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♯1 映像の話をしよう 

第一回は映像業界を概観して、最近つくづく映像という趣味がいかに継続しにくいかについて本音を交えて明かそうと思う。

世の中に蔓延る映像

時代の移りは激しく、数十年前までメディアの主流であった紙は最近では見かけること自体が稀有だ。DX(デジタルトランスフォーメーション)が社会で叫ばれるなか、今後もこの流れは加速していくだろう。

では何に置き換わったのだろうか。

言わずももがらだがそれこそ写真や映像である。人によっては写真より映像の方が普段の生活で接する機会が多いだろう。映像はテクノロジーの発達や映像業界の成熟に伴い、社会においてさまざまな役割を担うようになった。たとえば、情報を効果的に伝えられるデジタルサイネージ広告、イベントに華を添える環境づくり、思い出を綺麗な形で残す自己表現手段などと今までにない形で映像が活かされている。

映像制作を継続することの難しさ

映像を継続することの難しさは「三大続かない原因」が含まれているためだと個人的には思う。お金がかかる、時間がかかる、仲間が少ない。

この点には少なからず共感してくれる人がいてくれると信じている。映像を上手くなろうものならお金をかけろと言わんばかりに機材が必要になってくる。

照明、三脚、レンズ、フィルター、カメラ、ハイスペックパソコンなにからなにまでお金をかければかけるほど質は無条件に良くなる。時間がかかるは撮影に出かけるにしても、編集をするにしても数時間では終わらない。撮影に出かけるために準備をして、地方まで車移動して、同じカットを繰り返し撮ったりする。結局1日潰れてしまう。編集も同様だ。こだわろうと思えばいくらでも時間をかけられるのが編集であり、編集に区切りをつけるのも、終わらせるために質の高さに妥協するのも自分自身である。最後に仲間が少ない点だ。趣味で映像を作っている誰もが抱く共通の悩みであり、最も継続を困難にさせる原因と言っても過言ではない。

you wake me wanna be a better man

『恋愛小説家』

 習慣づくりにおいて仲間の存在は重要な意味をもつ。人の目をうまく使えば、向上心をあげらられる。映像の仲間の作りづらさを伝えるために音楽という趣味と比較して考える。音楽と映像の共通点は次のような点だ。

  • 仲間でも、個人でも「作品」を作りあげられる

  • 人を感動させたり、価値観を揺さぶったりできる

  • 参入障壁が低い

  • 商業用の音楽・映像もあれば、自己表現としての音楽・映像もある


されど映像と音楽には決定的な違いがあり、それは目的が千差万別であり自主制作が通例化しているという点だ。
 使うソフトが違えば話が噛みわなかったり、作る映像のジャンルが違うと制作スタイルも違ってきたりする。映像が築いてきた共通のカルチャーは映画であるが、「映像」クリエイターの誰しもが映画を嗜んでるわけではない。大衆映画だけしか見ない人もいる。ともなるとそもそも映像というひろい括りではコミュニティ形成は困難を極めるのだ。私の学校には学校には映像部・映像同好会なるものは実在しなかった。写真同好会は卒業後にできたらしいが、映像部・映像同好会は依然として生まれていない。そのような部活や同好会がある学校は恵まれていると思う。一方で、音楽についていえば学校でフォクソン部がない学校があるだろうか。音楽は誰もが聞くし、共通のカルチャーに対してある程度知識を持っていて話題にはなるだろう。そして練習する目的は決まっている。ライブで友達や音楽好きに対して思いっきり演奏することだ。大抵の場合、人前で演奏して聞いてもらうことこそ第一目的である。


 自主制作は趣味の映像制作において「普通」である。趣味の映像制作は自主制作が一般的でチームを組んで毎回映像を作るという機会がyoutuber以外では殆どない。映像は一人でもなんとか作れちゃうのがミソである。誰か組もうとか、一緒に作ろうとか、そういう思考が失われてしまうので習慣化の観点からした悪である。サークルやコミュニティに属さない映像クリエイターは孤独であり、何事も自分からアクションしていかないと一向にうまくなれない。その意味で本当に秀逸な作品を作り上げられるのはコミュニティの力を借りずにコツコツと努力できる孤独な人だったりする。ただ孤独すぎても、モーショングラフィックやCGではなくて実写の映像作品は人の力なしではいいものは作れない。アシスタント、演者、美術スタッフといった協力者がいてこそ実写の映像作品は魅力的になる。我々のような「普通の人」はコミュニティの力を借りるのが続ける上で一番だ。もちろんコミュニティで受動的になれというのでなく、積極的に人を巻き込む存在になればそれが理想である。もし動けないタイプならひとまず受動的でもいいから誰かが撮影仲間を募集してたら行くだけでもいい。徐々に自ら動けるようになればいい話だ。逆に音楽はバンドを組むとなると必ずグループでの活動を半強制的に強いられる。これこそ人が成長する瞬間だ。社会的生物である我々は人に迷惑をかけたくない一心から必死でスタジオ、ライブ演奏をする日を目安に楽譜を覚えて弾けるようになるまで練習する。さらにバンドが習慣化のしくみが完璧なのは演奏日が決められ、グループでスタジオを借りて練習を重ねて、舞台の上にたち全力で楽器を弾いたり歌を歌い、人を喜ばせたり楽しませられて、達成感をみにしみて感じて、次も頑張ろうと思える一貫したサイクルが自然と成立しているためだ。肌感だが高校や中学でバンドを始めた人はずっと続けてるイメージがある。

どうすればよいか

このように長々と継続の困難さを論理立てて説明してきたが、何よりも映像を続ける上で大切なのは目的意識だと思う。目的意識という単純すぎる言葉で表してしまって申し訳ない気持ちはある。自分は人に役立ちたいから作る。Vlogerは自己表現をする手段というかもしれないし、情報発信者は誰かの生活をよくしたいと思うかもしれない。

目的意識は何にせよ、人に影響を与えたいという心意気は持っておくべき

正直、目的のない映像は無意味だと辛辣だが思う。自己完結している映像を作り続けても面白みがない。自分も無意味な動画を過去に作ってきた意識はあるので人にアドバイスする立場でないが今では心からそう思う。意図通り影響を与えられるような映像こそ正義だ。




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