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ソーシャルダンシング⑥

正人の会社では、午後7時半になるとフロアの電気が消される。
ノー残業の取り組みの一環だが、「特別研修室」だけは9時まで電気の使用が認められていた。
この部屋は、昨年の暮れにそれまで会議室だった部屋を改装して作られた。
80㎡ほどの広い部屋で、一面はすべて鏡になっている。
その向かいの壁には横にずっと長いバーが取り付けられていた。

正人は、ひとりその部屋の真ん中に座り込んでいた。
ダンス着ではなく、スーツにネクタイ姿だ。

頭がうまく回らない、やるべきことと体が一致しない、と正人は思う。
今日の午後、田中専務に直々に声をかけられた。
2年前に同じように声がかけられた時には、昇進と昇給の話だった。
今日はもちろんちがう。
2度勧告を受けていたSDSだが、毎日特別研修室に残って練習をし、社外の研修もすべて受けたが社内平均をかなり下回ったままだった。
部長クラスだと、群を抜いて低い点数だった。

「社内でも君をこのポジションにおいておくことについて、不満が出てきているんだ。来月までに大きな改善が見られなかったら、関連会社に出向してもらわなくてはいけなくなる」
と、田中専務は切れのあるダンスをしながら正人にはっきりと伝えたのだ。

これまでやろうと決めてやれなかったことなど、何もなかった。
何かがおかしい。
おかしいのは自分だけではない。
最近、ナルミの様子もおかしい。
担任の野中先生から、今週2度も電話がかかってきた。
だまって教室を抜け出すとか、授業の邪魔をするとか、これまででは考えられない話だ。
あの子のことを考えるときには、いつでも期待や希望を感じられたのにいまでは頭痛すらしてくる。

あれだけうまくいっていたのに、やり方は正しいはずなのに。

ケイコの様子も最近おかしい。
これまではわたしに意見することなどなく、いつでもおだやかでよい妻、母だった。
でもこのところ外出ばかりで、家事も後回しのようだ。
ダンスが少し得意だからといって、いつも見せつけるようにあいさつのダンスをしてくる。
「家庭内では、ダンスはいいんじゃないか」
といったら、薄笑いをして、黙ってステップを踏んで行ってしまった。

あの子はどうだろう。何の変化もない。
もう4年も顔を合わせていない。
いま考えるとあいつはケイコに似ていたんだ。
いつも黙っていたが、ダンスが好きだった。
いじめられたのは、中学の体育の授業の創作ダンスのせいだった。

普段は口数も少なく、目立たない子だった。
基本のステップを習って、ひとりひとりダンスを創作する体育の授業で、群を抜いて独創的なダンスをして、クラス中から失笑を買ったのだった。
だいたい普段だれとも口を利かず、どの教科も勉強しないで、正しい努力をなにもしないで、好きなダンスだけ見せつけるようにするなど、自分からいじめの種をまくようなものだ。

「なんでそんなことをわざわざしたんだ」
と思わず言ってしまったら、
しばらくじっと俺の顔を見つめて、それからゆっくり目をそらした。
あの子の顔からは、なんの表情も読み取れなかった。

翌日から学校に行かなくなり、部屋から全く出て来なくなった。
部屋の扉に鍵をつけて、扉のこちらから何を聞いてもひと言も返事はなかった。
時折夜中に物音とも言えない気配を感じるだけになった。
そういえば、あの日があの子が俺の目を見た最後だったのだ。

ダンスだ、と正人は突然ひらめく。
みんなの物笑いになったダンスが、今ならあの子を変えてくれるかもしれない。
あいつがもしいま学校へ行ったら、G学舎に入れたら、もしかしてものすごいSDSをとれるんじゃないか。
あいつがナルミの代わりになるかもしれない。

一筋の希望が見えたような気がした。
自分のことも、うまくいくように思えてきた。
SDSだけで今はほとんどの大学に入学できる。
今からいい教師を付けたら、東大も夢じゃないかもしれない。
もしかしたら、教師を変えたら俺のスコアも伸びるかもしれない。

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5月のあたたかい晩なのに肌寒く感じて、ナルミはコットンのカーディガンの前を掻き合わせた。
さっきリビングから電話の呼び出し音が聞こえてきた。
お母さんもお父さんもまだ帰らない。
着信音が5回なったあと、留守番電話に切り替わった。
「こんばんは。踊田小学校の5年2組担任の野中です。ナルミさんのことでお話したいことがあり、お電話させていただきました。お留守のようですので、またあらためて明日お電話させていただきます」
という野中先生のすこしかすれた声が聞こえてきた。
その後、ツー、ツー、ツーという電話の電子音がしたあと、音は途絶えた。

ナルミのピンクのスマホが震える。
またLINEだ。
見たくないのに、見てしまう。
クラスのグループLINEは、1分に3件くらいのペースで書き込みがある。

ただの文字の集まりだ、とは思う。
くだらないとは思う。
でももう疲れてしまった。
何もしたくない。
何もしたくない。
水が蒸発するみたいに、わたしも消えてしまいたい。

(続く)

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