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【今生編】15.森の散歩道

 雪花亭のあるニヴァリス・パークは、建物と人の密集する煙霧京市街では相当にひらけているが、青空の広がる田園で、土を踏みしめながらのびのびと散歩する開放感はまた格別だ。
 階下から連れ出された星星も、はしゃいだようにあちこち動き回るので、アリアドネが注意して呼び戻さなければ、城近くで生い茂る森へと紛れ込んでしまいそうだ。
「城の周辺の畑や牧草地は、白雪公がこちらへおいでの折に馬で狩猟を楽しまれることがあるので、石垣や柵での囲い込みをしていません。ほら、ちょうどあそこに木立の並んでいるのが見えるでしょう。あれが、畑の境界になります」
 散歩に出た一団を率いるパトリックが、田園風景の中を指差して言った。
「今回は星星がいるから、乗馬はおあずけだわ」
「雪豹の匂いがしたら、軍馬だってまともに走りませんよ。怖がってしまって。ともかく、狩猟のときは、獲物が伏せる場所が適度にあるほうが好ましいので、わざわざ低い土塁を作って柵がわりにしている畑もあります。なにせこのあたりは、ベニントン公爵あっての土地ですから」
 銃騎兵だけあって、パトリックは滔々と説明した。
「リィンセルは動物が好きだから、馬に乗れないのは残念ね」
 落ち着きのない星星に目配りしながら、アリアドネが言った。
「雪花亭にいると、馬を見かけることもあまりなくって。今はどこも自動車か汽車だもの」
「帝都では特にそうでしょう」
 おのおのが話していると、しんがりを歩いていたコハクが不意に立ち止まった。
「エリカ様? お加減が悪いのですか? お顔の色がよくないですね」
 コハクの声に、すぐ前にいたリチャードが振り返り、パトリックも先頭から慌てて走り寄ってきた。
「どうしたのかしら。急に気分がすぐれないの」
「さっき、サンドイッチを食べすぎたんじゃないか?」
 からかっているのか心配しているのか分からない口調でたずねる次兄に、エリカは「失礼ね。いつもと同じだもの」と怒って言い返したが、語気が弱々しい。
 気遣わしそうにエリカの表情をのぞきこんでいたリィンセルが、意を決したように顔をあげる。
「先に戻ってお医者様を呼ぶわ。寝台の用意もさせておくわね。コハク、いっしょに来て」
「御意。では、失礼いたします」
 応じたコハクは、いつものようにリィンセルを肩に抱きあげ、舗装されていないあぜ道を城にむかって走り出した。
「ほら、エリカ。僕の背中におぶされ」
「こんな姿をコハクに見られるなんて、恥ずかしいじゃないの」
 そうは言ったが、エリカは反発する元気もないようで、目の前にかがんだパトリックの背中へのろのろとよじ登るのを、リチャードが手を貸して助けてやる。
「しっかり掴まっていろ。パーシー、頼んだぞ」
「分かってるよ。じゃあ、行くからな」
 コハクに続き、エリカを背負ったパトリックも、ここまで来た道を逆戻りに走り去る。
「いけない、星星があんなところまで」
 エリカのことに気を取られているうちに、森へとつながる散歩道の先で星星の姿が小さくなっていた。
「私が連れ戻してきます。リッキーは城へ」
 リチャードに言伝したアリアドネは、スカートの裾をたぐり、城とは反対方向にひとり駆け出した。

 星星は追いかけっこでもしているつもりなのか、アリアドネが走って近づくと逃げ、距離が開くとまた振り返って、彼女が追いつくのを待つという具合だった。
「もう、あの子ったら! ここは印度とは違うのに!」
 そうこうしているうちにも、星星はますます森の奥深くへ進んでいく。体毛のぶち模様が木々に紛れる雪豹を森で探すのも難しいが、それより、あたりの農民にでも見つかったら大騒ぎになってしまう。
 履き慣れない革靴で息を切らしたアリアドネの視界で、星星が散歩道を外れ、下草の茂った森の中の土手をおりるのが見えた。
 どこにむかうのかと思えば、畑のほうから森に続くなだらかな傾斜を、小川が流れている。濡れた川辺の石を踏む星星は、そこで水を飲み始めた。
「星星! 戻りなさい!」
 雪豹の足が止まったのを幸いに大声で呼び、土手を滑りおりたアリアドネは口笛を吹き鳴らした。
 サーカスで口笛に呼ばれることが染みついていたのと、喉を潤して満足したのとで、星星はすんなり体の向きを変え、アリアドネのもとへ走り寄ってきた。
「ああ、よかった。おまえになにかあったら、リィンセルが悲しむところだったわ」
 皮の首輪のあたりを指先で掻くアリアドネに、星星は大きな体をくねらせてすり寄った。
「アリアドネ? 大丈夫か?」
 リチャードの声だ。
 アリアドネが顔を上げると、土手の上に立ち、森の様子をうかがう、すらりとした人影が夕闇に黒々と浮かび上がっていた。
「もう捕まえました! 今そちらに行きます!」
 星星を追い立て、ひとりと一匹で土手を駆け上がる。アリアドネたちに気づいたリチャードが、手を差し伸べて引き上げてくれた。
「無事でよかった。どこかで迷ったんじゃないかと」
「平気です。命に関わるほど深い森じゃありませんもの」
「そうだとしても、若い女性がひとりで森をさまよっては、危ないことに変わりない」
「おっしゃるとおりですわ。心配してくださってありがとう」
 アリアドネが、握り合った互いの手を一度離して、衣装についた草や土を払い落としたあと、再び手を取られたのでなにかと思えば、リチャードと腕を組むかっこうにされた。
「貴婦人とは違うんですから、私にあまり気を使わないでください」
「紳士として当然のことだ。あなたこそ気にしないでほしい」
 リチャードと腕を組んだままアリアドネが歩き出すと、星星も後ろについてくる。
「そろそろ日が落ちますね。あなたの妹さんはもう城についたでしょうか」
「コハクが気になる?」
 唐突に問われ、アリアドネは隣のリチャードを見返した。
「少なくとも、コハクはあなたを気にしているようだ」
「心配なんです。リィンセルのことも、事情が複雑で」
「復讐の連鎖のことを聞いたのか」
「ええ。執事さんが知る限りことは、全部」
 リグルワース家は、スノードロップ家の親戚だ。両公爵家の因縁の当事者ではないとはいえ、まったくの無関係との意識でもいられないのだろう。
「サリバン卿……いえ、ダネル公とは、偶然ですけどお会いしたことがありました。私がサーカス団にいたころですわ」
 ダネル公の名を出した途端、リチャードの気配が目に見えて変化した。腕をゆるく絡ませただけのアリアドネにも、ぴりぴりした緊張が伝わってくる。こういった反応はやはり、ニヴァリス・パークでかの人とまみえたパトリックとほとんど同じだ。
「ダネル公が、リィンセルの御家と対立する因縁は、ひととおり飲み込めたつもりですが……」
「あなたの印象は違った?」
 リチャードは聡い。ここで隠し事をしてもしょうがない、とアリアドネは心を決めた。
「ご存知と思いますが、私の肉親はアルビス人です。離れ離れになったのが赤ん坊のころで、今も健在なのか、どこにいるのかも分かりません。ダネル公はちょうど父親ぐらいの年恰好でいらっしゃったし、あちらはあちらで、私と同い年のお嬢様を、奥様と一緒に亡くされたとお聞きしたものですから、事情も知らずに、お気の毒な身の上だと勝手に同情しておりました」
「あなたの心情を知ったコハクが、あなたを咎めるとは思えない」
「会ったことのない本当の父の面影をダネル公に探していた私を、執事さんが許すというなら、ダネル公を父親の仇と憎む執事さんを、私が責めることはありません。だって、筋違いですもの」
 アリアドネの訴えに、リチャードは首肯する。
「仮に、エリカとコハクが婚約すれば、復讐への意欲は強まるかもしれない。後継者をもうけることに、一定の目処がつくのだから。しかし、今のところ現実的な話ではない」
「リィンセルも言ったように、身分が違いますから。エリカさんに執事の妻になる覚悟がおありなら、また話は違ってくるでしょうけど。それこそ現実的ではありませんわ」
「おっしゃるとおり、エリカは夢を見ているだけだ。階下での生活が現実にどのようなものか、そこまで考えているわけではない。コハクは生まれながらの紳士ではないが、そもそも僕たちと付き合いができたのは、白雪公の執事の息子だったからともいえる。身分の隔たりは堅固なものとはいえ、事実、僕たちの友情は身分を超えたものだ」
 こみいった会話を交わす二人の歩みが遅いのか、ひたひたと少し前を進む星星は、時おり足を止めて、アリアドネとリチャードの姿をたしかめた。
「もうひとつ仮の話をすると、もし僕があなたに求婚したら、承諾してくれるだろうか」
「仮でするお話ではありませんね」
「では、真剣に申し込みます」
 リチャードはきっぱりした物言いの紳士だが、すぐさま言い切られて、アリアドネはしばらく言葉を失った。
「今日初めてお会いしたばかりですわ」
「身分の違いを考えるには、いい材料だ。僕は冗談を言っているつもりはない。あなたは魅力的な女性だ」
「待って。これ以上混乱させないで。冗談ではないのに、材料だなんて言われたら、どうしたらいいのか分からないわ」
「僕の言い方が拙いのは認めよう。すべて本心なのは間違いない」
「あなたが本心でおっしゃったのだから、私も本心で答えるべきよね」
「そう願いたい」
 とうとう足を止めてしまった路上の若い男女をいぶかしそうに眺める星星の、夕焼け色に染まった毛並みの頭ごしには、こちらも夕映えと夜の帳とに色分けされたカサブランカ城が見えている。
 アリアドネはひと呼吸置くつもりで、こほん、とひとつ咳払いをした。
「では、言います。まだ結婚なんて考えたこともないの。身分がどうこうじゃなくてね。今だってほら、びっくりして言葉遣いが踊り子のときに戻ってるわ」
「あなたに僕と一緒になってくれる気持ちがあるなら、身分は乗り越えられるだろうが、こればかりは無理強いできないことだ。とても残念だけど」
「そんなふうに言ってくださって嬉しいわ。あなたはとても立派な紳士だもの。もっとお似合いのお嬢様がいらっしゃるはずよ。でも、ジョンソン先生みたいな人を択ばれたら、そのときは私から申し込みにいくわね。ご自分を大切にして、って」
 冗談ばかりともいえないアリアドネの口ぶりに、先ほどまでの深刻さを忘れたリチャードが吹き出す。
「あなたは本当に愉快なかただ。弁が立つし、勇敢だ」
「よく言われます。危ないからやめてくれっていうのも、皆が口を揃えてね」
 いきなり結婚がどうとか言われたときはどうしようかと思ったが、気さくなパトリックとよく似たリチャードの笑顔に、アリアドネはひとまず安堵の息をつく。
 やや離れたところから、鞭がしなるような音がするので振り向くと、太い尻尾で地べたを打つ星星が、待ちくたびれた様子でその場に伏せていた。

 アリアドネたちが城に帰り着くと、近くに住む村医者の車が玄関前に停まっていた。
「どうやら食あたりのようなんだがねえ」
 寝ついたエリカと、その看病に付き添うミズ・ジョンソンが不在の夕食後、男ばかりで晩餐室から喫煙室に移動したパトリックが、酒のグラスを片手につぶやいた。
「なにか引っかかる言い方だな」
 執事の性分で酒も煙草ものまないコハクが、リチャードの葉巻に火をつけながら聞き返した。
「エリカの言うとおり、食べすぎたってことはないはずなんだよ。なにせコハクがいなくてしょげてたからな。あとは、全員が同じものを食べたのに、僕たちはなんともないだろう」
「たしかに妙だ」
 葉巻を受け取ったリチャードも言う。
 コハクが、「他の使用人にも聞いてみる」と言いかかったところで、喫煙室の扉がノックされた。
「紳士の皆さんは、こちらにお集まりだったのね。撞球室かどちらか迷ったわ。お城が広すぎるのも考えものね」
 水差しとグラスを乗せた銀盆を運んできたアリアドネだ。彼女はコハクをちらりと見て、なんとも言われないうちから肩をすくめる。
「いつもみたいに小言はやめてちょうだいね。あなたが旧交をあたためてるのを、邪魔したくないの」
 出鼻をくじかれて、コハクは苦い顔をした。
「この城は雪花亭と違って、それなりの人数がいると思うが?」
「エリカさんがご病気だもの。人手の多いほうが安心よ。あとで私が様子を見てきます。妹さんのことはこちらにお任せになって、男のかたはくつろいでいらして」
「そのエリカのことなんだが、どんな具合だい?」
 銀盆をライトテーブルに置き、とんぼ返りに室を出ていこうとしていたアリアドネを、パトリックが呼び止めた。
「ジョンソン先生にお夕食を運んだ使用人の話だと、ひどく寒がってらっしゃったので、暖炉に石炭を足して、毛布と湯たんぽをお持ちしたそうよ。でも熱があるって。今はお医者様の出されたお薬を飲んで眠ってるみたい。ローズオンブレイ先生がご一緒ならよかったんだけど」
「風邪かもしれないな。今夜一晩休ませて、明日の朝になったら煙霧京の病院に連れて行こう。姫様は、エリカの部屋に入れないようにしてくれるかい」
「伝えます。お見舞いに行きたがると思うけど、うつったら大変だわ」
「あなたは、エリカのところへ行ったあと、ご自分の寝室へ?」
 リチャードがたずねると、首肯が返された。
「休む前に、リィンセルの部屋を覗いてきます。それからの予定は眠るだけですわ」
「では、おやすみの挨拶をしてよろしいか?」
「ええ、かまいません。おやすみなさい」
 葉巻をいったん灰皿へ逃して歩み寄ったリチャードが、コハクに負けず劣らずの長身を折って、差し出されたアリアドネの手に接吻した。
 紳士の礼儀に慣れたふうで、まだどこかぎこちないアリアドネは腕にかけたショールを肩まで引き上げると、扉のむこうへ消える前に、室内の紳士たちへ一度笑いかけた。
「コハク、いつまで見てるんだ」
 元どおりに閉じた扉のほうを凝視したまま棒立ちで動かないコハクに、パトリックがあきれて声をかけた。
「そんなに名残惜しいなら、引き止めればよかったじゃないか」
「別に、そんなことはない。それに、女性を喫煙室に留めおくのは作法に反する」
 ぎくしゃくと居住まいを正したコハクは、気まずそうに言い返した。
「相変わらずの堅物だ。昔と変わらない」
 葉巻を取り直したリチャードが、紫煙混じりの笑みをこぼす。
「そういう兄さんは、アリアドネ君と二人して、ずいぶん帰りが遅かったじゃないか」
「猫を追いかけて森まで遠回りしたと言っただろう」
「だとしても、兄さんにしては性急だな」
 弟の言い分に、リチャードは思案顔を作った。
「結婚を申し込んだことはそのとおりだ」
「はあ?! アリアドネ君にか?!」
 パトリックは危うくグラスを取り落としかけ、コハクをヒヤリとさせる。
「リッキー、その……ラズーリ嬢の返事は?」
「断られた。さすがに急ぎすぎたと反省している」
「急がなければうまくいったように言うのはどうかなあ」
 酔いざましのつもりか、パトリックは空のグラスに水差しからレモン水を注ぎ、一気に半分ほどを飲んだ。
「若い女性に結婚が現実的なものだと知らせるのは、思いのほか難しい」
「どういう意味だい?」
「いや、こっちの話だ」
 兄弟の会話をよそに、コハクは扉のほうへ歩いていく。
「おいおい、どこへいくんだ、コハク」
「この城にも温室がある。熱冷ましの薬草を煎じて、エリカ様に飲ませてさしあげようと思う。二人はゆっくりしててくれ。では、おやすみ」
 一方的に言うだけ言って、コハクは室を出て行った。
「兄さんのせいだろう。妹が寝込んでるのに、結婚の申し込みなんてするから」
「振られたのはこちらなんだが。まあ、エリカのことはすまなかった」
 突拍子もないことをしでかすくせに、すんなり謝る兄にむかって、パトリックはあからさまに嘆息する。
「飲むかい?」
 水差しと並んだ酒瓶を指して、リチャードにたずねた。
「一杯だけ」
 パトリックは、新しいグラスに強い酒をなみなみと注いだ。

 アリアドネが、エリカにあてがわれた客間へ顔をのぞかせると、灯りを落とした寝台のかたわらで肘掛け椅子に座ったミズ・ジョンソンが立ち上がり、足音を忍ばせて廊下まで出てきた。
「お疲れでしょう。あとは私が」
 顔色に疲労のにじむミズ・ジョンソンは、「お願いしますわ」とアリアドネに言うのがやっとで、よろめくように自身の寝室のほうへ二、三歩踏み出したものの、すぐ足を止めて体の向きを変えた。
「先ほど耳にはさんだのですけれど、あなたは、印度で生き別れになったご家族を捜しておられるとか。わたくしのお知り合いに、心当たりがございます」
「本当ですか?!」
「はい。印度で事業をされていた貿易商のかたで、あちらでお生まれになったお子様と、大反乱のときにはぐれてしまったと聞いております。あいにく、おいくつぐらいのお子様だったのかまでは存じませんが……」
「どんな小さなことでも、ぜひ教えていただきたいわ!」
 血のつながった本当の両親が見つかれば、もうダネル公に父の幻影を求めることはないし、リィンセルたちへの後ろめたさも晴れる。アリアドネの期待はひとしおだった。
「なにぶん、古いお知り合いですので、はっきりしないことも多うございますが、お話しします。エリカお嬢様によくしていただいたお礼でございます」
 そのエリカは、扉一枚むこうの部屋で眠っている。アリアドネは喜びをおさえるのに苦労しながら、あれほどとっつきにくいと思ったミズ・ジョンソンに、抱きつかんばかりになって何度も礼を述べた。
 コハクがエリカの客間を訪れたのは、アリアドネがミズ・ジョンソンと付き添いを替わってから、小一時間も経ったころだ。
 ごく控えめなノックのあと、うるさく音を立てないようにそっと開かれた扉の影から、コハクの顔が見えたアリアドネは、慎重にエリカの枕辺を離れて戸口まで応対に出た。
 コハクは、両手にしたトレイに並ぶ、薬湯の入ったポットや、ボウルの水に薬草を浸したものを、扉のすぐそばの文机にトレイごと置き、アリアドネとともにすぐさま廊下へ引っ込む。
「白根草の薬湯は熱冷ましだ。エリカ様が目を覚まされたら飲ませてさしあげてくれ。かなり苦いものなので、蜂蜜飴も一緒に用意してある。ボウルの水は、ミントの葉を入れておいた。この水で布巾を絞って額にあてると、呼吸がとおりやすくなる」
「ありがとう。すごく寝汗をかいておられるから助かるわ。熱があるのに、寒気がするみたいなの」
「やはり風邪か、もしかしたら流感かもしれんな」
 たがいに言うべきことを言ってしまうと、話が続かなくなり、しんと静かな夜の城内で、暗い廊下に立つ二人のあいだに沈黙がおりた。
「……ええと、ほかの使用人と交代して、君も早めに休んだほうがいい」
「そうするわ。雪花亭と違って、ここには人が多いものね?」
 喫煙室での会話をさっそく揶揄しておどけるアリアドネの機転に、コハクはきまり悪そうな表情だ。
「それじゃ、あなたも戻ってちょうだい」
 潮時と見たアリアドネが扉に手をかけようとしたところで、ふと思いついたのか、「おやすみの挨拶はしないの?」とコハクに言った。
「リッキーは紳士だ。自分とは違う」
「そうね。私がぶしつけだったわ。今のは冗談だから忘れて」
「ラズーリ嬢」
 呼び止められ、コハクが一歩近づく。
 なにが起こるのかとアリアドネが身構えているところに、コハクが腰を折りまげ、頬と頬を軽く触れ合わせた。
 肩で切りそろえた黒い額髪が、アリアドネの横顔をひと撫でして離れる。
「おやすみ」
「……おやすみなさい」
 家族がするような、ごく親しいもの同士でする挨拶に、はにかんだ笑顔のアリアドネが扉のむこう側に隠れる。
 喫煙室で見たものとはまた別の、コハクにだけ向けられた笑顔だった。

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