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『「介護時間」の光景』(184)「地平線」。12.3。

 いつも読んでくださっている方は、ありがとうございます。おかげで、こうして書き続けることができています。

(※この「介護時間の光景」シリーズを、いつも読んでくださっている方は、よろしければ、「2001年12月3日」から読んでいただければ、これまでとの重複を避けられるかと思います)。

 初めて読んでくださっている方は、見つけていただき、ありがとうございます。
 私は、臨床心理士/公認心理師越智誠(おちまこと)と申します。


「介護時間」の光景

 この『「介護時間」の光景』シリーズは、介護をしていた時間に、私自身が、家族介護者として、どんなことを考えたのか?どんなものを見ていたのか?どんな気持ちでいたのか?を、お伝えしていこうと思っています。

 それは、とても個人的で、断片的なことに過ぎませんが、それでも家族介護者の気持ちの理解の一助になるのではないか、とも思っています。

 今回も、昔の話で申し訳ないのですが、前半は「2001年12月3日」のことです。終盤に、今日「2023年12月3日」のことを書いています。

(※この『「介護時間」の光景』では、特に前半部分は、その時のメモをほぼそのまま載せています希望も出口も見えない状況で書かれたものなので、実際に介護をされている方が読まれた場合には、気持ちが滅入ってしまう可能性もありますので、ご注意くだされば、幸いです)。

2001年の頃

 個人的で、しかも昔の話ですが、1999年に母親に介護が必要になり、私自身も心臓の病気になったので、2000年に、母には入院してもらい、そこに毎日のように片道2時間をかけて、通っていました。妻の母親にも、介護が必要になってきました。

 仕事もやめ、帰ってきてからは、妻と一緒に、義母(妻の母親)の介護をする毎日でした。

 入院してもらってからも、母親の症状は悪くなって、よくなって、また悪化して、少し回復して、の状態が続いていました。
 だから、また、いつ症状が悪くなり会話もできなくなるのではないか、という恐れがあり、母親の変化に敏感になっていたように思います。
 それに、この療養型の病院に来る前、それまで母親が長年通っていた病院で、いろいろとひどい目にあったこともあって、医療関係者全般を、まだ信じられませんでした。大げさにいえば外へ出れば、周りの全部が敵に見えていました。

 ただ介護をして、土の中で息をひそめるような日々でした。私自身は、2000年の夏に心臓の発作を起こし、「過労死一歩手前。今度、無理すると死にますよ」と医師に言われていました。そのせいか、1年が経つころでも、時々、めまいに襲われていました。それが2001年の頃でした。

 周りのことは見えていなかったと思いますが、それでも、毎日の、身の回りの些細なことを、メモしていました。

2001年12月3日。

『昨日の夜、海外に住む友人から電話があった。

 元気そうでなによりだった。

 夜は、落語にも行った。近くの町会会館に小さい座布団を持って、出かけて行った。考えたら、ぜいたくなことだと思う。

 何か、介護だけをしているのに、やることが増えているような気がして、それで、なんだか無駄に焦って、そのことに自分でも嫌になる。

 午後4時30分頃に病院に着く。

 病院内で運動会をして、そのときの写真を2枚もらってきて、小さい机の上に置いてある。

 その写真の一枚には、私と妻と母の3人で写っていた。

 だからだろう。「持って帰ってくれる?」と繰り返した。ただ、母にとっても、記憶のための大事な写真でもあるし、持って帰るけれど、また持ってくるよ、という話をしたのだけど、あまり聞いていないみたいで「持って帰ってね」をずっと言うだけだった。

 そのあとに、母の妹である叔母に、病棟内の公衆電話をした。

 途中から、その話をしている内容が、なんだか微妙に、こちらは嫌になるようなこともあったけれど、それでも、話ができて、よかった。

 午後4時30分から、1時間の間に、母はトイレに4回行った。

 食事は25分。

 終わってから、またトイレへ行く。

 その10分後に、また行ったのだけど、なぜか「2回行かないと」と言いながら、トイレに向かった。

 それから、午後7時まで病室にいた』。

地平線

 いつもと同じ時刻に病院を出て、暗い道を歩いていく。

 出かける時に妻とケンカした事を思い出して嫌な気持ちになる。いつもと同じように1〜2分で県道に突き当たる。2車線の道路の歩道を右に曲がる。

 視線を上げると、まっすぐ向こうに地平線といっていい広がりがあって、その線のギリギリに、びっくりするほど、赤くて大きくて、丸い月が浮かんでいる。何かよくない事が起きるのでは、とちょっと恐くなる。

                         (2001年12月3日)


 それからも、その生活は続き、いつ終わるか分からない気持ちで過ごした。

 だが、2007年に母が病院で亡くなり「通い介護」も終わった。義母の在宅介護は続いていたが、臨床心理学の勉強を始め、2010年に大学院に入学し、2014年には臨床心理士の資格を取得し、その年に、介護者相談も始めることができた。
 2018年12月には、義母が103歳で亡くなり、19年間、妻と一緒に取り組んできた介護生活も突然終わった。2019年には公認心理師の資格も取得できた。昼夜逆転のリズムが少し修正できた頃、コロナ禍になった。


2023年12月3日

 最近、ビジネスパーソンと話をする機会があって、その言葉遣いが新鮮だった。

 ビジネスの世界で生きている方達は、私にとっては独特の言葉使いと、リズムがあって、それは時代や世代によって違いはあるものの、どちらにしても、自分がその世界とはとても遠いところで、ずっと生きてきたことを思い知らされたような気持ちになった。

柿の葉

 庭には柿の木があって、寒くなってくると、かなり色づき、その葉っぱが散ってくる。

 それは、突然、ボタボタ、といった音がするくらい直線的に落ちてくるようで、葉っぱが大きくて重いのか、それともその形状に理由があるのかは、よく分からない。

 毎日、その庭に落ちた葉っぱを裏返して、妻は、その中から気に入った葉っぱを選んで、玄関のそばの古い机の上に並べてくれる。

 一枚の中にもさまざまな色が混在していて、しかも、一枚として同じ色になっていないような気がするから、毎年、感心する。 

ドラマ

 昼間は、録画していたドラマを、おやつを食べてコーヒーを飲みながら妻と一緒に見た。 

 医療関係者、警察関係者、法曹関係者。そうした人たちのテレビドラマがかなり多く、そして、考えたら、そうしたドラマはこれまで数多く制作されてきたのだから、どれだけのパターンがあるのか、とか、新しいストーリーを作るのは難しいのではないか、といったことは思う。

 癖がある弁護士の役を、自身のこれからのことを賭けるように演じている篠原涼子を見ていると、1990年代から芸能界にいて、今もいることにやはり凄みを感じつつ、こうしたプロフェッショナルな人物を主役に据えるドラマを視聴しているときに、その仕事の有能さと何か?ということを考えてしまう。

 弁護士というのは、大きくくくれば「士業」で、臨床心理士や公認心理師と同じとも言えるのだけど、今も社会的な地位というようなものが圧倒的に違うのは感じている。

 それでも、自分が仕事をしていく中では、少しでもクライエントの役に立つために、有能でありたいと思っているのだけど、ただ、心理士(師)にとって、有能という表現がふさわしいのか、微妙だと思うし、どうすれば能力が上がるかについては、とても分かりにくいままだ。

講座

 もし、心理士(師)として仕事を続けていくのであれば、ずっと、とにかくさまざまなことを知り続けていくべきだとは思う。

 その上で自分の感情に敏感で繊細であることも必要になるのは、仕事をしているときに、何しろ自分自身を使っていくしかないからだ。

 そんなことを、オンラインでの講座を受けながら、より強く思うようになった。同時に、難しい仕事だと感じるようにもなっている。

 


(他にも介護のことをいろいろと書いています↓。よろしかったら、読んでもらえたら、うれしいです)





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