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[小説 祭りのあと(6)]十月のこと~メンチカツ一つ(前編)~

 ショーケースの向こうから、まだ柔らかい感触の残る小さい手が見えた。
 その手は五百円玉を握り締めていた。
 「はい、五百円ね。ちょっと待っててよ」
 小柄な少年は黙って頷いた。
 首にぶら下げた水色の小さな財布を、両手でしっかりと掴んでいた。
 「三百八十円のお釣りっ。それとはい、メンチカツねー」
 精一杯つま先を立てて背伸びをして、彼は小さなビニール袋を手に取った。
 「ありがとうございます。また来ます」
 彼は幸に大きくペコンとお辞儀をして、西口に向かって走り出した。
 「航ちゃん気い付けてね!」
彼は振り向いて笑い右手を大きく振った。背負った大きく黒いランドセルが、彼の背中でガタゴト弾んだ。
 日はすっかり暮れ、家族の夕飯時がそれぞれの家庭で始まろうとしていた。

 「今日は何時まで、大浦くん」
 午後三時の休憩時間。
 食堂のテーブルで缶コーヒーを飲み一息ついている大浦さんに、母は声を掛けた。
 「あぁ徳子さん。今日は九時まで」
 「たまには早く帰ってあげんさいよ。航ちゃんも寂しいじゃろうに」
 航大くんは大浦さんの一人息子だ。
 男手一つで子供を育てるのは大変だが、こうやって近所の大人が気に掛けてくれるのは助かるに違いない。
 「はい。今月はもうシフトが決まっとりますから、来月少し休みを取ります」
 「それがいいわ。じゃあ私は帰るわね」
 「お疲れさんでした」
 母は心配だった。
 軽く笑みを溢した大浦さんが無理をしていないかと。
 そして航大くんが我慢し過ぎていないのかと。

 大浦さんは奥さんの智恵さんと死別した。
 それは大浦さんが二十五歳、航大くんもまだ二歳の時だった。
 何でもない風邪の筈が、細菌性肺炎を患っていたのだ。
 発見が早ければ助かったのだが、智恵さんの頑張りが裏目に出て発見が遅れてしまい、帰らぬ人となったのだ。
 同じ化学工場で知り合い、一緒になったことを食堂で働く母はよく知っていた。
 葬儀の時のことを、母は今でも忘れることができない。
 何故お母さんがいないのかが分からない航大くんの泣き声を。大切な人を守れなかった悔しさに堪えられず、最後の挨拶で泣き崩れるまだ若い大浦さんの喪服姿を。
 だからこそ大浦さん親子のことが心配でたまらないのだ。
 「さあ、まだいっぱい残っとーで。始めるか」
 リーダーを務める大浦さんが後輩の肩を叩き、現場へと促した。
 その背中は様々な使命感に満ちていた。

 秋晴れとなった金曜日の夕方のこと。幸は何処か落ち着きがなかった。
 「どうした、幸?」
 陽治の声に幸は不安そうに答えた。
 「いや。航ちゃんが来んのよ、まだ。そろそろ買いに来てもええ頃なんじゃけど…。」
 「今日は大浦さん、休みじゃなーんか」
 「いや、確か金曜日は夜勤じゃった筈よ」
 せめて土日のどちらかを休みにして、大浦さんは航大くんとの時間を作ろうとしていることを幸は知っていた。
 だからこそ彼が現れないことが、不自然だと勘付いたのだ。
 「友達と遊んどるんじゃなーんか」 
 「もうあんなに暗いんよ。こんな時間まで遊ばんでしょう」
 幸に促され、陽治は西口を覗いた。
 確かに落陽し薄ら赤い暗闇が既に街を覆っていた。
 「ねぇ、ちょっと行ってきていいかな」
 「えっ、今から片付けじゃろ。俺、片付け遅いの知っとうじゃろうよ」
 「お母さんに手伝ってもらってよ。大人よりも子供が大事、じゃろ」
 「ま、まぁな」航大くんの思いが分かる陽治はそれ以上何も言えない。
幸は口よりも行動が早い。青いビニールエプロンを外して手を洗い、大浦家のあるアパートへと小走りで向かった。

 十月の後半ともなると、夜は結構冷えるものだ。カーディガンを羽織った幸は点々と灯る街灯の下を急いだ。弾む息が白く浮かんでは消える。
 航大くんがいる筈の、二階の部屋には七分くらいで到着した。
 ピンポーン。呼び鈴を一度鳴らした。
 カチャ。白い長袖の体操着を着た航大くんがそっと扉を開け、幸のほうを見上げた。
 「あ。こんばんは」
 「航ちゃんこんばんは。今日はどうしたん?お店に来んかったけど。調子でも悪いの?」
 航大くんは首を横に振った。
 それでは何故、買いに来なかったのだろう。
 「えっと……お金、失くしちゃったんです」

 幸は陽治に電話を入れて、一度店まで戻った。お母さんが文句を言うのも気にせずに、陽治に頼んだ売れ残りのビーフコロッケを二つ持って、すぐに航大くんの許へ戻った。
 部屋は奥のほうだけ灯りが付いていた。
 蛍光灯の下の畳の上には、ブロックで見事に作られたジャンプ台と数台のミニカーがあった。二人はその横に座った。
 きちんと正座した紺の半ズボンから見えた彼の脚が、少し細くて華奢に見えた。ショーケース越しにしか彼を見ていなかった幸は、そのことにこの時まで気が付かなかった。
 「ご飯は?」
 「食べました。海苔と梅干があったけぇ」
 ポソッと呟く彼に、幸はコロッケを手渡した。慎重に覗いて中を確認すると、航大くんの顔は途端に嬉々とした。
 「さぁどうぞ。今日はお金はいいけぇ」
 彼はいただきますと手を合わせて、コロッケを掴み、両手を油まみれにしながらパクッと口にして微笑んだ。

 「何処で失くしたか、分かる?」
 「校庭で遊んどって、帰ってきたらもうなくて…お財布のチャックが開いてたんです。探しに校庭に戻ったけど、やっぱりなくて」
 「誰か一緒にいなかったの?」
 彼は寂しそうに首を横に振った。
 彼は友達と言える存在がいないようだった。
 「このお財布は、お父さんがくれたの?」
 「はい。夜が遅い時はこれでおかずを買うようにって」
 毎日五百円を財布に入れて、大浦さんは彼に手渡してから仕事に出かけるのだった。
 「ご飯……お米はどうしとるの?」
 「朝の残りがあるから、それを」
 気になった幸は冷蔵庫を開けてみた。
 幾つかタッパーがあり、その中に野菜や煮豆などが入っていた。
 男手なりにできる限りのことをしているのだろう。幸は少し安心した。
 「でもそういえばお父さん、この前の参観日に来とらんかったね」
 「お仕事だから、行けんって」
 あっ、と幸は気付き、それ以上彼に質問するのを止めた。
 航大くんは娘の玲奈ちゃんと同じクラス。学校行事に大浦さんが殆ど来れていないことを思い出したのだ。
 「航ちゃん、寂しくない?大丈夫?」
 幸の言葉に対して、二年生の男子にしては小柄な彼が気丈に答えた。
 「はい。お父さんも頑張っとるから」
 驚いた。幼稚園児の頃、お父さんの傍でいつもグズグズ泣いて甘えていた、あの航ちゃんが……。
 そのぎこちなく大人びた表情は、幸をたまらなく切なくさせた。
 小さな仏壇の上で微笑む智恵さんの写真を幸は見た。
 智恵さんの面影が、航大くんと確かに重なった。
 幸は彼に、お父さんは何時に帰ってくるのかを聞いて、部屋を後にした。

 「お昼はオムライスにするぞ。迎えに行くから待っててな」
 「はーい。いってきまーす」
 翌朝の九時半過ぎ。僕の母と幸は大浦さんの家にいた。
 航大くんは玲奈ちゃんが迎えに来て、一緒に遊ぼうと幸の家に連れて行った。
 航大くんを見送った後、大浦さんは二人の向かいに所在無さげに正座した。
 「すみません。ご心配をお掛けして……」
 「いいんですよ、お互い様ですけぇ。でもこのままでいいんですか?あんないい子に育っとるし、大丈夫とは思うんじゃけど……」
 大浦さんは仏壇の方を向いた後、肩を落として二人に話し始めた。
 「正直困っとるんです。夜勤を外すとよー生活できません。立場上、平日だって簡単に休む訳にもいきません。そうかと言って、航大にこれ以上無理させられんのも、分かっちゃおるんです」
 彼が大人し過ぎて友達が少なく、一人きりがとても寂しいのも大浦さんは知っていた。
 一方では彼が大きくなるにつれて、部活動などで更にお金が必要になる。
 そのためにもせめて高校を出るまででいい、満足に身体が動く限りは仕事を入れて、稼げるだけ稼いでおかなければいけないのだと、大浦さんは言うのだった。
 僕らの想像以上に、彼らは追い詰められていた。

 「確かにそうじゃね。子供を育てるには結構かかるからねぇ」
 「ええ。将来を考えれば考える程、僕の状況はそう簡単には変えられんのです。せめて航大の居り場所ができれば……」
 「自分ん家っても一人じゃあねぇ」
 「はい。家で一人きりにならんで済めば、あの大人しい子も少しは変わりよると思うんです。そうなったら僕も今より安心できるんですが……」
 三人は揃って腕組みをした。

(後編(7)に続く)


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