蔵書家の最終形態(?)
川口市出身の自称読書家 川口竜也です!
蔵書家というわけではないが、本は自分の所有物として残しておきたいタイプ。捨てられずに本棚に並んでいる本が沢山ある。
暇だから頻繁に神保町に行くと語ると、大抵はやっぱり古本や古書を探しているんですかと問われるが、何か特定の古書を探しているという気持ちはほとんどない。
むしろ、本であれば基本なんでも良い性格。初版を集めているのだとか、状態の良いものを優先しているとか、そういう基準はない。強いて言えば、読んだことのないジュール・ヴェルヌの作品を探すくらい。
でも世の中には、自分の蔵書は自らの所有物だと誇示する方法もあるそうだ。
例えば、玉川重機さんの「草子ブックガイド」を読んだ際に、自分の所蔵本であることを示すために「蔵書票」という物がある事を知る。他にも図書館のように「蔵書印」を押すこともある。
だが、今読んでいるヘルマン・ヘッセの「ヘッセの読書術」草思社によると、もっと自分の本だという証にしたいのならば、装幀まで自分の希望にしてしまおうと言う。
蔵書家もそこまで行くと、天晴としか言いようがない。流石にここまでするのはどうかとも思うけれども、全く憧れないこともない。
無論、私の本棚は、他ならぬ私だけが作り上げた本棚ではあるけれども、仮に1冊他の人の本と差し替えられたとしても、おそらく気が付かないかもしれない。
それが余程思い入れのある本だとか、書き込みばかりの本だったとかなら分かるだろうけれども、一度読んだくらいの本だったら、表紙を見ただけでは気づかないだろう。
蔵書票や蔵書印がついていなかったらいなかったで、付け忘れたんだろうとも思ってしまうだろう。仮に差し替えられてもまた付ければいいだろうってなるかも。
だが、装幀まで自ら施した蔵書ならば、この本は他ならぬ私の本だと見せつけられる。きっと差し替えようとした人も、恐れをなして逃げ帰るのでなかろうか。
とは言え、ここまでくると、本当に蔵書家の最終形態とも言えるのではないかとも言える。
それが非常に希少な書籍だとしたら、「そのままの状態」であることを望む古書の世界において、自らの所有物という証にすべく裁断することになるだから。
いやはや、そこまで価値のある本は持っていないにしても、そういう蔵書の方法も憧れるなってお話。それではまた次回!
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