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楽園瞑想~母なるものを求めて(4)


 都会で私が築いてきたものたち、成功したこと、失敗したこと。それらのことはオバアの前では何の価値も持たないのだ…。

          ✱

 自然な暮らしをしているオバアは、昔からある絶対的な価値につながっているのだろう。

 私も自然の一部になりたい。

 一人で海に行く。サンダルを脱ぎ捨てて裸足になる。砂の感触を確かめながら、ゆっくり歩く。底まで透き通った水。小さな魚の群れが、金色の波紋を広げながら泳いでいく。私はスカートをたくし上げて海に入る。波に足をとられて、空を仰ぎながら倒れる。目と水面が同じ高さになる。海に抱かれる。やがて、私は砂粒の一つになって、波に揺られている。


 私は、いつも遠くに目標を置くのが好きだった。幸せはさらにその先にあると思っていた。今に満足する、ということを知らないのだった。だから、いつもやり過ぎてしまうのだった。

 あの時もそうだった。

 二十代のはじめ。大阪の新聞社編集局。私は駆け出しの記者だった。小娘にしては、あり得ないほど恵まれた環境にいた。

 名刺一枚でどこへでも取材に行ける。各界の著名人にも会える。招待券を使って世界一流の音楽会や美術展を堪能できる。私は新聞記者の特権を享受していた。

 配属は文化部だった。仕事のスタイルは自由だった。お昼過ぎの出稿時間までに原稿を出してゲラのチェックが済めば、あとはフリータイム。取材に出かけたり、地下街の名画館で二本立ての映画を見たり、また時には夜の街をぶらぶらフィールドワークした。世界が広がっていく。毎日がとても楽しかった。

 けれど、ある日、不満足の虫が騒ぎ出した。それは、新聞が世間と少しズレているのではないか、と思い始めた時だった。

 確かに、新聞の報道は文化面に関しては、一方も二歩も遅れているのだった。世の中の動きをより早く伝えるのは雑誌や夕刊紙のほうだ。一般紙は夕刊紙に遅れをとっている。私は志願して、同じ新聞系列の夕刊紙にかえてもらった。

 今あるものより、無いものの方に目がいってしまうのだった。

 夕刊紙は、原稿のスタイルも雑誌っぽくて好きだった。知らないのに知ったかぶりをして背伸びして書かなければ行けなかった前の新聞。その時と違って、等身大の自分をさらけ出して書ける。そこがまた良かった。書くことが、がぜん面白くなった。

 それからしばらくして、またしても、いつもの不満足の虫がざわめき出した。整理部の先輩記者が言ったことが、きっかけだった。君はT君、N君の次に原稿が上手いね。先輩は誉めたつもりだったのかも知れないが、私は悔しくて眠れなかった。

 いつも、何かが足りない、と思っていた。より多くを常に欲していた。満ちることがない。心の渇きは治まらない。不足感。時には前進する力になるが、時には苦しみの元になる。

 こんなこともあった。

 みんなが知っているネタを私だけが知らないことがあった。私は知ってるふりをして、その場を繕った。知らないとは言えなかった。後でこっそり新聞や雑誌、インターネットでチェックした。

 それから、情報を網羅しなければ気が済まなくなった。知らないことがある、ということが不安だった。

 そのあと、私はときどき発作を起こすようになった。目的地にたどり着けず、遅刻してしまう。その時は何から来るのか、分からなかった。やがて、電車に乗れなくなった。地下鉄のホームで、並んで電車を待ちながら文庫本を読んでいたとき、本の世界にのめり込んでしまって、電車を何本も乗り過ごしてしまうようになった。


 目を閉じて海の中を漂っていると、宇宙の塵になって漂っているような気がしてくる。あるいは、羊水の中のような。楽園。

 海に抱き止められる。オバアに抱き止められる。私は祝福されて生まれてきた子供。


 振り返ると、あの時の痛みが遠い昔のことのように思えてくる。いつから自分に重荷を背負わせるようになったのか。生きる意味がわからない。産まれてきた意味がわからない。自分が誰かわからない。

 私は重荷を降ろし、要らなくなった分厚い衣服を脱ぎ捨てる。

 すると突然、いろいろなものが鮮やかな色彩を帯びて、私のもとに押し寄せてくる。

 この島に来てから、風を見るようになった。雨を聴くようになった。

 ふと、思う。

 自然は私の外にあると同時に、私の中にもあるのではないか、ということを。

 私の外を騒がせる風は、私の心の中を騒がせる。私の外で緑の葉っぱを叩く雨は、私の心の中の緑の葉っぱを叩いている。

 子供の頃には知っていた自分と世界とのつながり。思い出した。

 生きている喜びが蘇ってきた。


(続く)


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