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厳しい指導と優しい指導

今の時代、生徒に厳しい指導を行うのは難しく、
批判の対象となる可能性が高いと思われます。

例えば、
何度注意しても宿題を行わない生徒に対して、
教員が強く叱責をして生徒を落ち込ませた場合、
その原因には目を向けられず、
叱責した教員だけが問題になってしまうことが多いように思います。

勉強が苦手な生徒のためだと思って継続的に指導し、
なんとか学習習慣を身につけさせたいと
考えて行った指導であったとしても、

「もっと言い方があるだろう!」
「(生徒が)学校へ行きたくないと言っている。どう責任をとるのか?」

と批判されてしまえば、
教員としてはぐうの音も出ず、反省するしかありません
(実際、反省する点はあると思います)

ただ、このように教員の指導の仕方のみに注目してしまった後、
宿題を行わない生徒はどうなるのでしょうか?
普通に考えればこのままだと、
宿題を行わない生徒は
宿題を行わないという行為を改善する機会を失ったまま
卒業することになる可能性が高くなります。

宿題程度、別にしなくても問題ないと思われる方が多いと思いますが、
どうしようもない大きな問題ではなく
宿題程度の小さい問題だからこそ
改善できる余地があるので、その指導には意味があるんです。

しかし、この指導の意図は、なかなか受け入れてもらえないのが現状です。

このような批判をされた後、私だったら優しく
「次は宿題をしてくるようにしましょう」
と必要最低限の声かけを続けるしかないと思ってしまいます。

もちろん、中には
「次は宿題をしてくるようにしましょう」
という声かけの指導だけで生徒を心酔させ、
劇的に改善させるカリスマをもった教員もいますが、ごく一部であり、
私には不可能です。

優しい指導で、生徒を導くことができる教員のほうが圧倒的に少なく、
特に若い教員は、言葉は適切ではないかもしれませんが、
優しく接するだけでは生徒になめられてしまい、
話を聞いてほしいときでも相手にしてもらえなくなってしまいます。
(私は初任のころ、思いっきりなめられ、数々の心無い言動を受け、毎日、 
 辞職が頭をよぎっていました…)

本当に教員の厳しい指導は、生徒にとって害でしかないのでしょうか。

中国の春秋戦国時代に名宰相といわれた子産という人が
政治を引き継ぐときに次のような言葉を残しました。

唯有德者,能以寬服民,其次莫如猛,夫火烈,民望而畏之,故鮮死焉。
水懦弱,民狎而翫之,則多死焉。故寬難

徳のある人だけが,寛容な政治で民衆を心服させることができる
 次点のやり方は厳格な政治である。
 火は苛烈で恐いものであるとすべての人がわかっているから、
 民衆は火には近づかず遠くから見てこれを畏れる。
 だから火で死ぬ人は少ない
 水は一見静かで穏やかに見えるため、
 人は水に近づき慣れ親しみ油断してしまう。
 だからかえって水によって死ぬ人は多い
 ゆえに寛容な政治は難しい。)

というような意味です。

寛容な姿勢でうまく治世できるのが徳のある限られた人だけであるならば、
教員というごく普通の人間
寛容な態度だけで生徒を指導するのは難しいと言わざるを得ないでしょう。

寛容な指導によって、
問題行動(いじめ、暴行、無免許運転など)を止められず
生徒を危険にさらしてしまう可能性があるのであれば、
厳しく近寄りがたい指導をする教員も必要なのではないかと
思ってしまいます。

厳しい指導だけ、優しい指導だけと偏るのではなく
生徒への指導について、教員、生徒、保護者という三者の視点に立ち、

生徒を守るというのはどういうことなのだろうか?
生徒のためというのはどういうことなのだろうか?
生徒を教育するというのはどういうことなのだろうか?

という原点に返って、もう一度考え直すべきなのではないでしょうか。

ちなみに私は教員のとき、初任の頃の轍を踏まないように
厳しい指導を選択することが多かったため、
人格者ではなく徳のうすい人間であることを
はっきりと自覚させられました…

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