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君が芸術家である理由

芸術について考えたい。

地球惑星科学科を出て、その後ビジネスの世界に入った僕は、芸術には人並み以下にしか、いや、全くと言っていいほど触れてこなかった。それはもはや「別の世界の存在」だった。

でも、結婚相手がかつて芸術論を学んでいたこと、その後京都に来てコーヒー焙煎家になって様々な職業の人と知り合うようになると、その中に少なからず「芸術家」と呼ばれる人たちがいたことで少しずつ芸術について意識するようになった。(ちなみに京都は芸大や美大が多く、お店をしたり、何かしら活動したりしていると、それなりの頻度で芸術家や芸大の学生と知り合うことになる)

そしてあるとき、あるコーヒー焙煎家が「コーヒー焙煎は表現であり芸術だ」と言っていたという話を聞いて、そういう考え方もあるのかと驚き、より芸術ついて興味を抱くようになる。

そんな風に芸術に近づいていった僕だけれど、芸術について理解したいと思っても、絵の上手さや作品としての価値の高さなど分かりようもない。僕にできることは、(独学している)哲学の力を借りて「芸術とは何か」を考えることだ。

・・・

前置きが長くなったけれど、とにかく「芸術とは何か」を考えたい。そのために哲学の力を借りる。頼る哲学者はふたり、ハンナ・アーレントとニーチェだ。

アーレントの芸術観

ハンナ・アーレントは『人間の条件』の中で芸術について次のように書いている。

芸術作品の直接の源泉は、人間の思考能力である。(・・・)そして、思考にいくらかでも意味があるかどうかという問いは、生命に意味があるかどうかと問うのと同じように、答えられない謎である。思考過程は、人間存在の全体に密着して浸透しているので、その始まりと終りは、人間の生命そのものの始まりと終りに一致する。(『人間の条件』/ちくま学芸文庫/265-268頁)

人間が芸術を生み出すとき、それは「思考」から生まれると、アーレントは考えた。そして、人間は生きている限り「思考」する。アーレントにとって「思考」とは、人間の存在とは切り離せない行為なのだ。どうしようもなく生きることと密着している「思考」から、芸術は生まれてくる。

では、(源泉は思考だとして)人は何のために芸術作品という「物」を作るのか。 アーレントは次のように書いている。

活動し語る人びとは、最高の能力をもつ〈工作人〉の助力、すなわち、芸術家、詩人、歴史編纂者、記念碑建設者、作家の助力を必要とする。なぜならそれらの助力なしには、彼らの活動力の産物、彼らが演じ、語る物語は、けっして生き残らないからである。世界が常にそうあるべきものであるためには、つまり人びとが地上で生きている間その住家であるためには、人間の工作物は、活動と言論にふさわしい場所でなければならない。(同273頁)

アーレントは芸術を、活動と言論を世界に記録するため、そして、世界が活動と言論が行われるにふさわしい場所であるため、に必要だと考えている。

ここで補足すると、アーレントのいう「活動 action」とは、(ひとりきりではなく)複数人でこの世界に生きる人間が、他の多数の人間とともに暮らしていくための活動力であり、広い意味で政治に関わることを指す。そして、この「活動」、すなわち政治に関与することを、アーレントは〈人間の条件〉の一つにあげている。

すなわち、アーレントにとって芸術は、「人間が活動(政治)し、社会を形作っていく記録であり、次の活動が行われる舞台を用意すること」である。

人間の本質である「思考」が、〈人間の条件〉である「活動」を記録し、さらなる「活動」の舞台を準備する。

アーレントにとって芸術は、理性的で、またどこまでも社会的であり、人と人とを(ときには時間・空間を超えて)つなげる価値を持っていることが分かる。生涯に渡り大衆社会を研究し続けた政治思想家らしい芸術の位置付けと言えるのかもしれない。

ニーチェの芸術観

次にニーチェにとっての芸術について考えていくのだけれど、そのためにニーチェの独特な概念である〈力への意思〉について紹介する必要がある。

哲学者の木田元氏は、『マッハとニーチェ 世紀転換期思想史』の中でニーチェの〈力への意識〉について次のように説明している。

生は単なる自己保存をはかるだけのただ生きんとする意思ではなく、現にあるよりも「より大きくより強くなろう」とする〈力への意思〉なのである。(『マッハとニーチェ 世紀転換期思想史』/講談社学術文庫/238頁)

生命の本質は「より大きくより強くなろう」とする意思だとニーチェは考え、それを〈力への意思〉と呼んだ。そして、

〈力への意志〉としての「生(レーベン)」には、現状確保のための価値定立作用である〈認識〉よりももっと本質的な機能がそなわっている。それは、生がより高い可能性へと高まってゆく高揚のための価値定立作用である。ニーチェは、〈芸術〉こそがそれだと主張する。(同256-257頁)

ここで「芸術」が登場する。
ニーチェ自身の文章もこの本から孫引きしておく。

芸術は・・・高揚した生の形象や願望による動物的機能の挑発であり、ーー生命感情を高めるもの、その刺戟剤である。(『全集』第Ⅱ期第十巻、八三ページ)

芸術は生を可能ならしめる偉大な形成者であり、生への偉大な誘惑者であり、生の偉大な刺戟剤である。(同上、五四一ページ)

(同257頁)

木田元氏は、このニーチェの言葉から、次のように結論づける。

彼が芸術に、「生(レーベン)」の行く手を照らし、生をより高い可能性へと高揚せしめる機能を認めていることは、明らかに見てとれよう。この芸術によって高揚のための目安として設定されるのが〈美〉なのである。(同257頁)

引用が続いたので整理すると、ニーチェにとって人間が生きることの本質は「より大きくより強くなろう」とする意思(〈力への意思〉)であり、その意思を実現するために必要なものが「芸術」なのである。

芸術は、人間が生命体としての本質に突き動かされて、「生」をより高めるために生み出すものだと、ニーチェは考えている。

この芸術観はとても個人的で、本能的なものに感じられる。

芸術とは何か

ハンナ・アーレントとニーチェ、ふたりの芸術観を見てきた。

[アーレントの芸術観]
・理性的、社会的
・人間の本質である「思考」に基づき、〈人間の条件〉である「活動(政治)」にとって重要なもの

[ニーチェの芸術観]
・本能的、個人的
・人間の本質である〈力への意思〉に基づいて、「生」を可能とするために必要なもの

ふたりの芸術観は対照的ではあるけれど、よく見ていくと、どちらも「芸術とは人間の本質に基づいている」という思想では一致していることが分かる。

人間は、ただ生命維持のために食事をして眠るという生き物ではなく、それ以上の「何か」をして生きていく。これは人間の本質であり、その「何か」の象徴が「芸術」なのだ、と僕は理解した。

僕は芸術家だ!

ところで、ふたりの言葉から導き出した芸術観、そこから見えてくる芸術家の姿は、普段僕たちがイメージする画家や彫刻家などのいわゆる「芸術家」の姿には収まりきらない広がりを持っている。「特別な能力・技術を持った人間」だけが芸術家なのではなく、生きて活動している人間ならば誰しもがその範ちゅうに入りそうな気がしてくるのだ。

試しに、コーヒー焙煎家であり、コーヒー焙煎所の運営者である僕自身に置き換えて考えてみる。

僕が妻と共に思考しながら行っているコーヒー焙煎所運営という行為は、僕自身とお客さん、お客さんとお客さんの交流を生み出し、もっと言えば、コーヒー生産者やバイヤーとお客さんも間接的に交流する場を作っている。そして、新たなイベントや店舗という空間も(多くの人の力を借りながら)生み出している。これはアーレント的に言えば、「芸術」と呼べるのではないか。

そして、コーヒー焙煎とお店の運営という行為は、僕の「生」を充実させ、気づきを与え、より高い「生」へと導いてくれている。これは、ニーチェのいう〈力への意思〉の実践であり、ニーチェ的「芸術」と言えるのではないか。

こう考えると、「僕は芸術家だ!」と言いたくなる。そして、ふたりの哲学者の見ていた世界では、きっとこの社会を生き抜く多くの人が芸術家なのだ。

アーレントやニーチェを頼りに、自分を芸術家だと思って生きてみると、自分の人生、そして世界はもっと面白く見えてくるのではないかな。

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