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「怖い」も大切な感情の一つ~言葉に出せるありがたさを知って~

 耳から受け取る情報量が多すぎるみたい。
 何でもかんでも聞こえてしまって大変、てわけではない。絶対音感があるわけでも、優れた聞き分けができるわけでもない。

 音で何かを表現された時に、どうやら一般的に何かを感じる分の何倍かを感じ取っているみたいだ。視覚的なものももちろんあって、多分耐えられるボーダーラインが低い。すぐに怖がってしまう。だけど音からもらう情報は、それ以上。
 映画を観ていて気づいたのだ。
 緊迫感や耐えられない恐怖心は、音から感じ取っているんだなと。

 そう考えると、ヴァイオリンの音を聴けば泣いていた幼少期も説明がつく。物心ついた頃、5歳くらいから、母がヴァイオリンを弾くと、泣けて仕方なかった。
 なんて悲しげな音色。と廊下まで聴きに出て、わざわざ泣きに行っていたのはよく覚えている。
 でも本当は物心つかない頃から、ヴァイオリンの音を聴くと、私は泣いていたとだいぶ後から聞いた。母がヴァイオリンを私に教えるのを早々に断念する決め手となったそうだ。

 やたらにピアノの音が好きだったのも。鈴の音色が好きで鈴を何百個と集めていたのも。自然の中の野鳥の鳴き声が大好きで、清涼感から全身が伸びやかになっていく感覚を味わえるのも。
 全部耳からの感受性のおかげかもしれない。
 
 そしてそのために、大きな音や人の声にびっくりして怖がってしまう。今も。
 風の音や雷の音も耐えられる程度だけど今も怖い。幼い頃は強い風が吹くと大泣きしていた。雷が鳴ると母の太ももにしがみついて離れないようにしていた。
 花火は「怖いの?」と周りにからかわれるから、我慢したし、我慢できる範囲だったのだろう。でも毎回動悸が激しくなり、緊迫感にヘトヘトになったものだった。大人になるにつれ、少しだけ耐えるようにしてその光の美しさに集中するよう工夫する。


 怖がる私を親戚や兄は幼少期によくからかった。わざともっと怖がらせたり、そんなのも怖いのかとバカにしたり、可愛い自分を演じてるんじゃねーよと軽蔑したりしてきた。
 だから必死で「怖くない」と言い聞かせるようにして耐えていた。
 20歳頃になると周りも大人になり、私の表情を見て「怖いよね」と一緒になって言ってくれたけど、できるだけ我慢して「ウン」と言う程度にとどめていた。

 だけど「怖い」だって、悲しいとか嬉しいとかと同じように、自分の内側で起きる感情なんだ。否定するように言い聞かせたって消えるものではない。消えないと、自分の感情を否定する気持ちばかりが膨らんでいってしまう。

***

 夫は、怖がる私を軽蔑もからかいもしなければ、可愛い女の子ぶっているとも思わないでいてくれた。

 暗闇も今はだいぶマシになったけど、以前は今より強い恐怖心があった。特別に守るとか優しくするとかもないけど、ただそんな私を受け入れてくれていた。若い頃は私が変に汗ばんで冷えた手を差し出すから握り返してくれたものだ。
 少しずつ「怖い」を受け入れてもらえているんだと安心し始め。

 今は、この感情を受け入れてもらえるのかなんて心配しなくて良い。「怖い!」「怖いからいやだ」と声に出して言えるようになった。

 もう全然遠慮もない。

 映画を家で観ている時。音響を聞きながら怖いシーンの演出を感じ始めると、目をつぶったり、耳をふさいだり、画面上を手で隠すようにしたりできる。
 怪談話なんかがテレビ番組で始まると、両手で耳をふさいだり外したりパカパカして聞こえなくする。ずっとふさいでいると意外と聞こえてくるのだ。
 パカパカしながら、夫や、息子がいれば息子の表情を見る。表情を見ながら話が終わった頃かなと思うと「終わった?」と聞く。
 「終わった、終わった」と言われたら、パカパカを終えてまた画面を見る。

 それで何か言われるわけでもない。
 「怖かったの?」とか「怖がりだねー」なんて指摘されない。
 笑われもしないし軽蔑もされない。
 せっかくのシーンや言葉が台無しだろうに、責められない。

 受け入れられてるって素直になれる。なんてラクなの!

 怖いって子供っぽいとかじゃないんだ。ただの「負の感情」の一つ。
 敏感な部分は、きっと感情豊かな体験をしていくための宝。大切な部分。良くない部分と否定したら、変えられない自分に対して苦しくなってしまう。自然と受け入れてくれる人が周りにいると良い。


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読んでいただいて、ありがとうございます! 心に残る記事をまた書きたいです。