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社会はなぜ存在するといえるか?(ジョン・サール『社会的世界の制作』批判)

 ジョン・サールは『社会的世界の制作――人間文明の構造』において、社会がどのように存在するかを解明したと主張した。サールの社会存在論は、制度的事実が言語によって創出され維持されるということから、「言語が成立すれば社会も既に成立している」と考えるものである。サールはこれをもって「社会はいかにして可能か」という古くからの問題に終止符を打ったと宣言している。

 しかし、これは単なる問題の一段ずらしに過ぎない。サールは「言語はいかにして可能か」という問題にいまだ答えていないからである。(Searle 2010=2018 4章は「言語が可能であるとはどういうことか」を後知恵的に解説したものであって、「いかにして」(とりわけ他者との間のコミュニケーションの成立において)を解決したものではないと私は考えている)。

 こうしたサールの言語万能主義(と私は呼びたい)は、いたるところに顔を出している。たとえば以下の箇所。

地位機能は、存在すると表象されない限り存在することがない。だから地位機能が存在しているときには、必ず想像力がなんらかの形で働いている。私有物、結婚、政府――これらの地位機能が存在するためには、何かを元来それではないものとして扱う必要があるからだ。ちなみに制度的現実の創出と維持に不可欠なこの荷水準での同時思考能力を、人間の子供は個体の発達過程のかなり早い段階で獲得する。幼児でも「じゃあ僕がアダムで君がイヴね。それでこのブロックがリンゴだからね」などと言い合ったりして、ごっこ遊びができる。〔…〕人間が持つ制度的事実の創出能力の起源をここに求める議論は一利なしとは言えまい。〔…〕しかしこの一切が、言語無しには全く不可能であることにも注意が必要である。

(Searle 2010=2018: 190-1)

 ここからサールは「共通言語を獲得すれば社会もすでに獲得されている」(Searle 2010=2018: 191)というおきまりの結論を導き出す。サールは言語があればごっこ遊びが可能になるという――なぜ?

 人間のみが「ふりをするふり」をすることができる。このことから始めたい。動物や昆虫、植物さえのなかにも「ふりをする」ものがいることは広く知られている。しかしそうした動物たちでさえも、ふりをするふりを行うことはない。それは彼らがある表象に複数の対象が対応する言語ではなく、行為と対象が一対一に対応する記号の次元に生きているためである。これはラカンやソシュールなど「古典的」な「哲学者」たちも言っていたことである。したがって私はサールの「社会的現実に関する哲学を展開した哲学者たちは、私が思いつく限り全員が言語を自明視している。かれらは人々が言語を持っていることを前提とした上で、『社会の形成はいかにして可能か』と問うたのである」(Searle 2010=2018: 191)という批判が妥当であるようには思われないのである。

 私は、社会がごっこ遊びmake-believeによって創出される、と主張したい。この概念はKendall Waltonによるフィクションの分析哲学から借用した概念であるが、これにより私が主張したいのは次のことである。「にもかかわらず、あえて」というモメントがなければおそらく社会/社会学は成立し得ない。リンゴではないにもかかわらず、あえてそれをリンゴとして扱う。愛情の必然的な表現ではないことを知っているにもかかわらず、あえてその指輪を受け取る。社会は物ではないにもかかわらず、あえて「物のよう」とする。主観的意味は客観的には決して理解しえないにもかかわらず、あえて「理解」できるとする。内容と形式は決して明確には分割できないにもかかわらず、あえて「分割」する。

 ここにあるのは、おそらく社会史上/社会学史上もっともありふれた、根源的な跳躍である。あるいは社会/社会学の根源的なmake-believeである。ごっこ遊び、虚構性といってもよい。

 しかしそれは単なる虚偽ではない。100年前の社会学者ジンメルは「理想的な社会学的世界」である社交について次のように言っている。「リアリティをまったく離れた遊戯や芸術が嘘でないのと同じように、社交も嘘ではない」(『根本問題』: 80)。またジンメルは社交・遊戯・芸術と現実との関係について、次のようにも言っている。

 なるほど、社交の本質は、人々のリアリスティックな相互関係からリアリティを切り離すところにあるだろう。自由に動いて、自分の外にもう何の目的も認めない諸関係の形式法則に従って、愉快な国を打ち立てるところにあるだろう。けれども、この国にエネルギーを与える無尽の泉は、やはり、自ら自己を規定する諸関係のうちに求むべきではなく、現実の人間の活動のうちに、彼らの深い衝動や信念のうちに求むべきものである。〔…〕これは、リアリティの模写と一切縁のない、極めて自由な、極めてファンタスティックな芸術といえども、空虚な虚偽に終わらないためには、リアリティとの深く正しい関係から養分を得なければならないのと同じことである。確かに芸術も生命を超える(・・・)ものであるが、それは生命(・・)を超えるものなのである。

(『根本問題』: 89)

 ここでジンメルが社交について言っていることはほぼそのまま社会学(科学)についても当てはめることができると思う。社会学(科学)は現実を現実そのままに見るのではなく、ある形式にそって体系化するものである。その体系化はやがて現実を超え出た大系化の欲望を生むだろう。しかしその大系もまた、現実との関わりを断ってはいないし断ってはいけないのである。この社会学(科学)と社交・遊戯・芸術の類似はゆえなきことではない。ジンメルは『社会学』冒頭で次のように言う(ほぼ同じことは『根本問題』社交章でも触れられている)。

 人間の認識作用は実際上の必要から発展した。なぜなら真理を知ることは、人間の相互の競争と同じように人間以外の存在に対しても、生存競争における武器だからである。このことが正しいとしても――人間の認識作用はもはやこの由来にいつまでも拘束されず、行為の目的のための単なる手段から、それ自体で究極な目的となっている。それにもかかわらず、認識作用は科学という自主的な形式においてさえ、実際への関心にたいする関係をすっかり断ち切ってはいない。

(『社会学上』: 11)

 生命に奉仕するという目的から生じたものが、それ自身の目的のために生命を奉仕させるようになる――ジンメルが「生の転回」と呼ぶそれは、科学と社交・遊戯・芸術において共通するモメントである。

「にもかかわらず、あえて」のmake-believeを通してしか扱うことのできない社会とはいったい何であるのか? その問いに答えることはけして容易ではないが、しかし次のことは言えると思う。社会は、我々にごっこ遊びmake-believeをさせずにはおかない対象なのだ、と。

 このことを踏まえた上でサールの議論をみると、サールの議論はいかにも痩せたものに思われてしまう。それは、サールがかつての「社会的現実に関する哲学を展開した哲学者たち」と異なり、「にもかかわらず、あえて」という社会において必要な関係から切り離されたところに理論を築こうとしているために思われる。サールが「言語は成立し得ないにもかかわらず、あえて言語は成立するとする」と「宣言」するとき、初めてサールの理論は面白くなるように私には思われる。無論それは過去の「哲学者たち」のヴァリアントになることを意味しもするのであるが、私にはそれ以外の方法が思い浮かばないのである。

参考文献(訳文には適宜手を加えた)
Searle John R, 2010 “Making the Social World: The Structure of Human Civilization”(=三谷武司訳,2018『社会的世界の制作――人間文明の構造』勁草書房)
Simmel Georg, 1908 “Soziologie”(=居安正訳,1994『社会学(上巻)』『社会学(下巻)』白水社)=『社会学上』『社会学下』
――, 1917 “Grundfragen der Soziologie: Individuum und Gesellschaft”(=清水幾太郎訳, 1979『社会学の根本問題』岩波書店)=『根本問題』

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