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乱造乱造乱造→宝石を拾う

 クリエイティブな試みというのは乱造の積み重ねの上に成り立っている。それはまごうことなき真実であるが、そのこと自体はいたって当然で、周知の事実だ。
 この場合の乱造とは悪いものとしての行為が、良いものになるという意味で使われている。乱造は読んで字のごとく、確かに粗悪品を量産する悪い行為かのように見える。しかし、乱造は私たちに良い影響を与えてくれることもある。そのことによって、私たちは粗悪品の山の中から唯一の宝石を拾うことも可能になるのだ。

 「乱造」という一見したところ良くない行為によって、私たちがクリエイティブ的に得られるものは、実はない。その代わりに、失うものが3つある。

 ・繰り返すことへの抵抗感
 ・扱うテーマに対する飽き
 ・自分への甘え

 乱造は、どうあってもほぼ粗悪品を生み出す行為であるが故に、それそのものが生産的であることは稀だ。すると、必然的にクリエイティブを意味ある行為に昇華させるために、私たちはこれを繰り返すことをやめられなくなる
 すると、繰り返し相対する自分の中にあるテーマ群を、強制的に様々な角度から見直さざるを得ない。そうしなければ乱造は続けられないからだ。そこで、私たちはそれぞれのクリエイティブに値するテーマについて、一元的な見方を捨て、多種多様な着想を得ることが可能となる。即ち、飽きが来なくなる。
 いつしか、このような乱造行為を繰り返し、飽きを忘れた頃には、最初は無意味にも思えたこの行為を、なお続けていこうと思えるようになる。それは時にはつらいかもしれないし、無気力感にさいなまれることも、意味を見失うこともある。乱造は、それそのものでは何も生み出さないからだ(意味あると思えるようなものを)。しかし、あなたはそれを続けられる。なぜなら甘えが消えるからだ。もうやめようとか、少し休もうとか、今は気分が乗らないとか、そういった怠惰は、乱造行為の果てには雲散霧消する。心が鍛えられたということもあるし、ある種、乱造が日常化することで心に負荷がかからなくなってくるというのもあるだろう。なんにせよ、ここにきて乱造行為はあなたの身体の一部である、武器となった。

 こういった3つの、いわば正常な人間の持ち得る心の特性を失うことこそ、乱造のメリットと言える。その状態において、乱造は当たり前、日常の一部となっているが、まだ、あなたは新たな行為を行わなければならない。
 それは、租税乱造されたあらゆるクリエイティブの中から、”本物” を見つけ出すことである。即ち、乱造はただ生み出すだけなのだ。一見したところ、無意味なクリエイティブを。しかしその中には、評価に値するものが眠っている。というより、それはある瞬間から粗悪品ではないものが生み出されるということでもあり、うずたかく積まれた乱造品の中で眠り続けることで孵化する、ということでもある。あるいはまた、乱造行為をやめたとたんに、ふと、その本物が目の前にふってくることもあるかもしれない。
 忘れてはならないのは、どのような場合であっても、あなた自身がそれを見つけ出し、そしてつかみ上げ、クリエイティブとして誰かに見せつける必要すらあるということである。

 乱造はそういった本物、納得、評価、高品質、流行、評判などなど、そういった属性の付随するクリエイティブを呼び寄せるための、1つの儀式と言えよう。
 租税乱造の果てに、あなたにはその転機がやってくる。だから乱造は、遠いようで、実質的な ”本物” への近道なのだ。ただし、忘れてはならない。クリエイティブ的に良いものは、簡単に転がり込んでくるわけでも、あなたの知らない内にあなたのクリエイティブ的な価値を高めてくれるものでもない。それは見つけ出され、拾い上げられ、場合によっては誰にでも見えるよう高く掲げられなければならない。

 その前段階に至る近道が、乱造である。宝石を拾うのには、むしろ、宝石を覆い隠すほどの乱造品の山が必要である

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