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奇妙なふたり|シミズくんとヤマウチくん――われら非実在の恋人たち|清水えす子【試し読み】

 2024年3月に、山内尚[漫画]+清水えす子[文]『シミズくんとヤマウチくん――われら非実在の恋人たち』が発売となりました。

装丁=髙井愛/装画=山内尚

 この記事では特別に、本書の第2話に収録されている清水えす子さんのエッセイ「奇妙なふたり」を公開します。ご一読いただけたら幸いです!


奇妙なふたり

 いわゆる「おつきあい」をはじめたとき、私たちは女性同士のカップルだった。外からは疑いなくそう見えていただろうし、自分たちでもそう思っていた。あのころ私はクィアな大人たち(自分自身も成人はしていたが、まだ幼いと言っていいくらい未熟だったころのことなので、あえてこの表現を使わせてもらいたい)との交わりのなかで、おそらくはじめて「ロールモデル」という単語に触れ、そして「ロールモデルの不在」を重大な事態としてとらえる数々の言葉を耳にした。たしかにたいへんなことだ、とそのとき私は痛感していた。自分が世界から見てまったく異質な存在かもしれないと思うのは。しかもそれが「いけないこと」として責められたり嘲笑されたりする場面をしばしばの当たりにするのは、自分の存在を歓迎してくれる家々の灯りはおろか、見守ってくれるささやかな月明かりさえない、夜ふけの道なき道を、それもどこに化け物がひそんでいるともしらない道を、あてもなくひとりで行くことにおおむね等しい。

 大学生になって一年も経たないくらいだった家人は、そのころずいぶんと大人びた装いをしていたように記憶している。淡い水色やピンクの幾何学的な模様がプリントされた、布が落ちるようなデザインの膝丈ワンピース。鮮やかなオレンジ色のタイトスカートに、黒のブーティ。はっとするような色づかいの好みは当時からだが、現在の傾向からするとずいぶんと街の背景に溶け込む、いかにも常識的な装いだった。対する私はというと、古着を好み繊細なフリルやレースやしゅうやビーズづかいに代表されるようなロマンティックをとくに好み、どこかにある至上の「ほんとうにしたい装い」を追い求めつつ、経済的にも、また組み合わせの妙を得るに至る技術やセンスにおいても不足していて、もどかしさと渇きとにしょっちゅう振り回されていたのだった。

 古着屋に行くことを提案したのは、きっと私の方だっただろう。色せながら色鮮やかで、古ぼけているのに他のどこにもなくて、豊かで、しかし底の見えない古着の海にもぐることに、家人はすぐ夢中になった。家人とふたりで古着屋をめぐると、それまで手が出なかった海域にまで宝探しに出かけたり、いつもは素通りしていた岩陰のむこうに色鮮やかなさんの群生を見つけたりとでもいったようなことがいくらでも起きた。

 ひどく口惜しい思いをすることもあった。私たちの手元に来なかった、忘れられない一着、というのがいくつかある。そのなかでも真っ先に思い浮かぶのが、Ralph Laurenの紫色をしたベロアのジャケットだ。花火のうしろの夜闇のような紫はしっとりとなめらかで、正面に連なる金色のぼたんたちののない球形は、線香花火のあの落ちかける寸前にまばゆく光る球を思わせないこともなかった。店頭で羽織らせてもらったら、どちらかというと小柄なほうのわれわれにぴったりのサイズだった。私たちふたりともによく似合って、ことに家人の気に入りようったらなかった。しかしその日、同じ店で家人はすでにれん色の、ちょっとオーバーサイズでマニッシュな印象を受けるジャケットを手に取っており、上着を二着も、というのは当時まだ学生だった私たちの限られた予算からすると到底、叶わない話であった。迷いに迷って、紫色の上着をラックに戻し、私たちは店をあとにした。後日、またバイト代が入るなどしてから購入しよう、などと甘い見通しを口々にかわしながら。そう。甘い甘い甘い甘い甘すぎる。甘すぎるにもほどがある。古着との出会いなんて一期一会の最たるものだ。案の定、次にその場所へと出向いたときは、もう件のジャケットは影もかたちもなかった。家人はいまだにあのジャケットの夢をみるという。今の私たちは、欲しくて仕方ないけれど購入を迷うものに相対したとき、のがしたら夢にみそうか、を自分たちに問いかけてから手に取るかどうかを判断することにしている。

 家人がいわゆる「女性的」な要素をまとうことを避け、むしろ「男性的」とされる要素を装いへと積極的に取り入れようとするときがあることを、私がはじめて意識したのはいつだっただろうか。私が通っていた大学のすぐそば、ひとり暮らし先に家人が遊びに来たある日のこと、バスを降りて駆け寄ってくるその姿をみて、おやと思ったのが最初かもしれない。チノパンツにグレーベージュの薄いニットベストを身に着けたそのようすには、いつものような装いの色やかたちや素材への丹念なこだわりよりも、いかに女性的な記号から脱するか、ということに腐心し、健闘したりが見て取れた。「男性的」なディティールを服飾に取り入れることで「女性的」である身体の印象を強調する手法もあるが、それとは別物で、むしろ望まないうちに強調されてしまう身体のありようとのたたかいとしての側面がそこにはあった。ただしそのたたかいは来る日も来る日も常に繰り広げられている、というわけではないようだった。いわゆる「女性的」なものを、楽しんで身に着けているときもまたあったのだ。「男性的」な側へと寄せようとするときも、針をその側へと振り切ってしまいたいわけではないらしいということも、そばで見ていて察せられた。

 その最初の気づきとおぼしきタイミングから幾らかの月日を経て、ふたりとも学生ではなくなってすこしの時間が経ったころ、友達の結婚式へ着ていく服を準備する必要が生じた。友達からは、好きな格好をしてきてねとのやさしいメッセージが届いており、スーツが着たいの、メンズスーツが、ともじもじと明かした家人と一緒に、ふだんは目の前を通り過ぎるだけだった店へと足を踏み入れた。そこはメンズの衣類ばかり取り扱う店で、いつもならどこの服屋でもおくすることなくくるくると泳ぎ回るのに、このときの家人はもじもじとして、どこか途方に暮れているようにも見えた。こなれたワックスづかいで髪を立てた店員が、なにかお探しですかと声をかけてくる。この子が着るパンツスーツを探していて、結婚式に着ていけるような、と私が言葉を返した。すると、店員は隠しきれない困惑をにじませながらも終始親切に対応してくれ、また家人も終始うつむきがちでありながら、目的のものをその店で入手した。あたたかみのあるグレーのウール素材でできたツーピースのスーツは品のいいかたちをしていて、カジュアルにもフォーマルにも着られそうだった。いい買い物をしたはずなのにやっぱり家人はうつむいたままだった。店から出てほどなく、ああやって言われるのはアウティング[*]されたのと同じきもちになる、と絞りだすように言ってから、家人は道端で泣きはじめた。ああやって、というのは、結婚式で着るためのメンズスーツを、ほかならぬ家人が探しているということを店員に告げたことを指すのは明白だった。

 誰かが選び取った衣服は、その者の今のありようを映し出すこともあれば、こうありたいという覚悟の表明や、この場ではこう振舞って生き延びたいという生存のための戦略であることもある。着るものは精神や魂のための、そしてそれらを直に反映した外骨格としての役割を担い得る。いつからそうなっていったのかは定かではないが、かねてから私はその外骨格としての衣服の存在をかなり意識し、自分にとって重要なものだと位置づけていた。私自身をつくりあげるもの、私を私たらしめるものに核というものがもしあるとすれば、しなやかできょうじんつるが核自身から芽生えるように、そして核を守るようにからまっていて、蔓にはかぐわしい匂いをさせながら小さな白い花弁を落とす花がいくつも咲いているだろう。そのみどりの蔓や葉や咲き誇る白い花が私にとっての衣服、装い、ファッションだ。家人にも家人のもつ核と、そこから現れでて核を支え守るものがあるかもしれないと想像するが、家人が自分自身の性別をどう捉えるか、どう感じているかという要素があいまって、事態はより複雑になっている。性別と見た目の表現は、多くの社会においてまあまあ密接に関わっており、私たちの生きるこの社会はまったくもって例外ではない。私はその事態の複雑さ、そしてそれゆえに、家人が自分のしたい装いについて表明すること、それを受けた誰かが困惑まじりの対応をしたり、ときに親切心からまるで「正しい在り方」にむけて家人側の修正や反省が必要であるかのような対応をしたりし得ること、そういった外の世界との摩擦が家人の心に大小さまざまな傷をつけてしまうことについて、当時まだよくわかっていなかったのだ。店頭で手に入れるに値するものを探そうとして店員に相談する行為自体は妥当といえるが、揺れ動く自分自身への認識のあり方をためらいなく開示するには、そのときの家人が抱えていた混乱と不安はあまりにも重たかった。びゃんびゃんと泣く家人を連れて、私は近くの大きな公園を家人が落ち着くまで歩き回り、たしかその日はそのまま帰宅した。後日、金色に似たベージュの蝶ネクタイを手に入れて、ちょっと光っているようにも見える柔らかい黄色をしたペイズリー柄ハンカチを買ってそれはポケットチーフにして、つややかな黒色の、そして家人にぴったりの革靴まで見つけて、こうしたい、と思った姿で友達を祝うことができたので、それはほんとうに幸福なことだったと思う。

 それからも、家人はゆらぎ続けている。ゆらぎながらおおむね楽しく、そしてしばしば切実に、古いものだったりそうじゃなかったりする色とりどりでさまざまな質感をした布や装飾品の海を堪能している。ここ数年のうちで、ノンバイナリー、ジェンダーフルイド、という言葉で表される属性を知ったことが家人の混乱や不安をいくらかやわらげるのにひと役買ったようだ。かつてレズビアンカップルとしてされ、自分たちでもそう思っていた私たちの輪郭はわかりやすい名前を失ってとろりと溶けた。家人は世の中の女性、男性という枠組みのすき間をゆらりゆらりと行き来する。その家人とパートナーシップをむすぶ私がレズビアンと自称するのは実情とややかいしてしまうだろうか、などと考えたりもする。家人にとってノンバイナリーやジェンダーフルイドという単語たちが、自称するのに悪くはないが、まるであつらえたようだとまではいかないように、細分化される名前や分類の網の目から私たちの、そして誰かたちのアイデンティティはとろりと蜜のようにこぼれでる。

 いわゆる「女性的」とされる記号たち、フリルやレースや大小さまざまな花柄やたっぷりの布をつかって広がる裾や大きく膨らむ袖や、そういったものを重ねに重ねてその意味を崩壊させて他者からの眼差しをかくらんすることを最近は試みている。家人のみではなく、私も。自ら異形へと変貌して周囲を祝祭に巻き込んでいくのは、男、女ときっちり二分された収納棚に対しての異議申し立てには留まらない。君たちはどんどん自由になれると、重ねに重ねたコットンや麻やシルクたちが起こすきぬれの音がささやくようにして教えてくれる。

 きっと私たちに「ロールモデル」という言葉を教えてくれた大人たちは、私たち(にかぎらず、きっとあのころ元気いっぱいの若者だった同年代たち)に、今後のロールモデルとなっていくことを期待していたのだと思う。医学生だった私と看護学生だった家人は、LGBTにやさしいクリニックをいつかふたりで開いてよ、といったことを、もちろん冗談やお世辞まじりではあったと思うけれどしばしば言われた。しかし今や、私たちはふたりでクリニックを開業もせず、家人にいたってはなぜか漫画家になり、かいわいにこれといった目覚ましい貢献もせず、あのときの大人たちに想定されていたようなわかりやすく立派なレズビアンカップルなどには全然ならなかった。服を重ねに重ねて、たまにどうしても欲しい靴のサイズがなくて泣いたりアクセサリーを失くして肩を落としたりしながら、正体不明のまま好きに遊んでいる。

 実際のところ、誰も、あるいはどの二者やそれ以上の数の組み合わせも、目指すべき像やあるべき姿として完成することなどできないのではないか。それを目指すには、私たちはみなそれぞれがあまりに違いすぎている。皆のためのわかりやすい灯台にならずとも、気まぐれながいとうや民家にあるちぐはぐなシャンデリアや道行く懐っこい鬼火になって両手を広げて届くくらいの範囲でも照らしたら、孤独感と絶望に張りつめた誰かのまなじりをふっと緩ませることができるかもしれない。そうであってほしいと思う。だってひとりぼっちだと信じ切っていたころの私が、今の私たちみたいな奇妙なふたり組に相対することがあったら、たぶんきっと泣いてしまうのではないかと思うから。

[*]アウティング:誰かのセクシュアリティを、その者の了承を得ずに第三者に明かすこと

著者略歴

清水えす子(しみず・えすこ)
山内尚のパートナー。エッセイ集に同人誌『魂が貴族』『うるわしき怠惰』があるほか、いくつかのweb媒体に別名義「楽しい人生」で寄稿している。普段は精神科医をしている。

★同じく第2話に収録のマンガ「ノンバイナリーであること」のボイスコミックも柏書房の公式Xで公開中!ぜひご視聴ください!

★同時発売『ノンバイナリースタイルブック』(山内尚 著)もよろしくお願いします!

装丁=髙井愛/装画=山内尚

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