幸せになるために必要だと思うこと
以前も「幸せ」について書きましたが、
(URL「幸せってみんな違ってみんないいか?」)(https://note.mu/keke_katsumi/n/n228ebbe4f472)
今回は
「幸せとは何か」
「幸せを手に入れるにはどうしたらいいか」
について私の考えてることを書きたいと思います。
まず結論からお伝えすると、
私は
幸福は自尊心である
と考えています。
なぜかというのを
順を追ってお伝えさせてください。
まず、人は個々人の認識の中に生きている
かの有名なドイツの哲学者カントは
「認識が対象に従うのではなく、対象が認識に従う」
という言葉で説明したりしています。
…太陽が東から昇って西に沈む、あるいは太陽が地球の周りを回ると言った、健全な感覚でどう見ても客観的に見える正々堂々たる「現象」が、じつは地球から見た全人類の一致した主観像であり、全人類が気づかずにおちいる「仮象」であった。…同じように、人間の全認識機構において、通常は客観的とみなされ、その意味でありのままの姿をあらわす条件とされているものも、ひょっとしたら単なる主観の性質かもしれない。
(引用:「カント入門」石川文康)
である以上、
周りのことは自分の認識でいかようにも変わります。
あなたがどう思うか、どう定義をするかで
全ての物事は「変わる」ということです。
このことは真理にたどり着くために、
たびたび批判的な意味で用いられてきました。
ただ、この考えは幸福において
とても大切な要素であるように思います。
あるレンガ積みの逸話をご存知でしょうか。
ある村にレンガ積みの職人がいた。
彼の目下の仕事は村に新しく建てる協会のレンガを積むことである。
彼は、その単調な仕事にほとほと嫌気がさしていた。
そこにある村人が通りかかり、「やりがいのある仕事だね」と言った。
それを聞いた職人が「レンガを積むだけのつまらない仕事さ」と答えると、村人は大きく手を広げて、「あんたのおかげで新しくて、このあたりでは一番高い協会ができるんだから」と言った。
そこで、職人は「新しい、自慢できる協会を作ってると思えば、すごいことだな」と気づいた。
翌日、今度は腰の曲がった老婦人が通りかかり、職人に尋ねた。
「何をしているの?」
「新しい、村の誰もが自慢できる協会を作っているんだ」
「それはすごい、そこで祈れば、私のこの曲がった腰の痛みや、夫に先立たれた悲しみも癒されるかもしれないね」
その言葉を聞いて、職人は、自分が作っているのは単なる建物ではなく、それによって街の人の心が癒される場であることに気づいた。…
(引用:「モチベーション・マネジメント」小笹芳央)
この逸話で感じるのは、
私たちは自分の行動、存在を私たち自身の力で定義し直すことができるということです。
つまり、
幸福は自分をどのような存在であると考えるか、で得ることができると、
そこが嫌悪であれば不幸に、誇りを持つことができれば、幸福であることができる。
それは金銭でも身分でも栄誉でもなく
ただひたすら、自分を誇れるか。
それが幸福を左右する不可欠な要素だと考えます。
ただ一方で、自尊心だけではあまりにも足りません。
なぜか?
以前書いた「幸せってみんな違ってみんないいか?」では
幸せには「美徳」つまり善し悪しのようなものが絡むのではないか?というような話をしましたが、
今回は逆に
自己の認識だけに閉じた幸福論として成立しています。
自己の認識のみにおいて幸福が成立するのであれば
そこにもはや他者は必要なく
関係というものは必要ないと言えるのではないか。
(これは自己の誇りというものを他者とは関わりなく持てるという前提に立てばですが…)
小学生の時に私は、
私が主人公のストーリーを、何か大きな力に見させられていて、
周りの人間は生きてるかのように振る舞うけど、
本当は皆意思を持たない人形であると思っていたことがあります。
いまだに私は、そうではないことを証明できませんし、
実際、その世界に生きることはものすごく楽であるような気すらします。
「人と生きること」が幸せにとって必要であるような世界に飛び込めるほうが幸せだと言い切れるでしょうか?
ただ私は、そうあってほしいと思っていますが…。
長くなってしまいましたが、
ひとまず、今私が考える幸福論でした〜
なにか皆さんが考えるきっかけになる文であったら嬉しいです。