億ある解釈でリアルがフィクションになって

 解釈でできているのはフィクションの世界ばかりではなく、リアルの世界もまたそうである。なぜなら解釈とは人間の数だけあり、そして私達の世界は人間でできている。その行動や考え方が何かを生み出し、時間が経って歴史となり、そして現在未来へと繋がっていく。
 つまりそれらは解釈でできており、それ自体もまた解釈によって理解される。そのような、世界の定義とも言えるべき解釈はしかし、人の数だけある。
 だから、それはいつも同じではない。粘土細工のように簡単に形が変わるものである。そして解釈が変わるのはあまりにも簡単である。そう考えるとこの現実の世界は実際には「こうだ」と言える確固たるものはなくて、とても定まりようのない曖昧なものだとわかる。
 それを受け入れられるかは重要であり、何も決まったものはないのだという余裕が、心に安寧をもたらすこともある。
 どちらにせよ、人それぞれの解釈次第の世界の中で、しかし、よって立つ確固たるものを求めて私達は生きている。安定は安心だからだ。そしてこの世が解釈次第だとわかっているからこそ、私達は不安を感じて定義を求めるのである。
 あらゆる解釈をひとまとめにして。あらゆる考え、あらゆる人々を一個にして、単純な構造を見ることによって安堵する。
 だが、解釈を無視し、まとめ上げられたものを見て真実だと思うのは、それこそフィクションと言えるのではないだろうか。

※このテーマに関する、ご意見・ご感想はなんなりとどうぞ

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?