お化けがこわい

お化けはこわい。よって、怖い話もこわい。しかし、俺は怖い話とかそういうのは好きで、心霊番組も好きだ。俺は昔からオカルトが好きな子供だったが、同時にオカルトが苦手な子供であった。見たくて見るのだが、夜にトイレに行けなくなるのである。今はさすがに夜にトイレに行けなくなることなどはないが、やはり心霊番組を見たあとだと暗いところはこわい。

俺が思うに、心霊番組というのは昔の方がこわかったように思う。それは第一に、俺が子供だったことが挙げられるだろう。これは当たり前で、ガキの時分に見たり聞いたりした怖い話のこわさは異常である。ただ大人になるにつれ、お化けなどといういるかどうかもわからぬものより、自分の将来とか世間とかいったものの方がこわくなる。もうお化けにびくびくしている暇などないのである。
第二に、画質である。これは声を大にして言いたいが、怖い話の画質は多少粗い方がいい。VHSとか、ブラウン管で見るホラーの方がこわい。これはある程度の画質の粗さというのが、ある種不気味な雰囲気を醸し出し、ホラーやオカルト、心霊番組などとマッチしているからだろう。つまり上述した第一と第二の理由が組み合わさった昔の心霊番組の方が、今より断然こわかったのは至極当然のことである。逆に、俺は今大人になり、心霊番組の画質も良くなってしまった。となると、お化け役の白粉、ドーランなどがめちゃめちゃ鮮明に映じるわけだ。こうなってくるとどこか入り込めない俺がいる。ことによると、お化け役の女、顔立ちマブくね? などと思ってしまうのである。これは致命的だ。

それでも、今でも怖い話はこわい。もう一度言う、怖い話はこわい。今は心霊番組というものは減って、稀に特番が組まれるくらいだが、やはりやっていると見てしまう。そして、上述したような不満を漏らしながら見る。「やっぱり昔の方がこわかったな」だとか、「出来の悪いCGは萎えるんですよねえ」だとかぼやきながら見る。事実、見ている時は全然こわくない。ホラーとギャグは紙一重とはよく言ったもので、やりすぎてるやつは逆に滑稽で、笑いながら見ることもある。この時点ではぜんぜんこわくない。
しかし心霊番組を見た日に、煙草でも切れようものなら恐怖を俺が襲う。まず家の車庫が暗くてこわい、乗り込んだ後部座席がこわい、トランクがこわい、ミラーがこわい。心霊番組を見た後に、一人で車を運転するのは非常にこわい。何度も何度も後部座席を振り返る。俺は頭部に何者かが触れたのを感じ、また振り返る。何もない。しかし何者かが触れるのでまた振り返る。また何もない。三回くらい繰り返して、やっと自分がロン毛であることを思い出し、安堵する。心臓はバックバクである。
運転中は大声で歌をうたう。B'zの裸足の女神をうたう。オォゥマイ裸足の女がァみよォン、傷をォゥ隠さァなァいでェいいよォ! なぜか知らんが、俺はこわい時に裸足の女神をうたう。その際の俺は、誰にも見せたことのないようなテンションである。知人がそんな俺を目撃したら、気違いになったと思われるレベルである。これは俺の恐怖を払拭するためだ。お化けというのはこっちがこわがれば喜ぶ。恐怖心がお化けを引き寄せるみたいな話もきいたことがあるし、心霊番組のお約束でもある。というのも、あいつらお化けは確実にこっちをビビらそうとしているからだ。追いかけてくる系のやつは、ワープみたいなこともできるのになかなか追いついてこない。お化けのいる建物のドアはギリギリまで不思議な力で閉まってるし、逃げ込んだ車のエンジンはギリギリまで不思議な力でかからないものである。もうこれはお化けサイドが恐怖心を煽ってるとしか思えない。だから俺はB'zを歌うのだ、裸足の女神を。稲葉と松本に守ってらうのだ。
裸足の女神をひとしきりうたい終えた俺は叫ぶ。「なにがお化けじゃ! しょーもな!」と。それを口にした瞬間、またこわくなる。というのは、怖い話のお約束で、お化けに向かってキレるとお化けサイドは本気で襲いかかってくるのである。「いいかげんにしろよ、俺が何したっていうんだ!」などと叫んだ瞬間、お化けはガチではっきり現れてくる。俺はそれをやってしまってるわけである。なので、すぐに「ウソ、ウソ、今のナシ! こっちも、あの、言い過ぎた感じは、否めないわ」と言って取り消す、というか中和する。そしてまた裸足の女神をうたいはじめる。ドォンチュクラァイマァイ裸足の女神よォン、ひとりで泣かなァァいでもォゥいいよォ! この堂々めぐりである。
また、常に気を張っていなければならない。間違っても安心してはならない。心霊番組のお約束で、お化けはこっちが安心した次の瞬間に、一番おっかない顔をスタンバっているものである。つまり、俺は安心などしない! というスタンスでいなければいけない。お化けよ、お前はジャブ程度に俺をビビらせておいて、俺が安心したら、車の窓にでも一番こわいお化け的キメ顔、ポーズなどというものを張り付けておくつもりだろうが、どだい無理な話だ、なぜなら俺は安心などしないからだ、と俺は毅然とした態度をとる。そして「緊張の緩和とか無駄だぞ!」と俺は叫ぶ。「枝雀師匠か! ドンデンか!」この方法で、未だに俺はお化けに会ったこともないし、被害もない。
ただ、この先もしお化けに会ってしまったら、どうすればいいのだろうか? お化けがいて、ギャーと叫んで、卒倒する………これが心霊番組のお約束だ。なぜか皆、気絶すれば許してもらえるのである。気絶したら、どんなにおっかない顔をされてもこっちはわからない。おそらくお化けサイドも気絶させたら満足するのだろうが、それだけでは終わらないのがお化けの悪いところだ。目が覚めて、あれは夢だったのだろうかなどと思ったら、掴まれた手には手形のどど紫の痣がついていたりする、手を開くと髪の毛を握っていたりする。お化けは痕跡を残したがるのである。痣はまだわかるとして、髪の毛を握らせとくというのは、正直引く。あれは気絶した人間の手をぐっと開いて、自身の髪の毛を数本抜いて、ティッシュに包んだおこづかいをくれる時のおばあちゃんのように手に半ば無理矢理握らせとくとしか考えられないわけだ。お化けはそれで喜んで、満足げな顔で帰ってったと思うと相当気持ち悪い。あの渡し方は祖父母にのみ許されるものであって、他人にやれると気持ち悪いし、ましてやお化けなど言語道断である。だいたいなぜそんなことをするかといえば、やはり桂枝雀師匠の言うところのドンデン形式のオチのためである。あれは悪夢だったんですね、からの現実でした! がやりたいだけなのだろう。ただ、この場合蛇足感は否めない。逃げ切ったと思ったら、こわい顔ドーンッ! を先にやってしまっているものだから、その後に明るくなってから痣だの髪の毛だの見せられても、びっくりはするが、多少弱い。一回目のドンデンがあってからなので、相対的に衝撃が薄くなってしまっているのだ。まだ(びっくりという観点からのみ言うならば)気絶から覚めて安心したら、も一回顔ドーンッ! みたいな天丼ネタの方がインパクトがある。三回くらいならその天丼でいけるだろう。まあ、やりすぎると飽きられるし、七回目くらいにはさすがの俺も慣れて、卒倒せずにキレるだろうが。

最後に、もしお化けが出るならステレオタイプのお化けは勘弁してほしい。ステレオタイプとは、つまり痩身長髪の女のお化けである。現代は、多様性! ステレオタイプを押し付けるな! ポリティカル・コレクトネス! と目を血走らせ、唾を飛ばしながらギャーギャー騒ぎ立てる時代なのだから、お化けもいろんなやつが出てきていいはずだ。江戸時代の幽霊画より、お化けというのは痩身長髪の女とされてきたが、それは今時じゃない。お化けサイドも多様性を意識するべきである。デブ短髪ババアお化け来い! デブ短髪ババアお化け来い! この頃の俺はそう願い続けている。痩身長髪の若い女のお化けはこわいが、デブ短髪ババアのお化けならなんか大丈夫な気がする。デブハゲチビおっさんのお化けならもっと大丈夫な気がする。もっと言えば、悪霊の大群でも出そうってんなら、いかにお化けといえどもポリティカル・コレクトネスを意識するべきだ。悪霊の大群に様々な人種を混ぜていくべきである。そしたらこっちもあんまりこわくないから。
………とにかく、怖い話はこわい。今でもすごくこわい。というかお化けの話をしてるとお化けが寄ってくるって言うし、このへんでやめる。

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