見出し画像

クリエイティブのランダム性に心惹かれる

 この世を模倣すること。また、参考にして創造すること。そうして私達を楽しませたり、感銘を与えたりしてくれる「クリエィティブ」とは、あまりにも幅広くて自由な世界だ。どういった手段であっても、創造性はひたすらに自由だと、誰もが印象深く思っている。社会的には、それを公にしたり、代わりに金銭を徴収するといった場合にのみ制限がかかるが、実際、言ってしまえばそれだけである。
 だから私達はいつでも、自分自身の持つこの創造性を働かせる余地があることを羨む。そしてないことを嘆く。それくらい、クリエィティブとは自在であり、あらゆる可能性が広がっており、そして許される限りそれを表現できて、素晴らしいことなのだと信じられている。
 自分の見聞きしているこの世界、常識、感情、正義、目的……そういったものを表現として他者と共有できる。それができるのは、この類まれなる創造力のおかげである。

 だが、唯一の、本当にたった1つの例外だけが、この創造的な世界から距離をおいている。それは共有できないし、模倣も難しい。そして最初からそれを組み立てることは、そう簡単にはできない。

 それはつまるところ、「ランダム性」である。ランダムな事象。こちらの操作や状況などにかかわらず、とにかくその独自ルールによる選定された結果が、その全てだ。
 ランダムな事象というのは、自然界には大小様々あふれている。むしろこの世のあらゆるふるまいは、不確定な何らかの法則によって、複雑な軌道を進む。目の前のものが1秒後にどうなるかは、言ってみればその世界全てのランダムな何かが作用して決まる。それは厳密に言えば全て決まっているが、私達が認知できる限りにおいてそれは「偶発的」でしかない
 だからこの世界はランダムのかたまりだ。どこまでも。先のことは分からないし、分かったとしても正しいかどうか定かではない。

 そんな「現実におけるランダム性」を私達は模倣しきないし、参考にしようとしても限界がある。わからないのだから、そうしようがない。そして無理矢理に創造しようとしても、それはどこかでほころびが出る──必ず、何かが決まってしまう。予定調和になる。法則性ができてしまう。なぜなら私達は人間だからだ。この世界に住まう1つの存在。この世界そのものではなく。
 そのため、ランダム性はこの私達の憧れる「創造された世界」には存在し得ない要素であると言える。言い換えれば、ランダムは創造できない。クリエイティブなランダムは存在しない。それは、常に、ランダムそのものにのみ属している。

 だからこそ私達は、偶発的に想像の世界に織り込まれるランダム性に、心惹かれるのである。

※このテーマに関する、ご意見・ご感想はなんなりとどうぞ

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?