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“武力に強くて保守”の物部氏 -その力の背景は渡来人から得た技術?-

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“日本古来の伝統を好む物部氏”は本当か?

物部氏といえば、伝統的に軍事の専門と言われ、神武天皇の頃から仕えたといわれる由緒ある豪族。そして、仏教公伝をめぐって蘇我氏と対立した廃仏派で、日本古来の伝統を好んだ豪族とも評されています。
 
「神武天皇の頃から〜」という点はさておき、彼らが「軍事の専門」といわれるのは明確な理由があって、鉄器とそれを使った兵器の製造・管理を握っていた氏族だったからです。 

鉄の技術はどこからやってくるか

弥生時代は鉄の時代といわれていますが、弥生時代に日本列島(倭)に定着したのは「鉄器」であって「製鉄」ではありません。製鉄技術は朝鮮半島の技術者に依存していました。倭は朝鮮半島南部の加耶に行き鉄を求め(『魏志』)、加耶の人々もまた定期的に倭にやってきては製鉄技術を持って鉄器をもたらし、しかし定住することなく母国へと帰っていきます。そのため、倭に製鉄技術が定着することはありませんでした。 

朝鮮半島の混乱が、倭に製鉄技術の定着をもたらす

しかし5世紀初頭あたりから、朝鮮半島の情勢が変わってきます。
 
倭は、かつて朝鮮半島北西部の楽浪郡・帯方郡と積極的に交流していましたが、この2郡が4世紀初頭に高句麗に滅ぼされてからは、朝鮮半島南部の加耶、西部の百済との交流を強めます。
 
が、ここにも高句麗が攻めてきます。当時の高句麗の王は、高句麗史上屈指の名君と讃えられる好太王。好太王は朝鮮半島東部の新羅と手を組み百済を圧迫し、百済は加耶と手を組み、さらに製鉄をはじめとした大陸の技術や知識を受け取れる国が無くなると困る倭も、百済・加耶に加担することになります。
 
ここらへんから、「倭=親百済/反新羅」という伝統が生まれてくるようです。
 
こうした朝鮮半島の情勢を受けて、加耶や百済の技術者の一部は倭に逃れて、定住しはじめます。いわゆる渡来人/渡来系とよばれる人たちです。彼らのうち、製鉄技術を持つ鍛治集団は多くが河内国に定住し始めたようで、大阪府の大県遺跡はその集落の一つとも言われています。
 
そして、この河内国を拠点にしていた一派が物部氏です。海外に依存していた製鉄技術を国内に留め、ほぼ独占的に抱え込むことに成功した彼らは、ここから畿内の勢力図において、地位をぐんぐん高めていくことになります。 

おまけ

昔、知人から「あなたは物部氏と深い関係がある」と言われて本当かどうか調べてみましたが、家系的に全然関係なさそうだったあげく「深い関係」というのもスピリチュアル的なあれを人伝に言われただけみたいでした。

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