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私が「書いた」文章を、あなたは「聞く」ことになる

 文章が独りよがりになる時、そこには「書いたものは聞かれている」という視点が足りていない。

 即ち自分が「書いた」言葉というのは、他人には「聞こえて」いるのだ。とかく現代では「書く」ことがとても多くなり、それに応じて良いことも悪いことも頻繁に起きている。その中で、トラブルになるのは意味のすれ違いだ。つまりそれは、自分で「書いた」ことが他人にはちゃんと「聞こえて」いないということを示すのである。
 なぜならば、私達は今や、書くことに夢中だからだ。そして、書いたものが他人には「読まれる」ばかりだと勘違いしているからでもある。
 言葉とは半分音である。私達はほとんどの場合、言葉に含まれる音を聞いていないことはない。必ずその音を耳で経験している。だから本来、「書く」ことは「喋る」ことと相互関係にあって、ならば「読む」ことは「聞く」ことと密接に繫がっている。

 それゆえに、書かれた言葉は聞かれるのだ。もちろん、読んではいる。自分の言葉を他人は読んでいる。でもそれは聞かれてもいる。なぜなら、自分以外の存在が作り出した言葉、文章、意味について、普通は初めて触れることになるからだ。その人が何を意味しようとしているかどうか、予めわかるのは難しい。だからその、初めて出会う「意味」に対して、私達は少しでも当たり前に、いつものように情報を手に入れようと「聞く」のである。文字を。文章を。

 もちろん、その声は1人1人の内心のものであり、ほとんど抑揚とか感情とかがこもっているわけではない。だがあくまで音として文字列は理解されるのだということを、「書く」私達は知るべきだろう。
 そうでなければ本当の意味で、その言葉は他人に届けるものではなくなってしまう。他人に聞かれることを前提としないということは、客観的に正しいかどうかではなく、単に自分の想いをただ形にしただけだからだ。
 伝わるかを考慮しない。それは、音として聞かれているということを意識しないということだ。
 それが嫌ならば、文章は「読む時に音になっている」ことを理解し、「声として書かれる」ことが望ましい。口語という意味では必ずしもない。しかし文字で書いたものは、他人に受け取られる時にはただ「書かれた」わけではなく、「読まれる」=「声として聞こえている」ものになるということ、そしてそれを意識することがまさに、きちんと受け取られ方を考慮して文章を紡ぐことであるというのを、私達は知るべきである。
 この、文章化が当たり前になった時代に。

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