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【対談】烏丸ストロークロックの道草 第2回 能楽に学ぶ表現者の身体と精神 (能楽師・宇髙竜成氏×阪本麻紀)《前編》

京都の劇団・烏丸ストロークロックが、創作・上演とは異なる視座で、メンバーと劇団の「今」を発信していく「烏丸ストロークロックの道草」。その2回目は、劇団の中核をなす俳優・阪本麻紀が師と仰ぐ、能楽師・宇髙竜成さんをゲストに迎えました。流儀の長い伝統を継承しつつ、能楽と新たな観客との出会いを多角的に模索する姿勢は、現代演劇に身を置く人間にとっても学ぶところの多いもの。揺るぎない精神と洒脱な感性を兼ね備え、能の未来を見据えて行動する実践者とのお喋りは、聞くだけでエネルギーをもらえるように感じます。(取材・文 大堀久美子)
"烏丸ストロークロックの道草"について

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宇髙竜成(うだか・たつしげ)
能楽師シテ方金剛流
1981年生まれ。
二十六世金剛流宗家・金剛永謹、及び父・宇高通成に師事。
初舞台は3歳。子方時代を経て、プロの能楽師となる。
舞台活動の傍ら初心者にもわかりやすく楽しめる「能楽ワ
ークショップ」を企画し、パリ、韓国、アメリカなど海外
でもワークショップを行う。現在京都を中心に活動中。

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阪本麻紀(さかもと・まき)
1978年和歌山県生まれ。
近畿大学にて演劇を専攻し、2003年より烏丸ストロー
クロックのメンバーとなる。以降、俳優を中心にほぼ全て
の作品に出演している。近年では俳優活動と共に、小中高
生を対象にした表現教育の指導にも携わる。主な出演作に、
iaku、ヨーロッパ企画イエティ、サンプルなどがある。
第19回関西現代演劇俳優賞受賞。

《前編》新たな発語を模索し、「謡」と出会う

『道成寺』から受けた大きな感銘

宇髙 対談企画へのお誘いありがとうございます。一回目の、劇団代表・柳沼昭徳さんと仙台のアーティスト・八卷寿文さんとの対談がとても面白く、何とも言えないプレッシャーを感じました(笑)。神楽の話も、アートにまつわる「タプタプ理論」も本当に刺激的で。

阪本 あの時は、前日の早池峰神社例大祭宵宮(岩手県花巻市)から私も取材に同行していたのですが、八卷さんの素敵なお人柄もあり、本当に実りの多い時間を過ごさせていただきました。

宇髙 私の場合、こういう取材でも話が散っていきがちで、まともな会話になりにくいのですが大丈夫かな、と。

阪本 いえ、今日はもうざっくばらんに、普段お稽古の前にお話しさせていただく延長のようなつもりでお願いしたいと思ってきました。何せタイトルが「道草」ですから(笑)。私のプランとしては、7月の竜成の会で拝見した『道成寺(どうじょうじ)』(註1)(2019年)についてお話ししたいのですが。

宇髙 『道成寺』は自分の会の第五回記念に選んだ演目です。

阪本 私は2018年8月から宇髙先生に謡の手ほどきを受けており、今は二年目に入ったところ。当然その間に何度も先生の舞台は拝見していますが、あの『道成寺』は一緒に観ているお客様の集中力からして全く違う次元まで高まっていると感じました。休憩明け、囃子方の皆さんがスーッと入って来るところから空気が変わり、異世界のものが現れたようで。クライマックスの乱拍子は本当に素晴らしかったです。

・映像 第一回竜成の会『望月』のプロモーション動画
対談の中にも表現される「空気」や「緊張感」が映像からも
伝わってきます。音も素晴らしいので、ぜひイヤホンなどで
聴いてみてください。

大先輩からの「ダメ出し」に学ぶ

宇髙 でも会が終わった後、御年94歳の大先輩からダメ出しを受けまして。「もっと緩急をつけるように」というアドバイスだったんですが、動と静の間を繋ぐ動きについて、それまで誰も教えてくれなかった指摘をいただきました。

阪本 言葉にするのは難しいのですが……鼓の音と宇髙さんの足が刻むリズム、それが一緒になり、場を体感しているように私には思えて。

宇髙 「だるまさんがころんだ」で、最後一人だけ残った人を見ているような感覚でしょ?

阪本 (笑)確かに、似ているかも知れません。「力入った、抜けた、また入った」というように、気づくと宇髙さんの舞や囃子と、観ている私たちも一緒に呼吸をしている。演劇を観ていても、あそこまで引き込まれて目の前の表現に同調するような経験はそうはありません。

乱拍子2_s

・写真 第五回 竜成の会『道成寺』
(2019年7月)乱拍子のシーン

註1:道成寺(どうじょうじ)
初めて演じる役者にとっては登竜門にあたる「披キ」の大
曲。紀伊の国(現在の和歌山県)の道成寺では、鐘を新た
につって鐘供養を行おうとしている。女人禁制のその場に
白拍子が現れ、鐘を拝ませてくれるようにと頼み……。前半
には「乱拍子」「急之舞」「鐘入り」と様々な見所があり、
後半では蛇体となった女性と、寺の住僧とのバトルが繰り
広げられる。

宇髙 あの舞台を、カリフォルニアから来日した声のトレーニングを手掛ける指導者の方も観ていたんですが、「あそこまで長時間緊張が続く作品は、世界中の演劇を探してもそうはない。今まで見た中で一番近いのは、闘牛士と牛が見つめ合ったまま動かなくなる瞬間だ」と言われました。動物的な感覚になっているのかも知れませんね。

阪本 なるほど。観終えた帰り道もずっと興奮状態で、一緒に観にいった柳沼に「ああいうこと、あれが舞台でやりたいの!」と言い続けていました(笑)。

「やる」と「見せる」の境い目

宇髙 能舞台という空間がまた、能楽師をしっかりと守り、ああいった空気や緊張を増幅させるように設計されているんですよね。しかも『道成寺』はお客様にとって、それを舞う能楽師の成人式を観にいくような感覚にさせる演目。といっても市町村で行われる式典ではなく、ある危険を乗り越えることで自他ともに成人と認められる通過儀礼、バンジージャンプのようなものなんです。『道成寺』の場合、飛び降りるのは鐘のほうで私は「エイヤッ!」と飛び込むわけですが(笑)。

阪本 早池峰神楽の舞手の方たちの取材記録を読んだことがあるんですが、それによると、自分たちの集落で舞う時は「やる」という気持ちで、それ以外の、外部の企画で舞う時は「見せる」という感覚になる、と言うんです。私は、宇髙さんの『道成寺』からは、ただひたすらに「やる!」という気を最初から最後まで痛烈に感じていた。それに通じることが、私のやりたい舞台表現なんだと気づかされました。

宇髙 昨今は「見せる」機会も増えていますが、能の根底には阪本さんの言う「やる」の部分が多いのだと思います。曲によっては「お前にはまだ早い」と年齢制限がありますし、能を行う目的自体、「観客をたくさん呼んで興行を成功させる」というところにはなく、能楽師としての一生を歩む中で「良い役者になる」のがめざすところというか。『道成寺』はそのための大切な曲ですから、阪本さんに「やる」が強く伝わったのかも知れません。
 ただ、「やる」とばかり思っていると内輪受けに見えてしまうこともある。表現としては、観る人を少々突き放したようなところがあるので、たとえば能楽師がその曲に臨むまでのバックグラウンドをお客様に共有していければ、より面白く観ていただけるかな、と。

稽古前30分間に交わす言葉の大切さ

宇髙 お能でも、山形で古くから伝わる黒川能は、地元の春日神社で祭りとともに行われる神楽と同様の郷土芸能なんです。あれを観ると僕らの能楽は濁っているというか(笑)、舞や表現上の精度を高めるため、手放した部分もある気がする。舞いながらも、瞬間瞬間に「このほうが良いかもしれない」と気づき、その場で表現を更新していく。神楽の、そんな本能によって引き出され、限界を規定しないありようから、お能は遠くなっているのかも知れません。

阪本 それは、現代演劇をやっていても悩ましいところです。

宇髙 阪本さんとは謡の稽古を始める前、時に30分以上もお喋りしていることがありますが、そこで話すことも、「問題は舞台の上以外の所に多くある」という内容が結構ありますよね? 役者がどうやって生活するか、発表以上にどうやって自分のためのリサーチの場を設けるか、などという。芸能というジャンルの中では、いまだ出ていない答えを探す必要があるのでは、と思います。

阪本 あの稽古前の30分は、私にもとても大切な時間です。宇髙さんは能楽の世界以外の方と出会い、話す機会を大事にしていらっしゃると伺いましたが、私にとっては宇髙さんとの会話や、子どもたちに向けたワークショップの活動がそれに当たるもの。創作の現場に身を置きつつも、作品を観てくださるのは普通に日常を送る方たちが多いのですから、その生活感、何が喜びで何が不安なのかなどを常にちゃんと知っておきたい。それを自分の表現に繋げたいんです。

宇髙 どんなジャンルにも、最初は自分と関係ないと思っていたところに出会いがあり、それが自分の真ん中に刺さった瞬間「コレいい!」と思えることがある。表現者はそんなタッチポイントを狙うか、もしくは玉虫色の存在になり、どの方向から触れられてもポイントになり得る状態で居続けられるかを、常に模索しているんじゃないでしょうか。

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謡を習いたいと思ったきっかけ

阪本 宇髙さんに師事したいと思ったきっかけの話もしたいのですが、これ(と両目の部分に穴の開いた、アイマスクのような紙の栞を取り出す)は竜成の会で配布されていたもので、目に当てると、能面をつけた時の視界がどうなるか疑似体験できるんです。その発想や、観客と繋がろうとする姿勢に感動したのが始まりなんです。

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・写真 竜成の会で配布された猩々(しょうじょう)の面のしおり
・映像 タツシゲの日々是道場 「面をかけた役者の視界」

宇髙 コレ、なかなかの発明でしょう?(笑)。

阪本 はい。加えて烏丸ストロークロックでは長く会話劇中心の創作をしてきましたが、ここ10年は作曲家でチェリストの中川裕貴さんと一緒に創作する機会が増え、音楽に拮抗する言葉や声の在り方を、自分の中でもっと深めたいという想いが募っていった。日常会話とは一線を画した、意味を越えた言葉、それを発語する手段や方法が自分に必要だ、と。それまでお能は数えるほどしか観たことがなかったんですが、竜成の会で『谷行(たにこう)』(註2)(2018年)を拝見し、台詞から謡に移行した瞬間、言葉の意味はわからないのに役の心理や状況が、ワッと自分の中に入ってくるように感じられた。その瞬間に「この方に謡を習いたい!」と思ったんです。

宇髙 能の台詞と謡、そこにもまた得るものと失うものがある。得るものとしては、言葉以上のニュアンスを伝えることができるということ。言葉の硬い・柔らかいに加え、テンションや重さなども加えて喋ることができる。反面、現代語は使えないし、同じことを伝えるのにやたらと時間がかかる。時には「はよ喋れや」と思いますから。

阪本 舞いながら、そんなことを考える時もあるんですか?

宇髙 足が痛い時とかね(笑)。見開き2ページの台詞が、謡になった瞬間に6、7分はかかる。そこはやはり、現代に逆行していますよね。第二回竜成の会では詩人の谷川俊太郎さんをお招きし、能の言葉と現代詩を対比したのですが、「詩はなんて自由な言葉だろう!」と思いました。お能の、重さと強さを手に入れた言葉は、当然ですが軽みを失う。どんな表現の言葉を選んでも、ジャンルそれぞれに、一長一短あるのは当たり前ですけれど。

阪本 確かに。

注2:谷行(たにこう)
修業中の脱落者を谷底に捨てるという、修験道の厳しい掟が
「谷行」。幼いながら山伏の弟子である松若は、病身の母の
説得も顧みず、その平癒を願って葛城山で修業する師に同行
するが、慣れない旅のため病に倒れる。師と他の山伏たちは、
泣く泣く松若を谷行にするが、悔いが募り、法力で蘇生させ
ようと祈り始めて……。

650年余をかけて能楽が達観したこと

宇髙 だから、地域に伝わる神楽に学び、それを独自の形に変奏して現代演劇に取り入れるという、烏丸ストロークロックさんの作品が向かおうとしているところは本当に凄いと思う。それは、いわば「古典芸能にある深度まで立ち入ったうえで現代演劇を考える」という手法で、同じ現代演劇でも欧米の文脈では恐らく難しい、日本でしかできないことではないでしょうか。
 お能は650年くらい前が過渡期で、そこから新しいことをつくり、それが定着して「型」になり、伝承しながらも変化を加えてきた。フレームを残しつつ肉づけは時代時代の者が行うというスタイルを編み出したからこそ、「伝統」として今に残る術となった。ただ、そこで失ったものも多くて……ええと、少し話が飛びますが、私、パンクロックが好きなんですよ。

阪本 (笑)唐突ですね。

宇髙 あの、3分くらいの曲の中で簡潔にメッセージや感情をほとばしらせる表現は、お能ではできない。お能はジワジワと溜めた先、最後にバンッと炸裂させるような表現ですから。ここまで長い年月続いてきたぶん、お能はそんな、自らの表現上の特質すら達観しているジャンルなのかも知れません。これ以上は欲張れないほど、完成してしまっているというか。もちろん、まだ可能性はあると私は思っていますが、それは、そう多くはないでしょうね。(後編に続く)

取材・文 大堀久美子


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