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「いい子」だと損をするけど、「悪い子」でも言うほど得をしない

 この世には2つしかない。よい子か悪い子かだ。それは子供も大人も関係なく、必ずどちらかに振り分けられ、レッテルを貼られるものだ。
 よい子は大抵、他人に従うのが得意であり、目立つのを嫌い、そして進んで行動をするわけではない。
 悪い子は大抵、その反対だ。自我を出し、目立ち、物事を前へと進めるエネルギーがある。
 
 そうなると目立つことが正義の世の中で、悪い子は躍進する。
 悪い子と言いつつ、それは別にいいことなのだ。だって、この混迷を極める世にあって、とにかく何かを決めて1つにして推し進めることができるのだから。
 迷っている人々はそれについていけばいい。それこそよい子達が。

 よい子も悪い子も同じ人間だから、価値が違うということはない。でも、よい子であることはどうしても、そうでないことよりも損をしてしまう。
 それは受け身だからであり、従うばかりだからであり、目立たないからだ。そして「そういうものだ」と思われているからに他ならない。
 ということは、よい子よりも悪い子であることが、求められている世の中において有利だと思えてくる。
 私たちはどちらかにしかなれない。ならばせめて、損をしない方についていようと思うのは当然だ。

 そうしてよい子は、よい子だけど、よい印象は持たれなくなっていく。「よい」というだけではよくなれない。
 適度に悪くなければ。悪いというのは「悪い」という本当の意味ではなくて、たとえば「お人好しじゃない」とか「ずる賢い」とか、少なくとも肯定できる悪さだ。
 そういうのは、とてもよさそうに思える。「よい子」ではなんだか、世の中を渡っていけないような気になってくる。
 だから悪い子は求められるのだし、その価値観は私たちをよい子から遠ざけていく。

 しかし、見逃してはならないのは、「よい」も「悪い」もこの世の中というもので「役立つ人間」である価値観でしかないことである。
 それはどこまでいっても他者のためであり、いうなれば歯車であり、自己実現ではない。
 思い通りにはならない。自分がやりたいとおもっているはずのことですら、本当にそうなのか、社会や風潮に影響されているのかわからないはずだ。
 私たちは確かに「よい子だと損をする」ことに納得はできる。でもその損を疑うことはどうしてできないのか。
 損をすることを受け入れ、なるべくならそうならないように立ち回ることは、結局はその仕組みに従わざるをえないことに他ならない。
 私たちはこうして、知らず知らずの内に自らの意思を失っていく。

 つまり、「この世には2つしかない」というのが嘘なのである。
 よい子か悪い子かという価値観はわかりやすいが、それは幻かもしれない。
 真に自らのために生きることというのは、そういった前提を疑うことから始まる。
 価値観とは外ではなく内にもあるのだ。
 誰かが決めたこと以外に、自分が決めたこともある。個人と社会の大きさを比べた時に、なぜ必然的に社会が大きいものだと私たちは思ってしまうのか。

 そう思ってしまうのは、つまり、私たちは誰しもが「よい子」になってしまっている証拠である。
 何かに従い、自分以外の価値観を当然と思ってしまうのが、私たちのよい子精神だ。
 その精神を保ったままでは、結局よい子も悪い子も、大して変わらないと言えるだろう。

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