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助詞が。

くり返すたちである。

テレビ番組の「NHK短歌」を録画していたのを見た。
吉川宏志さんの回で、テーマは助詞だった。助詞はけっこう好きな方だ。

吉川さんにわたしは見えていないので、最初はソファでごろごろしながら見ていた。
司会は尾崎世界観さん、ゲストがいしいしんじさん。このお二人の作品も挙げながら助詞の話は深まっていく。

おもしろくて途中からついつい起き上がって見る。
たまらなくてもう一度番組を最初から見る。

番組の中で尾崎世界観さんのバンド、クリープハイプの「本当なんてぶっ飛ばしてよ」が紹介された。
わたしはこの曲を知っていたけれど、番組で指摘されていた助詞の視点がまるでなかったので、ソファにきちんと座りながらくやしがる。

番組の二度目を見終わってから、「本当なんてぶっ飛ばしてよ」を聞いてみる。
たしかに、助詞。と思う。
もう一度聞く。助詞が。と思う。
ほんかくてきにイヤフォンをつけて一曲だけを繰り返して聞く。
何度も、おお、助詞。と思う。

目の前に歌詞が活字になって流れる。
縦書きで、フォントは明朝体である。
どこが漢字に閉じられているか、ひらがなにひらかれているかも明瞭に目の前に表示される。

くり返す。
くり返す。
それを昨日から今に至るまでずっとやっている。
これを書いている今ももちろん曲はかかり、わたしの目の前には活字がずっと流れている。
やや邪魔だと思う。こんなに聞いてばかなんじゃないかと思う。
でもやめられない。

くり返す。
くり返す。

人の営みは、すべからくくり返すことで成っている。
朝起きる。ごはんを作って食べる。
洗濯をする。
掃除をする。
駅に行く。電車に乗る。
家族は一つの箱から、外へ出かけていき、夜になってふたたび箱へ帰ってくる。
箱を出たり入ったりしているうちにいつの間にか人数が変わってきたりする。
くり返しは毎回同じようで、実は一回ごとに違うのだ。

わたしの目の前に流れている「本当なんてぶっ飛ばしてよ」の歌詞も、同じように見えて少しずつ違うのだろう。
たった今も、改めて、おお、助詞。と思う。
毎回思う。助詞が。と

きょうは2月29日というちょっとはみ出した日だと、今朝気づいて少しうろたえる。
こころがまえが不足していた。今日何かをやれば2月にやったということになるではないかと思ってしまい、結果的にあらゆることをやって、効率的と言えるようないちにちになった。

スリッパを脱いで床に足をつけたときに、右のかかとがぺたり、とした。
かかとを後ろに上げて振り返ってみたら、かかとのところが500円玉くらいに穴が空いていた。

ウールの足袋型のあたたかい靴下。この冬にとても気に入ってずいぶん履いたのだった。
くり返したのだった。

靴下を干すときに、つまさきを上にして洗濯バサミで止めるのか、履きくちを上にして洗濯バサミで止めるのかいつも迷う。
穴の空いた靴下は大事にしていたので毎回手洗いして平干しにしていた。
それでも空いたか、穴。と思う。

思いながらも「本当なんてぶっ飛ばしてよ」はずっとかかっている。
目の前には活字が流れる。都度、助詞が。と思う。
穴の空いた靴下は、明日乾いたら当て布をして繕おう、と思う。

目の前に「晴れでも雨でも雪でも雷でも」と活字が流れる。
助詞が。と思う。
でも。と思う。

わたしは明日靴下を繕う。

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