責任回避の言葉: 組織内の集団無責任とその根源
お偉いさんだから成立する言葉
「そもそも、俺は反対だった」
ああ…、出てしまいましたかその言葉…。これは、いったい何を主張しているのか理解に苦しみます。反対だったから俺の責任ではない、ということなのでしょうか。
その意味では、ある程度責任のあるポジションにいないと成立しない言葉です。平社員が、「俺は反対だった」と言ってもただの愚痴になるでしょう。
お偉いさんにしてはいけない人
ドラッカーは、著書「マネジメント」で、「お偉いさんにしてはいけない人」の特徴を述べています。(一部、抜き出して箇条書きにしてます)
A man should never be appointed to a managerial position if his vision focuses on people’s weaknesses rather than on their strengths.
(人の短所ばかり指摘する)
A man should not be appointed if he is more interested in the question “Who is right?” than in the question “What is right?”
(何が正しいかではなく、誰が正しいか)
Management should not appoint a man who considers intelligence more important than integrity.
(あいつはマジメなだけ、使えない、などという)
It should never promote a man who has shown that he is afraid of strong subordinates.
(できる部下をディスる)
It should never put into a management job a man who does not set high standards for his own work.
(そのくせ、自分には甘い)
上田先生の素晴らしい翻訳があるのですが、あえて原文に私なりの日本語を当ててみました。「お偉いさん」にして良いわけがないですね。…というか、なれるはずがないと思うんですが。
要するに、保身ですね。こんな人、そうそういないよなあと思ったんですが、「俺は反対だった」「聴いていない」「俺は納得してないけどね」…って言葉に久しぶりに出くわしました。
こんな発言をするのはそれなりに自己主張の強い方だからです。そして、それなりに業績はあげていたのですね。それゆえに、昇進してきたということなのでしょう。
組織を「あなた」がおかしくしているのか、組織がおかしい「あなた」を作っているのか
彼が、というより、組織全体がドラッカーのいう5つの特徴で動いているように感じます。…つまり、彼のキャラクターもありますが、そういう発言になっちゃう側面もあると思うんですね。責任のある立場だから、正しい判断をして、導かなくてはならないと、少なくともタテマエ上はそうなっています。
でも、100%正しい判断なんてあるはずもない。だから決めない、決めたくない。結果、あいまいに物事が決まる。なんとなくの方向性が決まる。明確にイニシアティブを取って進める人も決まっていない。
あいつがやるんだろうと思ってた。
おれがやるんだろうか、どうなんだ?
…けど、結果はいつか出る。うまく行っていれば、「反対だった」なんて言わないで終わったでしょう。うまく行かなかったから、組織のタテマエで責められる前に「俺は反対だった」と言うことになるわけです。
彼は反対だったのでしょうか。仮にそうだとしても、場の空気に決定が委ねられているから、明確に表明していたわけではありません。他の人だって同じです。諸手を挙げて賛成のような事案なら、そもそもこんなことになっていない。みんな白黒はっきりと賛成、反対していたわけではない。
結局、集団無責任です。
集団無責任を生んでいるのは何か
集団無責任とは、「赤信号、みんなで渡れば怖くない」みたいなものです。でも、事故が起きれば、「責任」を問われる事態となります。
つまり、みんなが ”Who is right?"になっていて、誰も”What is right?" を問うていません。そして、その”who”は実は誰でもなく、場の空気になっているわけです。
何が正しいのかは一人ひとりの価値観に依存します。だから”Who is right?"になってしまう。そして、組織だから明確な”Who”が存在していない。
このような時にいつも足りないなと思うのは「私たちは」と問う習慣です。「私たちは、賛成だったんだっけ、反対だったんだっけ」とは普通は言わないし、言葉としては整合性が取れていない。でも、この「私たちは」と問う習慣が”What is right?"のための必要条件なのだと思います。
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