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『「介護時間」の光景』(120)「花火」。8.4.

 いつも読んでくださっている方は、ありがとうございます。おかげで、こうして書き続けることができています。

 初めて読んでくださっている方は、見つけていただき、ありがとうございます。
 私は、臨床心理士/公認心理師越智誠(おちまこと)と申します。


「介護時間」の光景

 この『「介護時間」の光景』シリーズは、介護をしていた時間に、どんなことを考えたのか?どんなものを見ていたのか?どんな気持ちでいたのか?を、お伝えしていこうと思っています。

 それは、とても個人的なことに過ぎませんが、それでも家族介護者の気持ちの理解の一助になるのではないか、とも思っています。

 今回も、昔の話で申し訳ないのですが、前半は「2001年8月4日」のことです。終盤に、今日「2022年8月4日」のことを書いています。


(※この「介護時間」の光景では、特に前半部分は、その時のメモをほぼそのまま載せています。希望も出口も見えない状況で書かれたものなので、実際に介護をされている方が読まれた場合には、気持ちが滅入ってしまう可能性もありますので、ご注意くだされば、幸いです)。


2001年の頃

 ずいぶん前の話ですみませんが、1999年に母親に介護が必要になり、私自身も心臓の病気になったので、2000年に、母には入院してもらい、そこに毎日のように片道2時間をかけて、通っていました。仕事もやめ、帰ってきてからは、義母(妻の母親)の介護をする毎日でした。

 入院してもらってからも、母親の症状は悪くなって、よくなって、また悪化して、少し回復して、の状態が続いていました。

 だから、また、いつ症状が悪くなり、会話もできなくなるのではないか、という恐れがあり、母親の変化に敏感になっていたように思います。

 それに、この病院に来る前の病院で、いろいろとひどい目にあったこともあって、医療関係者全般を、まだ信じられませんでした。大げさにいえば、外へ出れば、周りの全部が敵に見えていました。

 ただ、介護をして、土の中で息をひそめるような日々でした。それが2001年の頃でした。

 それでも、毎日のようにメモをとっていました。

2001年8月4日

『午後4時30分頃着く。
 午前中に、病院から電話があった。

 個室料金の減額のことで、という内容だった。

 母は、今日の日付けを知っていた。

「薬の袋を見るのよ」
 そんなことを教えてくれた。

 さらに、母は続ける。

「月、土がお風呂。火、金が体操。水曜日は、シーツ変えなのよ」

 少し把握することがはっきりとしてきた。
 ただ、時々、よくわからないことも混じる。

「少し外へ出たのよ。あれは、タラノメで、食べられるのよ。…教えてもらったのよ」

 7月のカレンダーが貼ってあるから、それに触れる。
「このままでいいのよ。このままで、来年も使えるのよ」。
 微妙におかしいけれど、気持ちよく話をしているから、聞いている。

 食事も終わったけれど、スタッフの人に「花火が見えるかも」と言われた。

 遠くて、小さくて、窓越しだけど、母は花火も好きだから、見られたらいいな、と思い、いつもは午後7時で病院を出るのだけど、普段の面会時間よりも長くしてもらって、まだしばらくいることにする。

 オールスターサッカー。
 プロ野球のナイター。

 母と一緒にテレビで見ながら、何度も、廊下の隅の窓を見に行って、だけど、音だけは聞こえているのに、でも、花火は見えない。

 暗くて黒い空だけが見える。病棟は暗くなっている。夜の感じだった。

 午後7時50分頃になり、母と一緒に廊下を歩く。

 患者さんの男性から、「見えませんか?」と聞かれ、「見えないですねー」と答える。

 見えないまま、花火は諦めて、母と話をして、帰ることにする。

 いつもよりも1時間くらい遅く、病棟を出た』。


花火

 夜8時少し前。病院を出て、暗い道を通り、少し明るい県道を渡り、さらに歩いて照明がたくさんあるのに、少し薄暗い印象のあるバスターミナルへ近づく。

 大きい音。花火の音だけが、体に響くように聞こえてくる。ここのところは、送迎バスを使っていて、そこは病院から出発するし、もっと人の気配が多い。

 久しぶりに少し遅くなり、久しぶりに路線バスのターミナルに来た。街灯が切れているせいもあって、途中がまっくらな夜の道も久しぶりだった。

 バス停からは二つの違う駅に向かうバスが出ているけれど、今日は、すぐに来たバスに乗った。それは、いつもとは違う駅へのバスだった。

 誰もいない。通い始めて不安ばかりの頃を思い出す。あれから、もうすぐ1年がたつ。平凡だけど、年月の区切りで思うこともある。夏、秋、冬、春、そして夏になった。ただ病院に通っている。

 変形した心臓。
 遠ざかる仕事。
 削られていく未来。

 自分に関する、そのことは全く変わっていないと言うより、より悪化しているのだけど、最近、そういうことをあんまり考えなくなった。考えないようにしているだけかもしれない。

 バスの中で、また体に響くような花火の音が聞こえた。だけど、進む方向がいつもと違うせいもあって、結局、花火はぜんぜん見れなかった。

                     (2001年8月4日)

           

 
 この生活はいつまでも終わらないのではないか、と思っていたが、2007年に母が病院で亡くなり、「通い介護」も終わった。義母の在宅介護は続いていたが、臨床心理学の勉強を始め、2010年に大学院に入学し、2014年には臨床心理士の資格を取得し、その年に、介護者相談も始めることができた。

 2018年12月に、義母が103歳で亡くなり、19年間、妻と一緒に取り組んできた介護生活も突然終わった。2019年には公認心理師の資格も取得することができた。昼夜逆転のリズムが少し修正できた頃、コロナ禍になった。


2022年8月4日

 昨日まで、夜中になっても、不安になるほど暑かったのに、今日は雨が降り、気温も少し下がった。

 いろいろなものが、ややくっきりと見えるような気がする。

 新型コロナウイルスの新規感染者数が、やたらと多くなり、それに加えて熱中症になりそうな暑さも続き、夏でも萎縮するような日が続いている。

 なるべく外へ出ないように、それでもなんとか生き延びられるように、ずっと非常時のような気持ちが続いていて、これは、介護の時と緊張感と似ている。

 雨音がずっと聞こえ、淡々と時間が過ぎていった。

 気がついたら、庭の柿が青いままだけど、大きくなって数も増えていた。



(他にも、いろいろと介護のことを書いています↓。よろしかったら、読んでもらえたら、うれしいです)。



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