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幸せって「みんな違ってみんないい」か?

誰しも、
幸せになりたいと
幸せでありたいと
思ったことがあるんじゃないでしょうか


ただそうしたときに言われる言葉として

今を大切に、幸せだと思いましょう、とかね
人それぞれの幸せがあるからあなたは幸せ、とかね

大層な言葉だとは思うし、
全くその通りだとも思う。

ただ、幸せって本当に「みんな違ってみんないい」でしょうか?

もしくは、幸せとは
幸せの連続という意味ではなく、
幸せな人間になるという意味ではないかしら?

え?それって同じ意味じゃないの?
って思う方もいるかもしれません

ここには明確に違いがあります
幸せ、には、どうあるべきか、の意味が
あるかないかの違いがあります。

幸せな人間になる、に

「幸せはみんな違ってみんないい」

の意味は含まれません。


例えば人を騙して得られた利で得られる快楽を感じている人は?
もしくは麻薬依存症で、快楽を連続させている人は?

大切な友人に贈り物をすることで得られる快楽を感じている人や
勇気ある行動をして認められることで得られる快楽を感じている人と同じくらい

幸せな人、でしょうか?


人類皆、幸福を目指しているということに
反感を抱く人はあまりいない気がします

私が行う行為や目指すもの、
すべてを大きく捉え直すと

「幸せのため」です

じゃあ幸せってなんだ?
って話になると、

「人間はどうあれば"よい"人間なのか」

という問いが重要になってくる と

アリストテレスは著書『ニコマコス倫理学』で以下のように述べています。

さらにここでは、より明確に幸福とは何であるかを語ることが求められている。おそらく、人間の「はたらき」が把握されるときに、明確に語られることになるだろう。というのも、笛吹きや彫刻家やあらゆる技術者にとって、また一般に或る働きや行為をする人にとって、よさや立派さということが、そのはたらきにはあると思われており、そのようにして人間にも何らかのはたらきがあるとするならば、人間にもまたよさや立派さがあると思われる。…われわれは人間のはたらきをある種の生と定め、それを分別(ロゴス)を伴った魂の活動および行為と定めているので、これらをみな美しく立派に成し遂げることは優れた人間に属し、それぞれが何かを立派に成し遂げることはその固有の卓越性に基づいてのことであるとしてみよう。…人間にとっての善とは徳に基づく魂の活動となる。

要はでいうと、

人間は幸福を一番の目的として求めていて
そのためには
人間としてどうあるべきなのか
とは不可分なんだよ。

そしてそのあるべき姿とは
有徳な行為者であること、なんだよ。

ってね

一方で
確かにというか
極めて論理的なので
その通りではあるんだけども

じゃあそうなると
人は幸せになれないんじゃないか?
って思うこの頃です。

シンプルに
幸せが目指す目標なら、
目指してる今、は幸せではないのか?

しかもアリストテレスの言う有徳な行為者って
めっちゃ難しいんですね
ハードル高い

じゃあ幸せってなんなんだろう


何かみなさんの幸福論に影響を与える文になっていたら嬉しいです〜

#倫理 #哲学 #幸せ #アリストテレス #みんな違ってみんないい #コラム