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「最高」「最良」を目指しても私達は挫折する

 老後を楽しくすごす。笑顔で死ぬために。明るい未来のために。模範となる大人になる。悔いのない人生を送る。良識ある社会人としてふるまう。海外留学を目指して勉強と貯金をする。良い会社に入る。高学歴となるために勉強に励む。
 私達はいつも、そんな様々な最良のものに囲まれて生活している。囲まれているとは実際にあるという意味ではなく、実際にあるということを知らされているという意味だ。近所の海では到底お目にかかれないような、夏の日差しと透き通った海を前に寝そべる美男美女も、広い豪邸の悠々自適な暮らしも、苦しい時に必ず助けてくれるハイスペックな仲間たちも、私達の生活そのものにはいないが、「どこかにいる」。そしてそれを「目指すことが当然だ」と強く強く語られる。

 この、「最良主義」とも呼べる言説とイメージは、私達の生活に根付き、そしてその判断に影響を与えている。なにせ子供の頃から、私達は「理想」を見せられる。いやむしろ、歳が若いからこそそれを言って聞かせるにはちょうど良いと思われているのかもしれない。私達はこの「最良」を刷り込まれ、今から人生をかけてそれを目指すことを当然のように促される。途中で下りることは悪だし、結果にならないことも悪だ。
 人間の可能性は無限大だと、誰が言ったかも分からないような言葉が「当たり前のもの」としてまかり通っているのもこれである。実際の可能性は有限だ。そしてそれは、けして悪いことではない。むしろ、無責任に無限大だとすることこそ、私達の人生を一生迷わせるような悪辣さが感じられる。その他の理想論にしても、大抵は無責任に、人間の可能性を広げている。
 それらを、私達人間はどうしても選ぶべきものだと考えてしまう。少なくとも挑戦くらいはすべきだと。別にその気にさせた失敗を、引き受けてくれる約束もしていないというのに。

 このように、最良主義に反対する場合、それは「冷笑主義」となるだろう。冷笑はつまり、人々が真剣にやっていることに対して、横からバカバカしいと水を差すことだ。それはつまらない生き方である。私達は理想を目指すから成長してきたのであり、困難を乗り越えることもできた。そのことに関して、冷笑を差し挟む余地などないだろう。
 だが、私達が最良を、無条件に良いものだと考えてしまっていること、その思想、そのイメージについては、いい加減冷笑しなければならないくらいに幅を利かせすぎているのだ。それは、あまりにも私達の選択肢を奪っている。その極まった「最良」に指一本でも掛けられなければ、どこか「残念だったね」と肩を叩かれすらするようなイメージに、私達の社会は包まれている。もちろん、別につまはじきにされたりはしないのだ。現代は差別がどんどんなくなっているし、多様性も尊重されている。だからどんな生き方でも許容される。けれどそれは、そうであるだけとも言える。
 結局、私達の理想は「最良」であることに変わりはない。それ以外はベターな選択肢でしかなく、できればベストを目指せていればという焦りは、むしろ水面下で加速している。
 結果、私達は挫折する。ベターな生き方を受け入れてもらっている裏で、自分でも納得していると思う裏で、どこか、最良を諦めた自分に絶望している。疲れている。

「最高」「や「最良」は際限がない。だから実際、それは目指す者達を、必ずどこかで挫折させるようにできている。日々の生活の中で喧伝されるあらゆる理想は、本当に、理想でしかない。それは現実ではない。しかし私達は、それを現実に目指すべきものかのように思い込まされ、必ず、どこかで挫折する。
 それでも挑むというのが、人間の良いところなのか、それとも悪癖なのか。少なくとも傷つかないために、私達は他から借りてきたものではなく、自分自身のための「最良」をしっかりと持ち、納得することが、まず持って必要である。

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