【純文学小説】好きなことだけを語り続けてきた。【短編完結】
僕はここで、この一年、好きなことだけを語り続けてきた経験を話そうと思う。結論から言えば、かなりの効果があったのだ。
やはりあのSNSでよく見た、少年漫画の主人公のセリフは正しかった。
そう、あの「何が嫌いかではなく、何が好きかで自分を語れよ」ってやつだ。
こうして僕はこれから、過去にあった出来事を語る。
僕は過去に危険な場所にゆき、そこを探索し、事件が起こり、対処した。
つまりラブクラフトの小説と同じ構造を、これから語る物語は持っている。
でも安心してほしい。この話はホラーじゃない。クトゥルフの神々も出てこないし、ラストはハッピーエンドだ。
だから、安心してここから先を読んでほしい。
僕たちの若い頃は、漫画であれ小説であれ、先がどうなるか気になって読み進める醍醐味があった。
だけど昨今のウェブ小説の読者は、先に結論が分かっていないと読む気になれないらしい。
だから先に言っておくよ。この物語はハッピーエンドで終わる。
それだけは保証しよう。
◆
僕はSNSでくだらない言い争いをしたものだ。何を言ったところで話など通じない相手に反論・異論を言い続けた。
それでどうなったのか。相手はますます自分の考えに固まる。こちらも譲れないものがある。それが明らかになっただけだった。
それに正直、相手が何を言っているのか、よく分からなかった。
多分、僕が知らない何らかの前提となる、その界隈では常識である何かがあって、それについてはいちいち説明しないからだと思う。
それに、彼らは自分と全く異なる価値観や常識を持つ人々にも分かるように説明する習慣はないみたいだった。
だから、身内ならともかく、全くの外部から来た人間に分かるようには出来なかったのだろう。
そんなことは誰にでもある。そんなことでイライラしたり、説明を求めても仕方がない。
僕はある時点から相互理解をあきらめて、自分が好きなことだけを語ることにしたのだ。
日々荒れ狂うSNSの海で、僕は何度となく争い、ケンカしあってきた。それは実に危険な場所だ。僕が知っている人の中には、誹謗中傷で訴えられた人もいた。
まだ何か僕に対して、あるいは他の誰かに対して、あるいは自分自身に言い聞かせるように、何かを言い続けている人々がいる。それは大抵、何かへの否定だ。その否定がまた他の否定を、批判を、単なる口ゲンカを呼ぶ。
嫌いなことで自分を語っているのだ。
僕もそうだった。ずっと長い間、嫌いなことで自分を語ってきた。
さて、嫌いなことではなく、好きなことで自分を語るのに、何から始めたらいいのだろう?
「やはり、ラブクラフトでも読んでみるか」
僕はそう思った。考えてみれば、長年クトゥルフ神話とその派生作品については目にしていたのに、本家をきちんと読んだことはない。
僕はさっそく本を買い、そして読み始めた。短編を一つ、読んだら感想をSNSに上げる。
そうした感想を上げると、「ウェブ小説の世界ではホラーなんて読まれない」とか、「ラブクラフトなんて古い」とか、「クトゥルフ神話を知りたいなら原典なんて読まなくても簡単な入門書を読めばいい」とか、いろんなつぶやきが流れては去っていった。
それに対して僕は反応しない。
「ホラーで書籍化されたのもありますよ」とか、「僕は古典を読むのには意味があると考えています。そうではないとおっしゃるなら、何故そう思うのかお聞かせください」とか、「事典のような入門書ではなく原典を読んだら、どのように小説では描かれていたのか分かりますよね」などという愚にもつかない話はしない。
またいちいち人のやることを否定しないではいられないのかと思い、イライラしたりもしない。
どう言い訳しようと、それは結局、自分の嫌いなことで自分を語ることだ。
僕は自分のペースを守り、彼らに同調しないことにした。
ラブクラフトの次はドイツロマン派。ドイツロマン派について、くわしく語れるほどの見識は僕にもない。けれど若い時から、この語感自体が僕にとってのファンタージエン国だった。
ファンタージエン国って分かるだろうか。ドイツの作家ミヒャエル・エンデの『はてしない物語』に出てくるファンタジーの国だ。主人公はその国にゆく。恐ろしい目に遭い、対処し、戻ってくる。
ああ、あれもラブクラフトと同じ構造を持っているのか。
行きて帰りし物語。
まさに古典的な名作だ。
ミヒャエル・エンデはドイツロマン派ではない。ドイツロマン派は、もっとずっと昔の人たちだ。ウェブなんてものが全く存在しなかった時代の、けれど今も生き、これからも生き続ける物語を生んだ人々だ。
「ドイツロマン派の作家……やはりホフマンから始めるか」
そうやって好きなことを語り始めると、それだけで動揺し傷つく人が現れた。
「何、そんな古い話知らない!」
「古典を読むより、流行の話を読んたほうがいいよ!」
「子どもでも分かるようにしないと読まれないから!」
「書籍化は、そんな古い時代の話なんて読まなくてもできるよ!」
まるで悲鳴にも似たつぶやきが流れる。僕は反応しない。反論も疑問も発しない。それは一種の精神的な修行だ。僕は衝動に耐える。何も言い返さない。何も尋ねない。ただ自分の好きなことだけを語る。語り続ける。
それは自分のネガティブな衝動に流されないようにすることだ。別な意味では、冷徹さを発揮することでもある。
「あたしたちの書いているファンタジーはくだらないの?」
誰かの悲鳴のようなつぶやきが見えた。『あたしたち』が『僕たち』や『俺たち』である場合もあった。
一人称が何であれ、言われているのは一つだ。どうか私たちにも目を向けてください。
僕は心が傷んだが、好きなことを語り続けるのを選んだ。
あなたの物語については、別な誰かが語ってくれる。または、自分自身で語るしかない。
好きなことを語り続けて、一ヶ月は経った頃、もう意識しなくてもSNSの様々な否定の言葉、制限の言葉が気にならなくなった。
自分の為すべきことも見えてきた。誰の言うことも聞かなくても、僕は自分の感覚を信じて自分の物語を書ける。
自分自身の好きな作品群への愛と、今生きている人々も含めて数多の作品を残した人々が、作品を通してもたらす何かが、必ず導いてくれるはずだ。
◆
これが僕の行きて帰りし物語である。
僕は過去にあった出来事を語った。
僕は過去に危険な場所にゆき、そこを探索し、事件が起こり、対処した。
つまりラブクラフトの小説と同じ構造を、この物語は持っている。
でもこの物語はホラーではないからハッピーエンドで終わる。
僕にとってのハッピーエンドだ。
他の人にとって、どうだかは分からない。
あなたの旅もまた、ハッピーエンドで終わるのを願っている。
終わり
お気に召しましたら、サポートお願いいたします。