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母親ってなんだろう—『ピーター・パンとウェンディ』

子ども向けだと思っていた物語を大人になってから読んでみて、これが一体どうして、子ども向けなんだろうか、大人の世界の物語じゃないか、と思うことが多々ある。

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『ピーター・パンとウェンディ』はそんな物語のうちのひとつだ。
子どもの頃に読んだのは、子ども向けに簡略化された本だったように思う。または、本では読んだことがなくて、ディズニーのアニメでストーリーを知っているだけかもしれない。

私がイメージしていたピーターパンは、ああ、こういうタイプの男の子が小学校のクラスにいたなあ、と思い出されるようなモテる男の子だ。クラスのムードメーカーで悪戯っ子、だけど憎まれない。いたずらを叱っている先生ですら、目尻が下がって、本当には叱っていないというような。

けれども、この本に出てくるピーターパンは、身勝手でうぬぼれやで、忘れっぽくて、集中力がない。あらあら、しつけが必要ねと思ってしまう行動を度々する。天真爛漫なだけでなく、残酷なことも平気でする。それに、ときには、座り込んでしくしく泣いてしまったりと、成熟していない子どもらしさもある。

ウェンディの父親ダーリング氏は、子守のナナが犬でありながら優秀な子守であることに、どこか納得がいっていない。自分のプライドを保ちたいがために、ナナを無理やり首輪でつなぐ。それが結局は、自分の首をしめることにもなる。優秀な子守を子供達から離したばかりに、その隙に子供達はみなネバーランドに行ってしまい、後悔するのだ。
会社にこういうおじさんいるよなあ、と思った。

母親のダーリング夫人は、夢みがちなところがあるが、夫には絶対に服従というタイプの女性だ。それに世間体を気にする。それは父親も同様で、ダーリング家では、たった1人のお手伝いさんを、「お手伝いさんたち」とよぶ。


ディズニー映画と同様に、ピーターパンとティンカーベル、弟たちと一緒に、ネバーランドに行ったウェンディは、迷子たち(ロストボーイズ)の母親役となる。

ネバーランドでウェンディは、ティンカーベルの暮らしぶりをうらやましく思う。ティンカーベルはウェンディにいじわるをしたどころか、殺そうとまでしたにもかかわらず。
ネバーランドのウェンディは、わんぱく坊やたちのせいで、働きづめなのだ。みんなが寝たあと、夜に繕いものをする時間にやっとひと息つけるという生活だ。ウェンディは、

「ああ、ほんと、結婚していない女の人がうらやましくなる時があるわ」

と嘆く。

「子どもなんてやっかいなだけで、いらないって思ってしまうことがあるわ」

本気では思っていなくとも、そんなふうに言いたくもなる毎日なのだ。

ネバーランドでロストボーイズの母親になって、子育ての現実を味わったウェンディ。その一方で、ホンモノの母親、ダーリング夫人は優雅な生活を送っていたように思う。子守もお手伝いさんもいたし、週末はドレスを着て、夫と一緒にディナーに出かけられる生活なのだ。

ネバーランドのウェンディはまるで現代の日本の母親たちのようだ。家でも外でも働きづめだ。

ふと、スペインのサンセバスチャンを旅行したときのことを思い出す。サンセバスチャン といえば、バルのハシゴが定番だ。

ベビーカー連れでバルを楽しむ親子を多くみかけた。乳児を片手に抱きながら、片手にワイングラスで立ち飲み、という母親もいた。周りの人たちもそれを自然と受け止め、それぞれに楽しんでいるようだった。バルの店内は、狭い。周囲の人々は、ベビーカーが通る時は、よけてスペースをあけるし、少ないテーブル席を積極的に母親たちに譲っていた。

私は、日本で同じことをしたら、大変なことになるだろうな、と考えてゾッとした。
日本の母親たちの多くは、乳幼児を連れて、バーでお酒を飲みはしない。それが当然とされているという空気を、母でない私も感じていた。
姉の子育てを知るなかで、子育ての幻想ではない部分も少しは見えるようになり、母親の不自由さと窮屈さについては、ときに胸が痛み、今では大きな関心ごととなった。

日本ではバーどころか、公共交通機関でさえも、混雑時のベビーカーでの利用は避けるように、という無言の圧力がある。

ネバーランドで働きづめのウェンディと日本の母親たちが重なった。日本の母親たちは、きっと、1年に数回ですら、サンセバスチャンに旅行にきていた母親たちのような時間は過ごしていないのではないだろうか。

母親ってなんだろう。

母親になれなかったことに、苦しむ人がいる。
母親になっても、苦しいことはある。
母親の言動に、苦しみ続ける子供がいる。
母親がいないことに、苦しむ子供もいる。
子を先に亡くして、悲しむ母親もいる。

もちろん、苦しみだけでなく、幸せもきっとあるだろう。苦しまないで済む人もいるかもしれない。がんばった先に幸せにたどりつけず、追い詰められる人もいる。

母親への期待と負担はとてつもなく大きい。

ピーターは、どうだろう。
「お母さんなんていらない」と言い、「みんなお母さんのことをありがたりすぎだ、と考えているくらい」なピーター。

ピーターは、大人になりたくなくて生まれた日に逃げ出した。お母さんがいつまでも窓をあけておいてくれるだろうと思って、いく夜もいく夜も帰らずにいた。戻ったときには、窓がしまっていて、かんぬきがかけられていた。ピーターのベッドには別の男の子が寝ていて、お母さんは、ピーターのことをすっかり忘れてしまっていたのだ。
戻る場所がなくなったピーターは、子供のまま、ネバーランドで自由な生活を送っている。だから「お母さんなんていらない」のだ。

とはいえ

そう頻繁ではありませんが、時々ピーターは夢を見ました。その夢は、他の男の子たちの夢に比べてつらいものでした。ピーターは夢の中で悲しげに泣いているのえすが、この夢を見ると、そのあと何時間も忘れることができませんでした。その夢は、ピーターの誕生の謎と関係があるにちがいない、と私は思います。

というように、ピーターは夢の中で悲しげに泣くことがあり、
フック船長との戦いのあとは

その夜、ピーターはよく見る夢をみました。ピーターが眠りながら長いあいだ泣いていたので、ウェンディはしっかり抱いてやりました。

とあるように、眠りながら泣いていたのだ。


家に帰るというウェンディたちを送ってきたピーターは、一度は彼女たちの帰宅を妨害しようとする。ティンカーベルと一緒に先回りして窓をしめ、かんぬきをかけてしまえば、ウェンディたちがあきらめるのではないかと。

それでも、悲しむダーリング夫人をみて、ぐっと涙をこらえながら
窓のかんぬきをはずした。

「ぼくたちにはおばかなお母さんなんかいらないさ」

おかげで、ウェンディたち親子は無事に再開する。

この少年は他の子どもたちが知らない無数の喜びを知っていましたが、一つだけ、この少年が永遠に味わえない喜びがありました。
少年は今、それを窓からみていたのです。

ここでは涙が出た。本当は、ピーターは、誰よりも母親を求めていたのだろう。

それでも、私は窓をしめてかんぬきをかけたピーターの母親にも同情する。きっと来る日も来る日も泣きながらピーターの帰りを待ち、今度こそは、かわいい我が子を失ってはならぬ、と窓をしめ、かんぬきをかけたのだろう。

ずっとずっと窓をあけて待っていたなら、ピーターのよいお母さんだ、といわれたのだろうか。お母さんは、何もかもに、耐え続けなければいけないのだろうか。

*
それにしても、大人になりたくない子供なんているのかなぁ。
私は、子供のころ、はやく大きく、はやく大人になりたくて、しかたなかった。子供時代の私には、大人の方が自由に思えていたのだ。

2歳の姪は今、「おねいさん」になりたくてしかたないみたいだ。
物語の冒頭に

2歳は子供時代の終わりの始まりなのです

とある。
彼女がもう少し「おねいさん」になったら、きっとピーターパンの物語に夢中になるだろう。

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