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春風美神アンビバレンス(掌編・春)

 僕に言わせれば、あなたは美神に愛されたのよ、ということだ。だけどあなたはすこしもその美しさを利用しようともしないで、それどころかその美しさを見逃さない他人に指摘されるばかりの人生に困惑している――ボクの顔に何があるというのかわからないけど、どうかボクの中身を認めてほしいんだけどな。ま、いっか――さらにはこんな具合に思考が謙虚で純朴であるせいで人格まで完璧になるっていう見事さだ。本気でそんなことをやっている人間なんてはじめて見た。しかもあなたはあなたのような美しさにありがちな憂鬱な陰りがないときた。精神に昏さというものがちっともないんだ。あなたの憂いは実に爽やかすぎて絵画(アート)に昇華するなんてそんな安易なことさえさせる隙もない。あなたには少年のような貪欲さがあってもやましさがなくて、あなたはこの春の陽気どころか夏の南の国のような陽気さで誰かに嫉みを買うような場所からはるか遠くに走り抜けている。誰もあなたを捕まえられない。それなのにあなたからみんなを捕まえにくる。あなたほんとうに自由な人だ。矛盾が両立する神秘。あなたをどう形容していいのかわからない。あなたに相応しい日本語はいったいなに?
 嗚呼、息継ぎを忘れかけていた。意識の中では呼吸がいらないから楽ちんだわ。昂ぶってしまった心を落ち着けるために大きく息を吐いて、何もないことを装うために先のはげた中指のピンクのネイルを眺めて親指の爪と合わせる。
「汚いわね、ちゃんとサロン行きなさいよ」
 きつく睨みかけたのを芝居っぽく誤魔化して、顎を持ちあげる。
「うるさいわよブタ。炭水化物ばっか食べてるくせにっていうか、見ないでよ」
 油脂でてらてらした下唇を突き出す顔にイラッとする。この女は喜んでいる。痩せているくせにブタと呼ばれて否定もせず喜んでいる。オカマに罵られて喜ぶ女は掃いて捨てるほどいる。いえ、吐いて棄てるほどいる。それがフレンドリーだと言いたいのだからいい加減にしてほしい。そのくせ割と本気の侮蔑を混ぜて罵ると敏感に感じとるのだから鬱陶しい。喜んでもいないのに勝手に手を出して、しつこく触ってくるからやめてと牽制したら被害者面をする。それでこっちは保健所行き。いいえ大げさじゃない。まわりにまあまあなんて言われてたしなめられる、あのときの惨めさを勝手に疵ついた目で遠巻きに見る、こいつも絶対にそういう女。
 女は首を縮めて麺を挟んだ箸を上下に動かしてから口に運ぶ。あれって何のための所作なのか。スープが落ちてしまったら意味がない。僕もやりますけれど。小指を立てて髪を避けながら啜るのも、だったら髪の毛縛りなさいよ。男が喜ぶとでも思っているのか。それにしても――ブタがブタの脂のグロスを塗る。こりゃ傑作。頬の肉が痙攣しそうになるのをこらえてグレープ生搾りのジョッキを口に押しつける。……何が傑作か。ちっとも面白くない。箸を持つ女の手の鶏みたいな骨の上を走る青い血管を横目でじっ、と見る。僕とはえらい違いの白い肌。だけどあの人の白い手には遠く及ばないわと勝手に勝ち誇る。すると女が気づいて、顔をしわしわにして丼を抱えて、あげないよ、の素振りをした。――この女、大嫌い。今日で二度目で、名前も知らないくせに勝手に懐きやがって。
「食べたら、太っちゃうもんね」
 酒で潤んだ赤い目を嬉しそうに向けて、機嫌の良い挑発の声で絡んでくる。怒張がきた。かろうじて飲み込むために、そっと唇を舐める。
「あなたって、ほんとうにデリカシーのない人ねえ」
 存分に艶を込めて流し目を送る。侮蔑を仕込んで。案の定女の顔に亀裂が入った、ように見えた。一瞬停止した女は傷ついたような微苦笑になって、ひどーい、ねえママ、ひどいんだけどー、と、まったく身も蓋もない台詞をカウンターに叫ぶ。
 こういう女はオカマはみんな面白いと思っているから始末に負えない。サービスなんか、してやらない。僕は芸人じゃない。文化人だ。あんたたちは性癖なんて関係ないと笑いかけては好奇心を正当化する。差別なんてナンセンスとでも言いたげに気安く肩を叩いてくる。初対面でやたらに触ることなんて女同士だってやりゃしない。そもそも気にしていると決めつけるのが差別だってことにちっとも気づきゃしない。だいたい差別をされたくないなんていつ言った? 声高に主張するのは一部のセクシャルマイノリティという横文字の皆々様方だけだ。無自覚の偽善って不細工すぎて、その醤油ラーメンに刺さる下手くそに割られた割り箸がほんとうによく似合う。知っているかしら。しかも中国製の危ない割り箸は水槽に入れたら金魚が死ぬってシロモノよ。
「ママ、ごちそうさま」
「あらもう? ひさしぶりなのに、ゆっくりしないの」
 お金だけのためにそう言うママにごめんねと言って立ち上がる。カウンターに千円札を置くと、ママが慌ててコンロの前に戻った。
「花見酒、持っていきな」
「え?」
 手首をとられて、ホイルのかぶせられたカップ酒を持たされる。
「いいの、今日は、そういう日だから」
 不覚にも鼻の根元が痛んだ。目尻にたくさんの皺を刻んでいるママのいつもは貧乏ぐさいと思う千円カットで不自然なくらいに整えられた白髪混じりのショートヘアに、おかあさん。こころのなかで呟いて、ありがとうと言ってドアを開けてからいきなり母を求めてしまった自分にうろたえた。
 お金だけのために、だなんて。僕は、なんて、ことを。温かい風が右から頬に触れて動けない。こみ上げるものを押し戻すために全神経を使うからそこから動けない。強く握りこんでいたカップ酒がとてもあったかい。いまさら感じて、ここが家なら大声で叫びたかった。
 かすかに漂うドブ川の腐臭に混ざる潮風は生臭く、ああ横浜だと目を上げる。ずいぶんと日が延びて夕方なのにまだ明るい。眼下の大岡川に沿って咲き乱れる桜は噂による昨日の雨風でも散っていない。嬉しかった。染井吉野五〇〇本。これが見たくて野毛くんだりまで来たのだ。だけど爆発を免れたせいで全身に沁みてしまった痛みはしつこく強い炭酸の泡沫のようにあちこちで弾けている。力の入らない足で狭い廊下を歩き、邪魔にならない角で欄干に手を掛けた。
 水面に遠くまで続く淡いピンクを眺めると、ドブ川の深緑が春色の和菓子に添えられた抹茶ゼリーにさえ見えてくるからピンクの力はやっぱりすごい。男の指先だってすこしくらいは女らしく見せるのだ。カップ酒を目線の高さに持ち上げる。はげたネイル。サロンに行け。そう簡単に行けるか。だから家でこっそり金曜の夜に塗っているというのに。それもポケットに手を突っ込んでエレベーターに乗ってマンションを出るのに、だ。……なんにもわかっちゃいない。それでも理解者の顔をしたがる。いったいなんなんだろう。なにがしたいんだ。
 ホイルを取るとまだ酒からはほんのり湯気が立ちのぼっていた。ねえでもママ、ブスな男がひとり、外でカップ酒って、あまりに酷い。こんどは僕が微苦笑する番だ。やっぱりママはセンスがない。オカンだものしょうがない。そこが愛しいんだものしょうがない。涙の余韻がまた遠くから戻ってきて、困っちゃったなと口のなかで呟いた。
 ふうう、と息を吐いて空を仰ぐ。ひときわ強い風に背中を押されて酒に口をつけるときりりとした辛い酒だった。
 風に目をすがめる。
 家族連れ、男女のカップル。手を繋ぐ人々。
 桜の下でどんな話をしているのだろう。
 僕はいちども好きな人と手を繋いで花見なんてしたことがないから、わからない。
 鼻先で花弁が舞った。打たれた。ここまで飛んできたものがあるのだ。どうしてこういう色になるのか神は何を思ってこんな色を創るのか、いったい美しいとは何の価値があるのか誰のためにあるものなのか。手すりの隅にひときわ赤みの強い花弁の中央をみつけてなんでなんでと不思議に見つめているうちに、頬が白いかわりにすべての血を集めたような紅、と彼の唇を連想してしまった自分に赤面。
 もう。息継ぎをしなさい僕。
 手すりにすこし腹で凭れて水面を覗きこむと、花弁が集まって揺れていた。その隙間に不細工な男の影を見つけて目が合った。なんだ。僕か。おどろいた。せっかく良い気分でいたのに興ざめだ。しかしなんとなく目を逸らしては負けな気がしてじっと見つめ合っているうちに、だんだん心が穏やかになってきた。遠くの梢の花がさんざめく。
 いったい彼は何のためにあれほど美しいのだろう。そのうちのほんのすこしだけでも、僕のための美しさであってくれたなら――。指先で花弁を摘まんで花脈を観察すると大きな優しい風が僕の中途半端に長い前髪を揺らした。胸のなかが膨れた。あってくれている。間違いなく。僕が彼を認識するだけで、彼の美しさはそのとき確かに僕だけの美しさになる。彼の美しさは決して選りわけない。世界中のどんなに心の貧しい者にだって分け与えてくださるんだ。はじめて彼を校庭で見かけたあのとき、きっとこの花弁のように美の神様がこんな僕にも春風を届けてくれた。だから僕は彼を僕のものにしたいなんて思わない。彼に触れなくたって彼という姿形を魂を認識するだけで、僕の細胞の隅々に彼の美が再現されるから。
 手首にひっかけていた文具屋の袋が風に煽られて肉に食い込んだ。この四月で彼の娘が大学生になる。ご祝儀袋は淡いピンク色を選んだ。きっと彼はとっても嬉しそうにちいさな白い歯を見せて二十年の友情と感謝についてしきりに語る。そして縁と感謝がいかに大切かを僕の前で娘に言い聞かせる。その俯くような横顔はどういう意匠と経緯で作り出されたのかと思うほどの造形美だ。僕は生まれてこのかた感謝なんていちどもしたことがない。だって神様はどうしてこんなブスな顔と性格の僕をお創りになられたの? 男にも女にもなれない女装さえ思い切れない自意識過剰の塊がいったい何に感謝をすればいいのかわからなかったから。
 ふいに景色が動いた気がして顔をあげる。廊下の向こう側からふたりの女が歩いてくる。四つの目が観察の目になって僕を見る。
 うわ。ブスのオカマ。
 僕の頭にはそんな声が聞こえてきて胸を強く叩かれたが、痛みはない。風でボサボサになった髪の女たちはどこかの店に吸いこまれて消えていった。向かい側の桜並木から吹きあげられた無数の花弁が上空に流れてゆく。あまりにケレン味たっぷりの光景にウソでしょと言いたくなったが、この世にはウソでしょと言いたくなるような美しさが事実存在する。それを忘れないでとも言いたげに目の前で吹きあがる桜吹雪に喉の奥に綿を詰め込まれたような気分になって、僕はまたドブ川の水面を覗いた。端に固まってそこだけ澱んで動かない桜の花弁になんともいえない不安感がこみ上げて、さらには僕を覗きこむ僕をまた見つけて思わずそこに身体を突っ込んで形を消し去りたくなるけれど、だけど彼が僕の脳裡で笑ってくれているから胸が一杯になる。この不確定な生きものに、心まできれいなあなたは笑顔を向けてくれる。あなたはこの世の醜いものを一掃してくれる。僕は微笑んでしまっているのを自覚してそれを誤魔化すためにカップの分厚いガラスを唇に押しつけて、晴れやかに涙ぐんだ。
 僕は廊下を引き返した。昔を思い出して彼のうしろからすこし離れたところで存在を消すようにそっとスニーカーの踵を置いてゆく。美の神様。僕は生まれて初めて感謝をします。あなたが愛してくれたおかげで彼はとびきり美しい。


二〇一七年 四月 十五日

(テーマ:春)

写真:ヨシダカホリ

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