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【創作大賞イラストストーリー部門】第五列島「ステルス・ドッグ」後編


↓前編




 学校の裏庭にある花壇には、秋にふさわしい花々が咲いていた。
 コスモスにダリア、セージにケイトウ。よく手入れされているのが分かる咲き誇りっぷりだ。
 そこでスヴィーチェは、スコップの背で土をペンペンと固めていた。

「土いじりなんていつぶりよ。……ああ、そういえば何年か前に、単身赴任の夫の無事を祈りつつ健気に花を育てる家庭的な奥さんって役をやったことがあったわ」

 あの時仲良くなった、隣人のルートヴィヒ夫妻はどうしているだろうか。もう生きてはいないと思うが。もし、祖国の諜報部が大ポカをやっていたのなら、万が一の確率で、どこかの国に亡命しているかもしれない。

「…………」

 直接ではないにしろ、今まで自分は大勢の命を奪ってきた。
 今更自分だけ、などとは言えない。たとえそれが、敵からの攻撃ではなく、味方からの命令でもだ。

「私は……そういう生き方しか知らない。与えられた役目に沿って生きる術しか……」

 ペンペンと鳴っていた土の音が、いつのまにかカーンカーンと金属の音へと変わっていた。それでもスヴィーチェの土を叩く手は止まらなかった。
 背後の校舎からは、生徒達の朗らかな声が聞こえてくる。朝からキャッキャと張りのある声が出せるのは若さ故なのか、それとも、彼らの未来は希望に満ちているからなのか。

 ひと月。スヴィーチェはまず噂の真偽を確かめるために、生徒だけでなく校内の様々な場所を調べて回った。消火栓の中から、男子トイレの奥の個室まで。白衣に仕込んだ赤外線探知器に反応はなく、諜報に関係がありそうなものは何も見つけられなかった。

 次に、生徒の様子を観察してみた。
 どこからどう見ても、どれだけ注視してもごく普通の生徒達だった。学生寮を調べもしたが、得られる情報はせいぜい個々人の清潔度合いと性的嗜好くらいだった。
 もしかしたら、桜見さくらみ高校以外の学校で諜報員育成が行われているのかもしれないと、密かに姿を変えて他校へも潜ってみたのだが、得られる結果はどこでも同じだった。

 ますます噂の出所が気になるだけの結果に終わった。
 このままでは、『噂は嘘でした』という、本当に毒にも薬にもならない報告だけを持って帰るしかなくなる。もし持ち帰ったら、間違いなく処罰対象になるか、さらに危険な場所へ行けと言われるかだろう。
 であれば、残された選択肢はひとつ。

「やだわあ……生徒達に自分の死体を見られるのは……」

 綺麗に死ねればいいが。銃弾を使って確実に、となるとやはり頭だろう。

脳漿炸裂のうしょうさくれつティーチャーってどうなのよ」

 第一発見者のトラウマになること必至だ。

「やっぱり、ギリギリまでは情報収集に走るべきよね」

 全体的な調査は済んだ。であれば、今度は狙いを定めて深掘りしていくべきだろう。

 ――となると、狙いはやっぱり……。

 脳裏にターゲットの顔を思い浮かべていれば、スパスパと気の抜けた足音が近づいてくる。

「ラドフォード先生、朝っぱらからこんなところで何をしてるんですか? 花壇に向かって読経してるみたいですよ」
「ああ……この国では、魚を殴打しながら賛美歌を歌うんですっけ?」
「実現したらドえらい光景ですよ、それ……。違います。叩くのは木でできた魚ですし、賛美歌じゃなくてお経です」
「木でできた魚を叩く意味を是非とも知りたいところですね」

 牧野はまだ朝だというのに、気怠そうに白衣のポケットに手を突っ込んでいる。あくびを噛み殺しながらスヴィーチェの隣まで来ると、腰をかがめて彼女の手元に目を向けた。

「何か植えられたんです?」
「ええ」
「何が咲くんですか?」
「咲いてからのお楽しみで――きゃっ!」

 スヴィーチェは言いながら立ち上がろうとした。が、白衣の裾を踏んでぐらりと体勢を大きく崩してしまう。

「っと! 大丈夫ですか、ラドフォード先生」 

 前のめりに花壇に倒れそうになったのを、間一髪のところで牧野の手が救う。

「あ、ありがとうございます、牧野先生。危うくお花を潰してしまうところでした」
「いやいや、まずは花なんかより自分の身を心配しましょうよ」

 牧野は斜めになったスヴィーチェの身体を助け起こすと、丁寧に足元や白衣の汚れを払った。まるでお姫様扱いされているようでむず痒く、スヴィーチェは逃げるように牧野から身を離す。

「もう大丈夫ですから。それよりそろそろ朝礼の時間ですし、職員室へ戻りましょうか」

 よれた白衣を手で素早くはらい、職員室へと足を向ければ、牧野もそうですねと、隣に並んで歩き始める。すると頭上から、還元濃縮元気一〇〇パーセントみたいな声が降ってきた。

「周ちゃーん、おっはよー。なになに? 朝からナンパされてるのウケる~」

 声がした方を見上げれば、三階の教室から白雪が顔を覗かせているではないか。ヒラヒラ小さな手を振り、ウケると言いながら微笑しか浮かべていない様は、どこにでもいる普通の女子高生だ。

「おはようございます、白雪さん。今日は一時間目に小テストしますけど大丈夫ですか」
「え、朝からムリー。牧野っちくらいムリー」

 とは言いつつ、なんだかんだ彼女は平均点は越えてくるのだから、ちゃっかりしているというか、要領が良いというか。

「無理ってなんだー、先生は全く無理じゃないぞー。流れ弾ハンターイ」
「いや、牧野っちは無理オブ無理。無理オブザイヤー受賞おめ~」
「聞きました? ラドフォード先生。最近の女子高生はああやって成人男性のやわらかメンタルを殺しに来るんですよ。最近の若い子は嫌ですねぇ」
「どちらかというと私も彼女側なので反応に困ります」
「え……」

 頭上から「どんまーい」と、震え声が聞こえていた。



 先ほどより肩を落としトボトボとした足取りの牧野。スヴィーチェは自分より頭ひとつ高い彼の横顔を見つめたが、モハモハとした重たい髪のせいで、横顔から表情を探ることはできなかった。
 白雪は彼を嘘つきだと言った。気をつけろとも。

 ――頼りない感じはするけど、嘘つきには見えないのよね。

 むしろ、彼が嘘を吐く必要性はどこにも見受けられない。

「先生、私に教師は似合いませんか?」
「いきなりどうしたんです? 寿退職がしたいんですね。待っていてください、すぐに指輪を買ってきますんで。有休余ってるかな。あ、できたら子供は二人で」
「脳内飛躍の世界チャンピオンになれますよ」

 結婚後まで想定しているあたり飛距離も相当なものだ。

 ――これは嘘つきって言うより、単に会話が通じないだけなんじゃ……。

 もしかすると、アイドル志望だということをばらされた腹いせに、白雪が誇張して嘘つきだと言っただけという説が浮上する。

「そうではなくてですね、生徒に似合ってないって言われたんです。今まで色々な職をやってきましたが、他人からそう言われるのは初めてだなと。自分では上手くやってきたつもりでしたから」

 命令を遂行するためになら、どんな役にでもなりきってきた。その器用さが、女ながらに今まで諜報部で生き残ってこれた理由でもある。

「その生徒って……」
「白雪さんです」

 牧野は、やっぱりねと言わんばかりに肩をすくめて苦笑した。

「他人がどう評価しようと、最終的に選ぶのは自分ですから。自分が嫌じゃないことを選べばいいんじゃないですかね」
「嫌じゃないこと、ですか」

 そんなこと考えもしなかった。好きでも嫌いでもない。人間が無意識に息を吸うように、諜報員としての人生は生きることと同義なのだから。

「ちなみに、僕はこの仕事は嫌じゃないですね。時々、またかよって思うときもありますけど」
「ああ、同じ授業を他のクラスで繰り返し教えている時とか、特にそう思ってしまいますよね」

 牧野は返事の代わりに左肩をクイッと上げていた。


        ◆


 母の亡骸を抱いて、壊れた家の影で座っていることが、五歳の自分にできた精一杯なのだったと思う。

『なんだ、ボウズ。腹が空いてるのか』
『分かんないけど、多分そう』

 それが、当時一介の諜報員だったログラフとの出会いだった。

 
 大きな争いは終わっても、火の粉はそこら中にばら撒かれたままで、あちらこちらで小さくとも確かに戦火は残るものだ。
 四度目の世界大戦は、北と中央を主とした戦争だった。それぞれの意義に賛同もしくは利益を見出した国が、コバンザメのようにひっついて戦っていたと聞く。その中でスヴィーチェの国は北についた。小国であり、地理的にも北と手を結ばなければ成り行かない国。しかし小国といっても、民意がいつも一致団結するわけもなく、北派と中央派とで国は大きく割れた。それは、北と中央が融和の握手を交わした後でも続き、スヴィーチェが生まれてもまだ続いていた。

 父は母がスヴィーチェを身ごもっている時に死に、母はスヴィーチェを守るために流れ弾の盾になって死んだ。スヴィーチェが五歳になって間もなくの頃だった。

『自分の感覚も分からなくなるくらい、お前はああやって母ちゃんと一緒にいたんだな』

 何を気に入られたのか、それとも自分があまりにも憐れに見えたのか、ログラフは自分を北連邦へと連れていった。
 無機質な通路の先にある部屋で、温かいスープを出されたときは、わけも分からず泣いてしまった。母の身体からゆっくりと温かさが抜け落ちていくのを感じていた時ですら、涙は出なかったというのに。

 飢えた野犬のようにがっついて食べる自分を見て、彼は何を考えていたのだろうか。テーブルにスープの飛沫が飛び散っても、彼は腕組みしたまま向かいの席から自分を見つめているだけであった。
 ただ、唯一分かったこともある。
 ぼろ布と化していた服を着替えているとき、彼は言った。

『ボウズ……女だったのか』

 彼が必要としたのは自分ではなく、男という性の子だった。
 あの時のログラフの顔は忘れない。彼はしくじったと言わんばかりに、眉宇に険を滲ませていた。彼の表情を見た瞬間、『あ、捨てられる』と思った。しかも、きっと五歳の少女が一人では到底生きていけないような場所に。

『あんたの犬になる! 望み通りに動くからここに置いて!』

 うるさいくらいに懇願すれば、彼は舌打ちしながらも受け入れてくれた。いや、あれは受け入れたというのだろうか。欲しかったのとは違うが、これで我慢するかという諦念だったのかもしれない。
 それからは、ログラフの元について諜報訓練が始まった。
 自分にとって彼は上官であり、養育者であり、師であり、死であった。

『女は使えたものじゃない』

 それが、彼が自分に何か言うときの枕詞。

『ハニートラップなんて手も昔はあったが、今じゃ警戒して誰も引っかからないすっかり使い古された手だ。ポケットで丸まった鼻かみティッシュよりボロボロでひどいやつさ』

 だから彼は、自分にはそのような手法は教えなかった。他の男の諜報員と同じような、日常に溶け込む方法ばかりを身につけさせた。これが自分には合っていたのだろう。寄る辺を失った自分には、どこでもいくらでも馴染むことができた。
 ログラフの犬――そう呼ばれることに、いつしか自分は意義を見出していたのかもしれない。
 彼に見出された特別な存在、そう自負していたくらいだ。彼へ抱く感情は、親への親愛と似ていたのだろう。父さん、などと呼んだことは一度もないが、そう呼べる日が来るのを、心のどこかで求めていたのだと思う。

 しかし、結果は『これ』だ。
 結局、自分は彼の犬でしかなかったのだ。
 自分から犬になると言ったのだから当然だろうが、十余年共に過ごしてきて何かしらの感情が芽生えかけていたのは自分だけと知って、少々落胆したのは否めない。しかし、きっとログラフの非情さは諜報員には必要なものなのだろう。彼は、それが誰よりも秀でていたからこそ長官になったのだろうから。
 上官であり、養育者であり、師であり、死だったログラフ。
 ほんの少し、一泡吹かせてやりたいと思っている自分は、犬失格だろうか。

「なんとしてでも、情報を持ち帰らないと……」

 十三人がなし得なかったことをすれば、彼は少しは拾って良かったと思ってくれるかもしれない。

 ――これは、私の嫌じゃないこと?

 スヴィーチェは牧野に言われた言葉を頭の中で反芻させながら、布団の上で瞼を閉じた。


        ◆


 諜報対象を『学校』という全体から『白雪』という個人に切り替えて、今日で五日目。

 個人調査対象に白雪を選んだのは、ほぼ勘と言っていい。
 写真に写っていた、屋上へと向けられた彼女の表情。あれは、普段の明るく朗らかで距離感がバグっている、どこにでもいる派手な女の子という印象を塗り替えるには、充分な衝撃だった。

 しかし、彼女を朝から深夜まで見張っても、今まで見てきた生徒の生活とは変わりなかった。分かったのは、彼女がいつもはいている飾りがついた靴下が一足千五百円と、少々お高めだったことくらい。あと、好きなアイスは抹茶と、絶妙に渋いということ。イメージ的に、ストロベリーを選んでいそうなのにと思った。

 ここでも、得られるものは毒にも薬にもならないものなのか、と行き詰まり感に覚悟を決めかけたとき、やっと転機が訪れる。
 学校から出た白雪は、いつも友人達と談笑しながら街で買い物やお茶をして学生寮へと帰るのだが、この日は正門を出た後、友人達と別れひとりになったのだ。
 つかず離れずの距離で後を追う。

 ――学生寮……じゃないわよね? この道順だと。

 初めて通る道であることに、スヴィーチェは微かな興奮を覚えていた。対象者がいつもと違うことをするとき、そこには必ず何らかの情報が落ちている。
 街へと向かっているようではあったが、しかしいつもの遊び場である中心部というわけではなさそうだ。中心部から少し外れた、閑散とした通りをズンズンと進んでいく白雪。
 そして彼女は、陸橋りっきょうに付随しているエレベーターの前で歩みを止め、乗り込んだ。扉が閉まった瞬間、急いでエレベーターへと近づく。

「エレベーター……って、どうして?」

 わざわざエレベーターを使って陸橋を上る必要はない。すぐそこに階段があり、彼女の足腰は健康なのだから。しかも、上へと行った様子がない。

「もしかして下がある?」

 スヴィーチェはエレベーターの扉に指をねじ込ませ、力ずくでこじ開けた。ぽっかりと空いた四角い空間にはワイヤーがいくつもぶら下がり、微動している。

「やっぱり」

 視線を下に向ければ、エレベーターの箱があった。しかし、予想以上に穴は深く、箱は既に小さくなっている。スヴィーチェは躊躇いなく目の前のワイヤーに飛びつくと、そのまま滑り落ち箱に着地した。
 箱は動いておらず、ここで白雪が下りたことがうかがえる。

 着地した足元にある救出口をそっと開け、人がいないことを確認して、スヴィーチェは中へと身を滑り込ませた。音もなく箱の内側へと下りる様は、とても英語教師とは思えない身のこなしである。
 白衣に仕込んでいた集音器を取り出し、扉のあわせに当てて外部の様子を聞く。

「……人がいる様子はなさそう」

 エレベータの開くボタンを押せば、鈍色のステンレス扉がじわりと開いていく。念のために隅に身を隠していたが、開いた向こう側にやはり人はいなかった。
 周囲を警戒しながら、スヴィーチェは一歩を踏み出したのだが、目の前の光景に唖然とせざるを得なかった。

「地下道っていうには、ちょっと無理があるわよねえ」

 真っ直ぐに伸びる無機質な廊下。地下道と言うにはあまりに狭く、それこそ学校の廊下程度の広さしかない。
 明らかに、一般市民用ではない。
 ということは、やはり白雪は一般市民ではなかったということ。
 スヴィーチェは足音を立てずに廊下を進む。廊下の先にはこれまたステンレス扉があるのだが、それを開いた瞬間、唖然を通り越して声を出してしまった。

「な、何よここ!?」

 扉の向こうには、『学校』が広がっていた。
 無機質な空間から一転して、今にも生徒達の声が聞こえてきそうなほどリアルな学校。長い廊下と天井には細長い蛍光灯。教室の中には黒板と教卓があり、机にきっちりと椅子が入り整然と並んでいる様は、生徒が帰った後のようで寂しさが漂う。

「いつの間にか戻ってきたのかしら……いえ……」

 確かにスヴィーチェのよく見知った光景ではあったが、しかし、ひとつ異なる部分があった。

「窓が塗り潰されてるわ」

 窓の外に本来あるべきの景色は広がらず、ただ白一色で塗られていた。窓の鍵に手を掛けてみても固着され開かない。張りぼてのようなものか。

「てことは、やっぱりここは地下で……だとすると、どうして学校なんかが……」

 地下特有の冷え冷えとした空気がやけに寒く感じた。首筋からぬるりと何かが背の中に入り込んできたように、足元から頭の先までゾワッとした違和感が走る。

『第五列島は、学校で諜報員を育てているらしい』

 唐突に脳裏で蘇るログラフの声。

「――っまさか!?」

 刹那、視界が赤く染まった。
 蛍光灯の白い灯りは全て落ち、廊下に備え付けられた赤い警告ランプだけが入れ替わるように発光している。驚く暇もなく、ワンテンポ遅れた警報音が静寂を切り裂いた。

「…………っっ!」

 思わず両手で耳を塞いでしまったが、聴覚を閉じている場合ではない。

 ――感づかれた!?

 スヴィーチェはヒールを脱ぎ飛ばすと一緒に、教室から飛び出した。元きた道を戻ろうと足先を向けるが、すぐに方向転換して学校の奥へと突き進む。
 エレベーターに繋がる扉の向こうからは、ひとりではない人の気配が漂っていた。

 ――しくじったわ……っ!

 ストッキングのせいで滑る足に力を入れ、音もなくスヴィーチェは廊下を走り抜ける。まるで本物の学校を疾駆しているようだ。それほどにこの地下の学校もどきは広く、間取りもよく似ている。

 ――こんな広い施設で、出入り口がひとつなわけないわ。きっと地上へ出るための似たような場所がいくつかあるはず。

 先ほどの扉の位置から考えられる他の出入り口は、恐らく校舎の四隅。スヴィーチェは走りながらも冷静に脳内に見取り図を描き、最短経路を弾き出す。
 諜報員は情報を手に入れ、持ち帰ることができて初めて任務達成となる。翻る白衣のポケットから円柱形のコンパクトカメラを取り出し、スヴィーチェは手当たり次第にシャッターを切っていく。

 ――あとは、この先を左に曲がれば――。


「――っあ!」

 口を突いて出てしまった驚きの声を、スヴィーチェは慌てて噛み殺し、瞬時に反転する。

 予想は正しかった。曲がった先には、無機質な廊下に繋がる例の扉があったのだから。しかし、同時に予想が不足してもいた。

「周ちゃんってば、そんなに足早かったんだぁ」

 先に下りていたはずの白雪の存在を、失念していたのだ。

「ウケる~」

 そんな声が背後から聞こえるが、どうせ彼女はちっとも笑ってはいないのだろう。
 足音はしない。ただし、追ってきている気配はある。彼女が諜報員なのは間違いなかった。この場にいることが何よりの証拠であるし、足音なく走れる女子高生が普通であるはずがない。
 そんな余計なことを考えていたせいだろうか。
 角を曲がりきれず、足を滑らせそのままスライディングするように転んでしまった。

「痛……ッ」

 爪が引っかかっただけで破れるようなストッキングに防御力など微塵もなく、下になった左足はビリビリにストッキングが破れ、血が滲んでいる。しかしスヴィーチェはすぐに立ち上がりまた走り出した。
 


 
 何という失態。
 それほどにスヴィーチェは動揺していた。地下に学校があることもそうだが、それにより噂が真実味を帯びたことが何よりの恐怖だった。

「白雪さん、上履きで登下校するのはやめなさいって言ったでしょう」
「あはは、ごっめぇん。もう癖が抜けなくってさぁ」

 黒板を背に立つスヴィーチェと、教室の後ろから入ってくる白雪。
 彼女と邂逅した逆サイドにあるだろう扉を目指したのだが、見取り図通りに進んだ先にあったのは扉ではなくただの教室であった。そりゃそうだ。あるだろうと勝手に予想したのはスヴィーチェなのだし、似ているからといって、本当に地上の学校を模しているとは限らないのだから。

「注意しようとあなたを追いかけたら驚いたわ。地下にも学校があるだなんて……ねえ、白雪さん。ここはなんの学校なのかしら?」
「さすがにそれは無理があるって、周ちゃん。今更過ぎでしょ」

 掌を上向かせ大げさに肩をすくめる白雪は、机の間を縫って、コツ、コツとわざと足音をたてて近づいてくる。まるで獲物が怯える反応を愉しむライオンだ。

「で、周ちゃんはどこの国の諜報員なのかなぁ?」
「だから、あんなにしつこく私の素性を知りたがったのね。失敗したわ、あなたに出身国を教えたのは」

 瞬間、先ほどまで薄ら寒い笑みを浮かべていた白雪の顔から、スッと温度が抜け落ちた。

「कैसा चल रहा है? कुत्ता」

 スヴィーチェは耳を疑った。

「Tu es une telle femme. Se faire chier」
「は?」
「打飛机」
「え、ちょっ、な、なんなの」

 突然、白雪の口から繰り出され始めた、理解出来ない言語の数々。

「Me pregunto si los Puta no entienden.」
「っだからさっきから何を言ってるの!?」

 理解出来ない言葉に苛立ちを募らせるスヴィーチェだったが、次の言葉はいとも簡単に理解出来た。

「Сука , которая много говорит」
「――っ誰が豚ですって!!」

 ニヤリ、と白雪の片口が上がる。

「西欧国出身だなんて嘘ばっかり、周ちゃん」

 楽しそうにケタケタと笑う白雪を見て、スヴィーチェは嵌められたのだと理解した。

「北連邦の諜報員さん」

 どうりで、聞き覚えのある言語なのに理解ができなかったはずだ。

「スラングなんか覚えて悪い子ね、白雪さん」
「ごめんなさぁい、センセ」

 そして、頭が良い子だ。
 ただの問いかけならば無視できたし、意図を読み取れたかもしれないのに。さすがに侮辱されたら、言い返さずにはいられないのが人の性だろう。

 白雪は両手で教卓に頬杖をつき、顔を引きつらせたスヴィーチェを眺める。

「言ったでしょ。周ちゃんには、この仕事は似合ってないって」
「ああ……そういう……」

 同じ台詞を食堂でも聞いた。なるほど、その頃には自分の身などばれていたわけか。思わず口が引きつってしまう。
 スヴィーチェは、チラと横の廊下へと視線を向けた。
 ずっと鳴り響いている警報音と、目障りな赤い警報ランプは、既に意識に馴染み気にもならなくなっている。

 ――逃げ道は……無理ね。

 袋小路の先にあった教室だ。白雪から逃げだしても、その先には別の誰かが待ち構えているだろう。

「でも、まだよ……っ!」

 白衣の下から脇腹に隠していた銃を抜き、胸元に隠していた銃弾を手にする。

「それって、周ちゃんの嫌じゃないこと?」

 チャンバーに銃弾を込めようとしていた手が、ビタッと止まった。

「嫌……?」

 命令に好き嫌いなどという感情などない。命令は命令で、遂行すべきものでしかない。
 しかし、スヴィーチェのこめかみにはツーと汗が流れる。


「――っ! 私はこの仕事に誇りをもってるわ、見くびらないで!」

 芽生えかけた思いを消すように頭を左右に振ると、スヴィーチェは素早く弾を込め、銃口を自分のこめかみに押し当てた。

「白雪さん、もう上履きで登下校しちゃ駄目よ」

 言い終わると同時に、スヴィーチェは引き金を一気に引いた。
 カコン――そんな銃声とはほど遠い間抜けな音が、教室に響く。

「………………は?」

 思わず、スヴィーチェの口からも間抜けな声が漏れる。
 もう一度撃鉄を起こし引き金を引いても、結果は変わらなかった。

「何が――」

 起こったのか、と全てを口にする前に、教室の前方入り口から声が重ねられる。

「じゃっじゃじゃ~ん。牧野っちですよ~」
「牧野……先生……? どうして、こんな所に……」

 実に彼らしい覇気の無い登場だった。

「これなーんだ」

 彼の手には、見覚えのある銃弾がひとつ握られている。

「ラドフォード先生に抱きつかれた時に、少々拝借しちゃいました。大丈夫です、代わりの弾をやわらか双丘に入れておいたでしょう?」
「はあ? 牧野っちが抱きついてたじゃん。任務にあかせたセクハラだぁって思ったもん」
「いやいやいや、任務は任務だけどセクハラではないからね?」
「はあ? エロ親父」
「まだ二十七だもん!」

 スヴィーチェには、二人の教師と生徒らしくない会話を疑問に思う余力も残されていなかった。

「代、わり……?」

 ただ、現状を確認する言葉を紡ぐのでやっとだ。
 スヴィーチェの呻くような言葉に、牧野は「そう」と親指で銃弾をキンと弾いた。

「そっちのは火薬なしの飛ばない弾。ただの金属の塊ですよ」
「そ、んな……」

 途端に、へなへなとスヴィーチェはその場にへたり込んでしまった。わけも分からず、どうしてか目からは次々に涙があふれて、足を濡らしていく。
 教卓を回り込んできた白雪が隣にしゃがみ込んだ。足音はやはりない。

「やっぱり嫌だったんじゃん、周ちゃん」

 呆れたように笑いながら言う白雪に、スヴィーチェは顔を上げ何か言い返そうとするが、口からは嗚咽しか出てこなかった。
 死ぬのが嫌だなんて思うことが間違っているのに。多くの人の命を奪ってきた自分が、今更そんなことを思うのはおこがましくて。
 でも――。

「……っそうよ……死にたいわけ……ないじゃない……っ」

 一度口にしてしまえば、もう止まらなかった。

「だけど、死ななければどのみち私は生きていけないのよ。生き方も場所も、あそこしか知らない犬なんだもの」

 ログラフの犬。それが自分なのだから。

「――っさて。それで私はどう処分されるのかしら? 拷問? それとも二重諜報員に仕立てる? ああ、殺すつもりならひとつ言っておくわ。妙にスッキリさせてもらったお礼とでも思ってちょうだい。私の心臓が止まると学校に仕掛けた爆弾が爆発することになってるわ。だから――」
「あ、ご心配なく。花壇に埋められていた爆発物二つはもう回収されて、今頃ばらされてると思いますよ」
「……はい?」

 吐き出すものを吐き出して心が軽くなったスヴィーチェは、舌も軽快に回していたのだが、牧野の被せるようにして言われた言葉で舌を止めた。

「あれ、気付かなかったですか? ずっとラドフォード先生の行動は、全校生徒から見張られてたんですよ」
「ぜっ、全校生徒!?」
「この国は義務教育課程で諜報学があるんです。だから、四度目の世界大戦以降に生まれた人達は、基礎的な諜報くらいは皆できますし、外からの先生なんて、疑ってくださいって言っているようなもんですから」

 開いた口が塞がらなかった。四度目の世界大戦の終結は四十三年前だ。つまりはその年齢以下の人間は皆諜報員ということで。

「ありえないわ……」
「全員が全員おかしいと気付かないもんだよねえ。おかしいことが普通になるし」

 今になってスヴィーチェは、第五列島という名の本当の恐ろしさを知った。
 国が主導しているからという皮肉でも揶揄でもなく、本当に国全てが諜報機関だったとは。確かに、諜報が普通の世界で諜報員を探すのは至難だ。

「噂は本当だったわけね。学校で諜報員を養成してるって……でも、それなら最初から採用しなければ良かったのに」
「ああ、あの噂を流してるの、あたし達だよ」

 ケロッとして言われた言葉は驚愕の事実だったのだが、もう驚くのすら面倒になってくる。先ほどから驚き以外の感情が沸いてこない。

「ど、どうして、わざわざ自ら危険を招き入れるようなことを?」
「ような、じゃなくて招き入れてるんだよ、わざと。ゴキブリを捕まえるのと一緒。入ってきたの捕まえる方が楽だし効率いいじゃん」

 もう無理。怖い。考え方が根本的に違う。どこが平和主義だ。ゴリゴリの好戦主義ではないか。

「中途の教師採用枠なんて、怪しい人間の誘導枠だしねぇ」
「噂のおかげで、怪しい人物はとりあえず学校に近付こうとしてきますからねえ」
「冥土の土産に色々教えてくれてありがとう。もういいわ、驚きすぎて疲れたもの」

 最初と言うより、もう北連邦の諜報部からそもそも騙されている。勝機など最初から微塵もなかったということを思い知らされ、スヴィーチェの頭はどんどん項垂れていった。

「爆弾も解除したんなら、さっさとひと思いにやってちょうだい」

 深呼吸を一回。それだけで不思議と心は穏やかになった。
 命令で死ぬのではない。彼女達に大敗を喫したから。誰でもない自分が、負けを認め、運命を受け入れるから死ぬのだ。

「……不思議ね。今初めて、自由になれた気がする」
「自由ってことはフリー。諜報員ってことはエージェント。つまり、フリーエージェントってことだよね、周センセ?」

 何を言っているのか、この奇抜少女は。スポーツ話がどうやったら紛れ込んでくるのか。

「周ちゃん、その命いらないんだったら、あたしが貰ってあげる」
「は……はあ~~~~!?」

 素っ頓狂な声を上げてしまった。さすがにこれは、黙っていろという方が無理だ。

「冗談はやめなさい、白雪さん」

 しかしそう言えども、白雪はピンクの爪が愛らしい手で頬杖をついて、ニコニコと見てくるばかり。「冗談だと思う?」と顔が言っていた。

「一年前に新しい課ができたんだけど、まだ人数が少なくて。ちょっと変わった課だから、人を選ぶんだ」
「だったら、自分の国から選びなさいよ!? いっぱい諜報員はいるんでしょ」
「言ったじゃん。ちょっと変わった課だからって。普通の諜報員じゃ手に余るんだよねえ」
「私は普通の諜報員なんだけど……」

 ごくごく普通に、北連邦で男性諜報員と同じことを教えられて育った諜報員なのだが。特殊なことなどなにひとつない。自分で言うのは悲しいが、替えが効く諜報員だという自覚もある。
 しかし、首を横に振り続けるスヴィーチェに対し、白雪もニコニコと笑みを向け続けるのみ。

「ねえ、白雪さん。あなたはいったい何者なの?」

 白雪はいつか写真で向けてきたような、妖艶とも言える笑みを浮かべた。ニィと口端が深くつり上がっている。

「『ステルス・ドッグ』」

 スヴィーチェは聞き慣れない言葉に、口の中で小さく復唱する。

ステルス不可視の……ドッグ?」
「あたし達の諜報対象は、諜報員。味方の皮を被った犬や、周ちゃんみたいのこのこやってきた犬を噛むのがお仕事」

 さりげなくディスられたが、しかし事実その通りなので言い返せない。
 そして白雪の言葉に、なるほどとスヴィーチェは思った。これは諜報派遣立国ならではの問題なのだろう。外の国に派遣されている内に、そのまま抱き込まれて、二重諜報員にされる可能性が高いことがうかがえた。

「でも、どうして私なんかを誘うの」

 ずっと笑みを湛えていた白雪の目が、一瞬揺らいだ気がした。

「元々誘うつもりはなかったよ。現に、周ちゃんのお仲間ちゃん達には死んでもらったし」

 スヴィーチェの目が見開いた。十代の少女が言うにはいささか勝ちすぎた台詞だ。

「命乞いするし、往生際悪く罵ってくるし、同じ諜報員として恥ずかしかったなあ。でも……周ちゃんは、嫌でも命令のためなら自分で死ねるし、安心だよ」

 安心と言ったときの白雪は、自嘲するように鼻で一笑していた。自分より幾分か幼い少女が、自分よりも遙か大人に見えた。酸いと甘いと苦いの他に、痛いまで知っているような。

「……死を前にしてね、自ら引き金を引ける人って中々いないんだよ。人間皆弱いからさ」
「そういう人間かどうか確かめる術もありませんからね。本当の死地なんて、そうそうつくれるもんでもありませんし」

 言葉を挟んだ牧野に、白雪はもう噛みつかなかった。二人は意識を共有しているかのように、同じように視線を床へと落としていた。
 しばしの沈黙の長さが、その共通意識の重さを表わしているようで。しかし、パッと白雪の視線が元通りに向けられれば、彼女はまた闊達に笑っていた。

「それに、犬の周ちゃんにはちょうど良いでしょ?」
「……どういう意味よ」

 豚呼ばわりの次は犬呼ばわりか。
 白雪はスヴィーチェの胸元を指で強く押した。

「犬だって、自分の主人くらい選びたくない?」

 図らずもそこはちょうど、何かを埋められた所。

「そろそろ親離れしてみたら? 『スヴィーチェ=ロフィウル=周』ちゃん」

 スヴィーチェは目を瞬かせ、次の瞬間、腹を抱えて丸まるようにして大笑いした。
 人は驚きを通り越すと笑えてくるのだということを、生まれて初めて知った。そして、自分はこんなに笑える人間だったのだということも。
 彼女はどこまで知っているのか。
 いや、きっとどこまでも知っているのだろう。祖国も第五列島の『派遣』を使った過去があるのだから。どうりで祖国がこの国に対して躍起になっているはずだ。

「ねえ、スヴィーチェ。あたしと一緒に飼われてよ」

 死にたくないと気付いてしまった。
 生きる道があると――自分が必要とされていると知ってしまった。
 色々と言ったが、とっくに答えは出ていたのかもしれない。

「そうね。フリーエージェント権を行使するのも悪くはないかもね」

 これも運命だ。ならばこれまで通り、受け入れてみても良いのかもしれない。


 
「あ、ちなみに牧野っちがうちの課の一番偉い人ね。つまり飼い主だよ」
「うそっ!?」

 あんな怠惰の集合体みたいな人間が。ログラフと比べてあまりにも違いすぎる。

「言ったじゃん、嘘つきだって」
「嘘つきって……普通そういう場合には使わないってぇ……」

 嘘つきと聞いて、誰も素性自体を偽っているとは思わないだろう。
 スヴィーチェはチラ、と牧野を横目に映す。確かに、格好はいつもと変わりないくたびれたものだったが、纏う雰囲気に気怠さはない。指先で銃弾を弄ぶ姿からは、堂々とした強者感まで醸し出されている気がする。

「……今度は牧野の犬って言われるのねえ……」

 スヴィーチェは絶妙に嬉しくない別称に、大きなため息を吐いて項垂れた。

 しかし、不思議と嫌ではなかった。


↓余話 ※「それぞれの裏側で…」

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#創作大賞2023

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