分がお客さんとして利用したことは一度しかない。せっかくだし記念に行こうよ、と三人で日程を合わせて、予約を取った。

指折り数えてその日を待った。記念日に使うお客さんが多いレストランだったから、お客さんはみんなこんな気持ちだったのだろうか、と遅ればせながら想像した。私はこの楽しみに、期待に、きちんと応えられていたのかな。この気持ちをもっと早く知っていれば、もしかしたらもっといいサービスが出来たかな。期待感に、ほんの少しの苦さも滲んだ。

当日、三人そろってレストランのドアを開けると、後輩がにっこり笑って席まで案内してくれた。ぴしっと背筋が伸びて、椅子を引く動作もすごくきれいで、何だかもうそれだけで胸がいっぱいだった。予約していたのは、私たちでも手が届く一番安いディナーコース。けれど、テーブルに置かれていたメニューカードはそれではなかった。もうひとつ高いコースでも、一番高い記念日用のコースでもない。

メニューが変わったときの試食で私たちが「おいしい」と言ったものを寄せ集めた、この日だけの、私たちだけの特別コースだったのだ。

桜をイメージしたオードブルも、皮はぱりっとして身はふっくらした鰆も、ひとつずつ味が違う付け合わせの野菜も「最高」だった。昔から母に「『最高』じゃなくてもっと具体的な表現を」と口酸っぱく言われていたのだけれど、今日は「最高」でいいや、と思った。それ以外の言葉が、見当たらなかったのだ。

デザートに、あまり上手ではないチョコレートの文字で「卒業おめでとう」と書かれたケーキが運ばれてきたとき、私たちは三人でぽろぽろ泣いた。持ってきた社員のコックさんは「もう、やめてや」とおろおろして、それでも少しだけ赤い目のまま、他のお客さんから私たちがあまり見えない位置にしばらく立っていてくれた。お腹も胸もいっぱいで、もう食べられなかった直径18cmのケーキは、仲良く三等分して小さなケーキ箱に入れてもらった。

今日はもう上がったという料理長に、早くお礼が言いたかった。食休みをとりながら、「また直接言いますね」と前置きして、LINEを打つ。

きっと、待っていたのだ。そんなスピードで返信があった。

四年間、うちで頑張ってくれてありがとう。
僕からの精一杯の卒業祝いでした。喜んでもらえてよかったです!
今感じている喜びを、かおりちゃんたちもお客さまにたくさんプレゼントしてきたのだと思いますよ

「ねえ、料理長から返信きたよ」と同級生にかける声が揺れる。少しだけ、また三人で泣いた。


卒業して三年が経つのに、私たちがお店を訪ねると未だに赤字が心配になるほどの大サービスで迎えてくれる。何でも飲んで、と言われるワインも、口に入れたらなくなってしまう柔らかさのお肉も美味しい。でも、一番嬉しいのは、もっともっと根っこのところだ。

静かにテーブルに置かれたメインのお肉。鮮やかなオレンジ色のにんじんのソースがぐるりと大きくステーキを囲んで、その周りをさらに花びらのように彩っている。

「……これ、はなまるですか?」

「うん、頑張る子に」

にやっ、と笑って料理長は厨房に帰ってゆく。

私は、ここが日本で一番おいしいレストランだと思っている。

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