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自らの責める声のせいで先延ばし癖に嫌になる

 人間としての本能が、人に先延ばしをさせる。「先延ばし癖」はよくある悩みとして取り上げられることがあるが、それは癖ではなく実は誰にもある人間的な性質である。
 どんな人間でも先延ばす。それをしない人は普通いない。もし人生の中でそれをしないでいられている人は、よほど運が良いか環境に恵まれているかのどちらかである。

 なんにせよ、だから、先延ばし癖があることは何も悪いことではなく、重要なのはその程度や頻度である。誰でも先延ばしてしまうのだから、そうしてしまうことが「怠けだ」とか「面倒くさがりだ」とか、ましてや「人として良くない」などと思い詰めるのは間違っている。
 先延ばし癖は他人を非難する理由にもなり、確かに、そのせいで他人に迷惑をかけることがあるのだから、言われても仕方がないかもしれない。でも、事実、「先延ばす」のはお互い様のことなのである。そのことを、私達はそれぞれ自覚せねばならない。
 多かれ少なかれ、全ての人間が先延ばすのだ。そうして、不利益が生じた場合に、たまたま先延ばす事情のなかった人が肩代わりをする。即ち人間とは、誰かが先延ばすことを前提として社会を営み、歴史を作り、今日まで生きてきたわけだ。

 それでも、先延ばすことに負い目を感じる気持ちが生じるのは、もちろん、やるべきことをやるべき時にやれなかったという機会損失があるからである。口惜しさ。もしくは、なんの障害もないのにただ自分の事情で物事を処理できなかったことで、自らの能力を卑下する心。
 私達がよく「悩み」として持っている先延ばしへの負い目は、誰かに迷惑をかけるからではなく、自分自身への失望が大きな理由である。
 そんな簡単なこともできないのか、という失望が、まさに先延ばしへのネガティブなイメージを増長させる。

 それゆえに私達は、先延ばしを怖がっている。過度に。なんなら、やってみて失敗することよりも、先延ばしにすることをこそ怖がっている。それでいて誰も、先延ばしを確実に回避することができない。自分に与えられたどのような物事も、予めやっておける人間など、本当にどこにも存在しないはずだ。
 だから私達は先延ばしを本能として、歴史の中に組み込んでいるくらいなのだ。
 もし、過度にそれを気にして嫌になるくらいなら、先延ばしなど誰にでもあることなのだとまず、思っておくべきだ。そのある種の開き直りが、心へのプレッシャーを軽くする。
 そして、そのプレッシャーは、他人への負い目よりも、自分自身の責める声、失望、残念な気持ちによって生じていることに、向き合うのがよい。先延ばしなど究極的には自分だけの問題なのであり、他人の目などその次に気にする問題でしかない。そのように思っておくのだ。
 現実的に他者に迷惑をかけることもある先延ばし癖だけに、私達はそれを周囲からの目をこそ気にしてしまいがちである。だがそれでは本当の意味で、先延ばし癖に相対することにはならない。
 重要なのはまさにそれが自分自身の、人間の、本能からくるものなのだと、きちんと逃げずに見つめて意識することだ。

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