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政治に、「政策議論」は必要なのか?

こんにちは!
みなさん、対話していますか?
いや、いきなりそんなお花畑みたいなこと聞かれても困りますよね……

私はなんだかんだ、対話が嫌いではありません。
対話によって、欠落していた視点が見えてきて、自分のアイデンティティの確立には極めて役立つからです。

しかし、対話ってなかなか難しいですよね。
ちょっとした言葉遣いにイライラしたりとか、自分のこと否定されてムッとしてしまったりとか、それが普通だと思いますし、私自身もそうなのです。
ただそういったマイナス面を含めて、やはり対話は役立つのではないかと思っています。

分かり合うことは不可能

対話で人間同士が分かり合うことなどは不可能です。

「いやいや、さっきと言っていること違うじゃないか」と思われるのは普通だと思います。
でも、私の中では矛盾していません。

自己批判はとても難しい

人間、それぞれ生まれも育ちも住んでいる場所も異なるわけです。
そんな中で、それなりに考え方の違いが存在するの当たり前です。
それぞれ、自分の考え方を大切にしています。簡単に曲げることなんてできません。

でも、それで良いんです。
自分の考え方は、いわば自分の分身のようなものであって、これを簡単に否定されてしまっては堪りません。
自己批判ができる人間は素晴らしいって話もありますが、そんなの、口で言うほど簡単ではないのです。

いやいや、それでは対話なんか成立しないだろって話なんですが、大丈夫です。それでも対話は成立します。

相手の考え方を変えようとはしない

まず、一つの諦めが非常に重要です。
相手の考え方なんて変わるわけがないと、そうやって割り切る必要があります。
いやいや、相手の意見が変わらないだったら、議論する意味無いだろって思う方もおられることでしょう。

でも、それこそお花畑じゃないですか?
それぞれにはそれぞれ、譲れない信念や考え方が存在している。
互いに、それを曲げるつもりはない。
そんな状況で、一方的に相手の意見だけを変えるのなんて無理です。
自分がやりたくないことは、相手もやりたくはありません。

対話というものを現実的に考えた時、まずは対話によって実現不可能なことについては、潔く諦めるに限るのです。

自分も考え方を変えなくていい

相手が意見を変えなくてもいいということは、当然、自分も意見を変える必要が無いということです。
公平に考えたら、必然的にそうなりますよね。
そう考えると、少し気分が楽になりませんか?

議論というものは、常に自身のアイデンティティが否定される危険性を帯びています。

もちろん、仮に勝つことができれば相手のアイデンティティを否定することもできるのでしょうが、そんなことをしたところで、自分自身のアイデンティティが補強されるわけでもありません。
むしろ、相手に憎しみや禍根を残すばかりで、あとあとのことを考えてもあまりよろしくは無いのではないかと思います。

そんな状態では、議論をやろうだなんて多くの人は思えません。
双方共に考え方を譲る必要はないという前提ならば、少しは対話を行いやすいのではないかと思います。

知識を前提としない対話が望ましい

また私含めて、多くの人は個別具体的な議論をできるほど知識に精通しているわけではありません。
当然、突き詰めて考えた時に、知識は必要になると思います。
しかし、人間が全ての知識を網羅できるわけでもありません。

人間には限界があります。
時間に限りもあれば、使えるお金にも上限があります。
そんな中では、議論に最低限必要な知識でさえ、確保することは難しいのです。

もっと簡単で良いんじゃないか?

先述の通り、議論には多くの知識が必要です。
もちろん、仕事などにおいては業務の遂行のために、知識を身に着けることはあるでしょうし、知識に基づいた議論と意思決定が欠かせません。

しかし、私の言う対話とは、そういった議論のことを指し示しません。
いわば日常的に、生活や身の回りに関することや、自らの率直な思いを話し合うことが大切だと思っています。


ネット議論において「ソースは?」とか「データは?」とか「それってあなたの感想ですよね?」というようなやり取りがなされる場合もありますが、我々は仕事でやっているわけでもありませんし、職業政治家や官僚として、国策の決定の実務に関する議論を行っているわけでもないのです。

もちろん、事実を適示する際には根拠の提示が必要です。
ただ、一般人が議論を行う際に、果たしてそこまでの粒度のやり取りが必要なのかと、私は率直に思います。

もちろん、そういった個別具体的な観点が必要な場合もあると思いますし、そういった知識は社会や公共において正しく生かされる必要があると考えますが、先述の通り、多くの人にはそういったやり取りを行えるだけの知識が無いわけですから、広く一般庶民が行う議論としては非常に敷居が高いものであることもまた確かです。

熱意の問題

興味関心という要素も重要です。
そもそも、いくら時間があったとしても、そういった知識について興味を持てる人間ばかりでもありません。

特に政治についての議論を行う際には、より網羅的な専門知識を要することとなりますが、その広範な分野における知識の収集が苦にならないような人ばかりではないのです。

人間には向き不向きや相性があります。
知識を身に着けるというときに、その点に対して熱意を持って取り組める人は問題ないかもしれません。
しかし多くの人は、それだけの熱意を持ち得ていません。

政治家の言うことを鵜呑みにして良い

政治の話にはなりますが、政治家の主張の中身を考慮せず、見た目や印象だけで判断することは、一般的に良いことだとは思われていません。
私も以前、同様の記事を書きましたが、その考え方自体は変わりません。

しかしながら、果たして本当にそうなのかとも思います。
そういった人々にとっては、政治への参加=政策の探求ではないのです。
ある意味、政治家のアイドル性というフィルターに基づいて政治に参加しているとも言えます。

いやいや、「そんな人ばかりだと政治が腐敗してしまうじゃないか」という見方もあると思います。
確かに、一人の政治家の言うことばかりを鵜呑みにする状態は大変危険です。
いわゆるエコーチェンバーであるとか、信者と呼ばれる状態になってしまったりとか、そういった悪面も存在しています。
しかし私は、それで良いんじゃないかと思います。

専門家が持つ知見へのリスペクトは重要

なぜ、エコーチェンバーというものが起きてしまうのでしょうか。
答えは簡単です。一人の政治家の意見ばかりを鵜呑みにするからです。
「いやいや、そんなの当たり前じゃないか」という考え方もできるとは思います。
でも、よく考えてみてください。

政治家はその道のプロである

政治家はそれなりに、知識や知見を持っているわけです。
そう考えた時に、彼らは部分的には正しいことを言っているはずであり、その全てが間違っているわけでもありません。

あくまでも、特定の政治家の情報源に依存することによって、視点が欠落する場合もあるというだけの話です。

政治家は職業政治家です。仕事で政治家をやっているわけです。知識やファクトを日々積み上げていくのがその仕事であるわけなので、概ね、完全に間違えるということもありません。

餅は餅屋とも言います。いわば知識を持たない素人である我々が、専門家である政治家の言うことを鵜呑みにして、何が悪いというのでしょうか?

全ての専門家の意見を聞く

政治家がそれぞれ、自らの知見や専門分野で話をしている以上は、それを鵜呑みにするという選択は必ずしも間違いだとは言えません。

ただし先述のように、特定の政治家に情報源を依存してしまうと、様々な弊害を生じさせてしまうのです。

アマゾンで買い物をするときにしても、一つのレビューだけを参考にするということは無いと思います。
様々、多角的なレビューを踏まえた上で、購入に踏み切るか、購入を止めるのか、そういった選択を行うと思います。

それを政治という分野にも当てはめたら良いだけです。

専門家ばかりでは公共性のある議論は成り立たない

Twitter(頑なにXとは呼ばない)にはスペースという機能が存在し、ホスト、スピーカー、リスナーという立場に分かれて、日々、様々な議論が行われています。

ホストやスピーカーの役割を担う人は、相当度胸があると思います。
求められる知識の量は半端ではありませんし、コミュニケーションの高度な能力も求められます。

そういった意味で、私はホストやスピーカーをできる人に対してリスペクトを持っていますが、スペースの参加者の大半はリスナーなのです。

ホストやスピーカーに上がれるだけの人物は、いわばスペシャリストです。いや、専門家です。
様々な専門家の意見が上がる中で、リスナーはそれぞれ、自身の考えの参考とするわけです。

議論とは、単にスピーカー同士で行うものではなく、リスナー含めて、考え方の整理をするという意味も含めて議論と言えるのではないかと思います。

専門家同士の議論は非常に重要ながらも、より重要なのは、多数派を占めるリスナーが、様々な専門家の意見を元に自身の考えをアップデートしてゆくことなのです。

リスナーという存在なしにはスペースにおける議論は完全な形を成しているとは言えないし、公共性があるやり取りとも言えないのです。
声なき声、専門家ではない人々の思考を喚起するというプロセスが、非常に重要なのではないかと思います。

全ての党派性を尊重する

これまでの話をまとめると、全ての党派性を尊重しようということです。
なんだかんだ、政治家やスピーカーの専門的な知識を聞いたところで、その全てを正確に理解することはとても難しいと思います。
ですが、それで良いのです。

党派性の可能性

「この政治家は〇〇党だから支持している、このスピーカーは同じ党の支持者だから支持している」

こんな感じで良いのです。
しかしこれは党派性とも言えます。論理の正確さではなく、党派という尺度で物事を見るという意味においては、必ずしも正確な理解を行うことは難しいと思います。

しかし、自身の党派性は党派性として大事にするとして、自身の党派ではない専門家の意見を謙虚に取り入れることができれば話は違います。

結果的にフラットになればいい

例え自分の主義主張は曲げないにしても、その他の党派の考え方が頭に入ってくることにより、結果的にはモノの見え方がフラットになってゆきます。
こういった在り方ならば、知識を前提とせずとも、それなりに考えは熟成されてゆくのではないかと思います。

勿論、政策という共通言語を用いて、相互理解を試みるという道もあると思います。
ただ私としては、この党派性という共通言語を用いて対話に臨み、この世界を捉えていきたいと考えています。

以上、私の考えとなります。最後までお読みいただきましてありがとうございました。

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