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私が山に登る理由

私が山に登る理由。それは、下りるためである。下りて町の暮らし、私の日常に戻るためである。

誰かといること、何かに所属していることを、面倒に感じる時がある。意地悪をされているわけでもなく、周りは皆んな、いい人だけど。時々、自分の殻に閉じこもりたくなる。誰もいない世界に行きたくなる。山に登ることは、私にとって、それに近い。

小説「草枕」で、主人公は山を登りながら、こう考える。

「智に働けば角が立つ。情に棹 (さお) されば流される。意地を通せば窮屈だ。兎角に人の世は住みにくい… (略) 人の世が住みにくいからとて、越す国はあるまい。あれば人でなしの国へ行くばかりだ。人でなしの国は人の世よりもなお住みにくかろう」

私なりに解釈をすると、
「理屈や綺麗事だけで、この世は成り立っているのではない。優しさだけでは、生きられない。かといって、調和を乱すと疎まれる。いずれにしたって、人の世は住みにくい。けれど、住みにくいからといって、他に行く所が、あるわけでもない。あるとしたら、人でない者の住まう世界くらいだ。しかし、そんな所は人の世よりも、もっと住みにくいだろう」

作中では、この住みにくい世を住みやすく、寛げるものにするため、芸術が存在するのだと続く。しかし、私の心は、芸術だけでは慰められない。これは、芸術のせいではなく、私の問題だ。心が、感覚やリズムの波に上手く乗れない。思考が、すぐ違う方向へ行ってしまう。

だから私は山に登る。山で、心を体の感覚に寄せていく。
山、植物、空、それらが純粋にそこにあること。歩けば、腿は痛み、肩は重さを感じ、皮膚からは汗がわき、お腹がすく。自分は生きている。体があって、体を動かすために、エネルギーを必要とする単純な生き物。ずっとずっと歩き続けたい。山を下りたくないと思う。

だけど、そうでない時もある。
晴れを予想して出発したのに、雨雲が引かない、むしろ雨足が強くなってきた時。細くて見通しの悪い道を一人で歩く時。歩き続けた道が、間違いだったと気づいた時。迫ってくる孤独に後ずさりしそうになって、ひたすらに誰かの存在を求める。早く町に帰って、安心したいと思う。けれど、そう思ったところで、選択肢は「歩く」の一択のみ。歩き続けて、山を下り、町に戻る。

町では、生きるためのインフラが、十二分に整っている。屋根ですら、私たちを日光や雨から守る、素晴らしい発明だと気づく。夜のコンビニから煌煌とした明かりを放つ。会ったこともない人たち、すれ違うだけの人たちが、私の日々を守ってくれている。それだけで、大抵のことは、なんとかなるような気がしてくる。

写真は、雨竜沼湿原で見たアザミ


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ちなみに、「草枕」は大学生のとき読んで、数ページで挫折した。改めて読み返しても、今の私には、まだ難しい…いつか、これを味わえる成熟した大人になりたい。
夏川草介さんの解説によると、この本は、「言葉を記号として捉えるのではなく、言葉を、言葉そのものとして捉えている。だから、言葉のリズムに身を委ねるのがよい。小説自体のあら筋も特にないので、適当に開いたページを、パラパラと読むだけでもいい」とあった。なので、そんな読み方をしている。


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