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[短編小説]アバチャ川・保険計理人・山葵

 立派な木目のドアをノックすると、中から「どうぞ」の声。
 ドアを開けると、しかつめらしい顔付きをした男性が奥のデスクにいた。
 男性の名は央澤おうさわ龍彦たつひこ。この大学 ――僕の母校でもある―― の農学部で教授職に就いている。
 僕は門外漢なのでよく知らないのだが、植物分野の第一人者で学会でも高名らしい。
「鈴木教授の紹介で参りました、佐古川さこがわ道朗みちろうと申します」
 僕はそう名乗り、手にした履歴書を差し出す。
「ああ、鈴木君から話を訊いてるよ。なるほど体力はありそうだ、うん」
 教授は僕を応接用のソファーに座らせると、テーブルを挟んだ向かい側に座り、僕の履歴書に目を通し始めた。
「卒業は、一昨年と。鈴木君のゼミに居たという事は動物行動学の分野だね。卒業後は就職せずにアルバイト……ああ、私は気にしないよ。就職するもしないも人それぞれだ、うん」
 特に何かこころざしがあって就職しなかったという訳でもない。どうにも就職活動する気持ちが湧かず、モラトリアム気分のままいつの間にか卒業してしまっていた。そして、今に至るまで何となくアルバイト生活を続けている。
 紹介してくれた鈴木教授は在学時のゼミ担当で、卒業後何度かアルバイトとして研究の手伝いをさせてもらった事がある。その縁で、央澤教授が募集を始めたアルバイトの話が回ってきたのだ。
 仕事の内容は央澤教授の専門である植物学に関する実地調査のアシスタントで、一週間以上拘束される。一応教授という立場上、講義を受けねばならない学生をそんなに長く拘束できない為、基本的には学生以外でアルバイトを募っているのだそうだ。
 ほとんど荷物運びや雑用になるが、詳しくは面接に合格してから教えるとしか聞いてないと鈴木教授は言う。そこに不安を感じない事もなかったが、大盤振る舞いの給料がそれを吹き飛ばし、紹介してもらう事を決めた。
「結構色々な仕事をしてきたんだね。そういう経験が何かの役に立つかもしれないな、うん。
 ……ほう、高校生までラグビーをやってたのか、なるほど道理で良い体格だと思った。それなら体力は問題なさそうだね。海外に行った事は? そうか、ならパスポートも持ってるね、うん」
 央澤教授は履歴書と僕の顔を交互に見ながら雑談のような問答を重ね、最後にこう言った。
「よし、佐古川君、採用だ。
 出発は一ヵ月後、成田空港に集合だ。パスポートを忘れずに。
 行き先はカムチャツカ半島だ!」

 それからの一ヶ月間、日雇いのアルバイトで小銭を稼ぎながら旅支度をした。ある程度までなら購入した物の費用を負担してくれるのがありがたい。もちろんカムチャツカ半島までの旅費だって全て出る。大学というものは予算が削減され続けていると聞いていたが随分太っ腹である。
 また、まだ全員決まってはいないが僕と同様アルバイトを含めて数人のチームを組むとも聞いた。となれば人件費やら旅費やらは相当な額になる。よほど金持ちのスポンサーが付いてくれたのだろう。まあ僕としては最低限給料が出てさえくれればその辺は正直どうでもいいのだけれど。
 成田空港の遠さも相俟あいまって出発の日は朝早く起きねばならなかった。基本的に夜型なので寝坊が心配だったが、カムチャツカ半島へ行く便は成田空港からしか出ていないのでこればっかりは仕方がない。
 どうにか遅刻せずに待ち合わせ場所に辿り着くと、既に調査チームの面々は全員集合していた。
 調査チームのメンバーは央澤教授と僕の他に甲頭こうどう浩二朗こうじろうという学外の男性、それに見浪みなみ亜早子あさこという若い女性の計四人だ。この他に、現地でコーディネーターとガイドが加わる。
 実は彼らと会うのは初めてではない。メンバーが決まった時点で央澤教授の研究室に呼び出され、顔合わせを行ったからだ。

「どうも、甲頭です。よろしく」
 甲頭氏はそう自己紹介を始めた。
「央澤君とは学生時代からの友人でしてね。今回是非にと参加させてもらったんですよ。新種を発見するところをこの目で見たいと思いましてね」
 彼は長らく保険経理人を務めた後に会社を辞め投資家に転身したという。どうやら彼こそが今回の調査のスポンサーらしい。ただ偉ぶったような所はなく、フランクな話し方で親しみ易い印象を持った。う
 保険経理人というのは統計学やなんかを駆使して保険料を決めたり商品企画をしたりなどする、保険会社の中ではかなり重要な仕事なのだそうだ。
 甲頭氏はその頭脳を投資という新たなフィールドで活用する事に決め、職を辞して独立したのだ。
 次に見浪さん。実はこの大学の学生だ。学生は採用しない方針ではなかったのかと思ったら、講義が無くてヒマだから良いのだという。
「いやあ恥ずかしい話なんスけどね。本当ならこの三月に卒業する筈だったんス。ただうっかり単位の計算を間違えちゃって。だから今年は取らなきゃいけない講義が一個しかないんで、めっちゃヒマなんスよね」彼女はそう言ってガハハと笑った。
 そんな事情を知っているゼミの担当教員からアルバイトの話が来たので紹介してもらったそうだ。僕と似たような経緯だ。
 専攻は地質学で、その辺りの知識を買われて採用になったらしい。
 女性なので体力はどうかと思ったが、幼い頃から女子相撲をやっていて高校生の時には全国大会に出た事まであるのだと自慢気に語られた。なるほど、そう言われて見るとガッチリとした体格をしているのがうかがえる。人柄は明るく豪快だし、これなら多少過酷な調査になっても大丈夫そうだと思えた。

 各々の自己紹介が終わると、次にこの調査の目的やプランが改めて央澤教授から説明された。大まかには聞いていたものの、今回はより詳しく具体的な話だ。
 聞けば、カムチャツカ半島のアバチャ川(正直どの辺を流れているのか全く分からない)の源流の辺りに、山葵わさびの一種 ――おそらくは新種―― が生息している可能性が高いので、それを現地に調査しに行くという。
「ワサビって……握り寿司のあれですか?」僕は思わず質問した。すると央澤教授は至って真面目に答える。
「うん、まさにそれ、その一種だよ。太平洋戦争終戦後にカムチャツカ半島に渡った日本人移民の証言が情報源なんだ。開拓事業のさ中に目撃されたり、実際に食べられたりもしたようだ。その後移民事業は失敗してほとんど全員が帰国してしまって、今ではほぼ完全に忘れられてしまっている」
「ははあ、幻のワサビという訳ですね」僕が合いの手を入れると央澤教授は嬉しそうに話を続けた。
「そうなんだ。たまたまその元移民団の方から話を伺う機会があってね。調べてみると、カムチャツカ半島周辺の神話や言い伝えなどでも、その山葵と思われるものがあると分かってきたんだよ。いや、言い伝えと言ってもバカにしたものじゃない。そういうものを元に大発見を成した例は沢山あるからね。天然の山葵の新種となれば大発見だから、ずっと現地調査をしたいと思っていたんだよ。ただ資金の工面がつかなくてね」
 そこで央澤教授は甲頭氏の方を向いた。
「そこに救いの神が現れたんだよ。それが甲頭君さ。いやらしい言い方になってしまうけど、こいつ中々儲けててね。おまけに冒険好きと来てる。声をかけてみたら甲頭君自身も参加するという条件で出資してくれる事になったんだよ、うん」
「おっと、もうひとつ、実際に新種が見付かったら私の名前を学名に混ぜるってのも条件だぜ。よろしく頼むよ、ははは」
「そうだったね、ははは」
 央澤教授と甲頭氏は随分仲が良いらしく、互いに笑い合う。
 明るい雰囲気なのは良い。人数が多くなればなるほど衝突の機会が増える。最初のうちだけかもしれないが、それでもチーム内に悪い空気が無いに越した事はない。
「カムチャツカ半島の、えーと、エリゾヴォ空港?スか? そこまではどう行くんスか?」
 今度は見浪さんが質問した。央澤教授は、これから説明しようと思っていたんだと前置きして答えた。
「通常なら成田からの定期便を使うのだけど、それだとウラジオストク経由になって時間もかかるし体力も消耗してしまう。幸い臨時のチャーター便が成田から出るので、今回はそれで直接エリゾヴォに向かうよ。
 何しろ私や甲頭君みたいな年寄りには乗り継ぎはきつくてね。出発まで日があるのは準備期間もさることながら、チャーター便の都合もあっての事なんだ」
 学生の頃アルバイトをして爪に火をともすように旅費を貯めて何度か海外に貧乏旅行しに行った事はあるが、チャーター便なんて乗った試しが無い。これも甲頭氏の資金によるものか。
 今回の旅が気楽な物見遊山でないのが実に残念だ。

*  *  *

 飛行機はエリゾヴォ空港の滑走路に降り立った。伸びをしながら狭い座席を立ち、飛行機の外に出ると実に爽やかな初夏の気候だ。
 到着ロビーに出ると、『ようこそ 央澤様ご一行様』と大きく書かれた板を手に持った男性が居た。
「彼が今回の調査のコーディネーターだよ、うん」央澤教授はそう言って手を振る。
 彼はすぐ教授に気付き、こちらにやってきた。
「どうも、初めまして。ガブリールです」
 流暢な日本語で彼は挨拶した。多少モンゴロイド的な特徴はあるもののほりは深く、肌が白くて背も高い。そんないかにも外国人然とした見た目から想像が付かないくらい自然で滑らかな日本語だった。それでも少しイントネーションがこなれてないように感じる部分があり、それでようやく彼が日本語ネイティブではないのだと気付くのだった。
 ガブリールは僕らを連れて空港を出ると、駐車場に停めてあったライトバン(おそらく中古の日本車)で僕らをホテルまで連れて行った。
 その道中で、彼が日本に留学していたのを知った。さらに、母国ロシアに帰ってからも日本語を勉強し続けていたのだという。お陰で日本人相手の観光業はなかなか繁盛しているらしい。
 今日はエリゾヴォ市内のホテルで一泊し、本格的な活動開始は明日となる。都合の良い事にアバチャ川はこのエリゾヴォの街の真ん中を流れている。多少なりとも移動距離が少なく済むのは幸運だ。少しでも体力を温存できる。自室の窓からもアバチャ川の様子が見えた。中々大きな川だ。
 ホテルの近くのレストランで夕食をとりながら簡単に明日の予定を打ち合わせた。と言っても皆ビールを飲みながらの、ざっくばらんなものだ。

 翌朝、ガブリールに連れられて地元の店を回り、調査に必要な物資や装備を買い揃えた。
 次にレンタカーの手配だが、こちらは基本的にはガブリールが事前に全て済ませてくれていた。
 彼は僕らをホテルの駐車場に待たせてどこかに行き、しばらくして大型の四輪駆動車に乗って戻ってきた。かなり道が悪いということで四駆車を借りたという話は聞いていたものの、予想よりも大きな車種で少々驚いた。
 すると、その後ろからもう一台、同じ型の四駆車がやってきて、ガブリールの車の横に停車すると、中から一人の女性が降りてきた。
 割と小柄……と言っても僕よりちょっと小さいくらいか。顔かたちの特徴からするとガブリールと同様この土地の人間だろう。年の頃は僕よりも上だろうと思うが可愛らしい感じがする。
 ガブリールは彼女に歩み寄り、二言三言なにやら言葉を交わして、僕らの元に連れてきた。
「彼女がガイドのターニャです。クルマも彼女が運転します」
「ヨロシクオネガイシマス。таняターニャデス」
 ターニャは、流暢とは言えないがそれなりにちゃんとした日本語で挨拶してくれた。基礎をガブリールに教わった後、独学で日本語の勉強を続けているのだそうだ。
 また、彼女は難関のネイチャーガイド資格を持ち、カムチャツカ半島、殊にこの辺りの山や川は毎日のように歩いているというから頼もしい。
 しかし、そんなターニャでも新種のワサビの話は正直聞いた事が無いと断言されてしまった。
 それを聞いていささか不安になったが、「そもそも知られていたら新種にはならないよ」と央澤教授。それは確かにその通り。ならば自分にできる事を精一杯やるだけだ。結果はどうでも給料は出るんだし。

 僕らを乗せた二台の四駆車は滑るように走りだした。ガブリールもターニャも自動車の運転が大変上手い。田舎というものは大体そうなのだが、自動車無しでは暮らせない交通事情が故だろう。
 一旦ホテルに戻って山のような荷物を積むと、さっきまで広々としているように感じた車内は一気に狭苦しくなった。しかしそれに耐えるのも給料のうちだ。
 僕と見浪さんはターニャの運転する車に、央澤教授と甲頭氏はガブリールの運転する車にそれぞれ乗り込み、ホテルを出発した。
 まずはアバチャ川沿いの四七四号線を北上した。道路はちゃんと舗装されていて大型四駆では少し大袈裟に感じた。しかし、その先のコリャキの町で休憩した後、四七四号線を外れて枝道に入って行くと道路の舗装はガタガタになり、更には舗装すら無くなって納得した。
 二台の四駆はそんな道でもお構いなしにアバチャ川に沿って走っていったが、流石にスピードはぐっと抑えられた。安全の為には仕方ないが、中々目的地に近付く感じがせず、少し焦れる。
 辺りはすっかり山深くなり、アバチャ川もあれほど太く大きな流れだったのが見る影も無く痩せ細っていき、やがて道が途切れた。行く手には草木が蒼々と生い茂り、あたかも壁のように立ち塞がっている。
 この先はもう自動車で入る事は無理なので、一旦自動車はここに置き、全員で荷物を分担して奥に入って行くとターニャに告げられた。彼女が指差す方を見ると、人ひとり歩くのが精一杯な幅の曲がりくねった道 ――ほとんど獣道だ―― が山奥に向かって続いている。
 もちろんあらかじめ分かっていた事なので、それについては誰も文句を言わず、各々が各々の持ち分を背負いだした。当然ながらチームの中では最も体格の良い僕の荷物が一番大きく重いのだが、元々その為に採用されたのだからそこは納得済みだ。ただ、ガブリールもその体躯を活かして沢山荷物を持ってくれるので実に助かった。
 ガブリールと共に背負子しょいこに荷物をくくり付けていると、子供の頃親に連れられて登山した時に出会った歩荷ぼっかを思い出した。背負子で大量の荷物を背負い、徒歩で山小屋に物資を届けるハードワーカーだ。
 道端の岩に腰を下ろして休憩する時も立ち上がるときも、荒い息と言葉にならない声を上げていたのが印象に残っている。たまたまその後山小屋で再開し、休憩がてら話をした。登る時はあんなに辛そうだったのに、彼は歩荷という仕事が好きなのだと笑って言うのだった。
 流石に今回はそれより平坦な道を行く訳だが、ズシリと肩や腰に荷重がかかるとそれだけで体力を奪われるように感じる。
 今日は自動車を降りた地点から数百メートルほど進んだ所で野営し、翌日は早朝から歩いて源流を目指す事になった。
 当然源流でも野宿して調査をする事になる。今の季節は暑くもなく寒くもない気候で、天気も悪くないのは幸運だった。
 そうして辿り着いた場所は比較的日当たりが良く、地面も乾燥していて野営地にはぴったりだ。荷物を下ろした後、休む間もなくテントを張り、続けて食事の準備を始めた。
 野営の準備も食事の準備もガブリールとターニャが大部分を世話してくれたが、僕や見浪さんも手伝ったし、流石冒険好きというだけあって甲頭氏も中々気の効く働きぶりを見せてくれた。ただ、央澤教授だけはアウトドアには縁が薄いらしくて、何も手を出せず終始手持ち無沙汰な様子だった。
 食事が済むと、ガブリールとターニャがすぐさま片付けを始めた。
「君たち、随分あわただしいじゃないか。折角の食後だっていうのに落ち着かないよ」と央澤教授が言うと、ガブリールは真剣な顔つきでこう返した。
「すぐ片付けないとヒグマが匂いを嗅ぎ付けてやって来るんです。襲われたらひとたまりもありませんからね」
「ヒ、ヒグマだって? そりゃ大変だ。でも君、猟銃を持っているから大丈夫なんだろう?」教授は目を白黒させる。
 しかしガブリールは悲しそうな顔でかぶりを振る。
「一発で仕留められる事はほとんどありません。逃げる時間稼ぎがせいぜいですね。二発目が打てれば幸運です。普通はその前に食べられてしまいますからね」
 それを聞くと央澤教授は引きつったような笑顔だか何だかよく分からない表情をしてテントに引っ込んでしまった。
「この辺はそんなにヒグマが出るの?」
 ガブリールと中澤教授の会話を聞いた僕はターニャに尋ねてみた。すると彼女は、
「央澤サン、慣レテナイデスカラネ。Габриэльガブリール ハ用心シテモラウタメ、チョト脅カシタノデス」と微笑むのだった。
 実際のところこの地域のヒグマはかなり数を減らしていて遭遇率はさほど高くはないらしい。それどころか、このままだと絶滅危惧種になるかもしれないほどだという。
 とは言え用心するに越した事はない。食料の入った荷物はすべてテントの外、それもかなり離れた所に置かねばならない。食料の匂いを嗅ぎつけたヒグマにテントを襲われる事例は後を絶たないのだから。
 ガブリールやターニャはその辺百も承知だが他の人はどうだか分からない。ならば少し脅かすくらいがちょうど良いのだろう。
 その晩は、慣れない場所での睡眠となり央澤教授は中々寝付けないようだった。
 僕は割と早めに適応できてすぐに寝てしまったのだが、なぜか夜中に目が覚めてしまった。寝相の悪い誰かさんに蹴飛ばされたらしい。
 ふとテントの外でまだ焚き火が燃えているのに気付き、そっと覗いてみると、ヒグマの用心の為だろうかガブリールとターニャが焚き火の前に座っていた。
 何やら話をしているようだが、声は大きくないし、日本語で話している訳でもないので内容は全く分からない。僕はそのまま引っ込んですぐに眠ってしまった。

 朝目覚めると背中が痛かった。地面に半分埋まった岩がちょうど背中に当たってしまったのだ。一応発泡ゴムのマットを敷いた上に寝たのだが、その程度ではこのデコボコを吸収できなかったらしい。もう少し頑張って地面をならすべきだった。
 一緒に寝ていた中澤教授も甲頭氏も同じ目に遭い、背中やお尻などをさすりながらぶつぶつ文句を言っている。
 朝食を済ませ、荷物を担いで昨日と同様歩き出した。ターニャを先頭に、道なのか茂みの切れ目なのか分からないようなところをひたすら歩き、斜面を登る。
 何度か休憩を挟みながら前進し、太陽が西に傾きかけた頃になってターニャが皆の方を振り返った。
「イヨイヨコノ先ガ源流デス」
 彼女が指差す先は、ところどころ木漏れ日は射すものの、薄暗い森の中だった。ようやく目的地に到着したとあって、それまで疲労の色を一切隠さなかった央澤教授や甲頭氏が急速に元気を取り戻したのが少し可笑おかしかった。
 行ってみると、そこは数十メートルもの高さの崖になっていて、その岩の隙間から清水が湧き出しているのだった。これまで見てきたアバチャ川の水の中でもっとも透き通った水が絶える事なく滴り落ち、地面に溜まって大きな水溜りを成し、そこから水が溢れて流れ出し、川となる。
 そこに射す木漏れ日によって織り成される美しいきらめきが幻想的な雰囲気を醸し出している。
「うわあ、キレイ……」
 見浪さんが珍しく乙女な声を漏らした程だ。僕もその美しさには言葉を失った。
 しかし央澤教授と甲頭氏は落胆したようだ。肝心のワサビが見当たらないから当然だ。
「君、本当にここが源流なのかね。私は確かに聞いたんだよ」
 ワサビを求めて散々そこいら中を探し回った末に、教授はガブリールやターニャにそう詰め寄った。しかし二人はここが源流で間違いないと言う。
「うーん、どうスかね、ちょっとこの崖の上まで登れないスかね?」それまで崖の回りを歩いたり、岩を小さなハンマーで叩いたりしていた見浪さんが歩み寄ってきた。
 彼女によれば、ここの地層は固い岩盤と柔らかい岩盤が折り重なっていて、地下水が地上と地下を出入りできるのだという。
 つまり、もっと上の方でも地下水が浸み出している可能性があり、そこが真の源流ではないかと彼女は言うのだ。
 ガブリールとターニャは揃って反対した。見るからに危険なので当然と言えば当然だ。
 しかし俄然がぜん意気上がった央澤教授や甲頭氏の熱意は全く引く事を知らない。結局ガブリールたちが負け、この先怪我などしても一切責任は取れないと何度も念を押した末に、渋々ながら検討をする運びとなったのだった。
 まずはこの場所をベースキャンプと定め、大きな荷物はここに置いて探検を行うという方針が決まったので、侃侃諤諤かんかんがくがくやりあう四人を尻目に、僕と見浪さんで野営の準備をし、それでもまだ話し合いが終わらないので夕食の準備までしてしまった。

 翌朝、まずはガブリールとターニャが割り出した比較的安全なルートを進んで崖の上を目指した。
 それ用の装備も無く、訓練もしていない我々が崖を直接登るような訳にはいかないので、かなりの回り道である。とは言え今までとは段違いの険しい道だ(あれを道と呼べるならば、だが)。
 央澤教授や甲頭氏はかなり辛そうではあったが、自らが言い出した事でもあるので必死に食らいついていた。そんな二人と比べれば僕や見浪さんは大分若くて体力がある筈なのだが、それでも流石に厳しい道のりで、いつしか全員無言の行だ。
 悪戦苦闘の末に到達したそこは、まだ山の中腹ではあるものの、一方は断崖の頂上であり、もう一方では山頂に向かって斜面が伸びているのが鬱蒼うっそうとした木々の向こうに見える。
 そんな崖の上は一面に水が溜っていた。風も無いのに常にさざ波が立っているところを見ると、どこかから水が流れ込んでいるようだ。溢れる様子が無いのは水を通し易い岩盤に吸い込まれているからだろう。つまりは見浪さんの仮説の通りという訳だ。
 この崖の上が『真の源流』なのか、そうでなくても『真の源流』に近付いたという事は間違いあるまい。
 休憩もそこそこに水の流れを辿りながら進んで行くと、ふいに央澤教授の声が森に響き渡った。
「あ、あ、あ、あの、あの葉を見給え!」
 教授の指差す方向、水溜りの向こう岸に鮮やかな緑の葉っぱが突き出している。
「ワサビ属に特有の形だよ。あれこそがそうだ! 間違いない!」央澤教授はそう言いながら水溜りに入って行こうとするので慌てて皆で止めた。
 その後も度々水に飛び込もうとするので、僕と甲頭氏が左右から教授の両腕を半ば羽交い絞めのようにしながら、対岸に渡れそうな箇所を探した。
 が、奥に進んで行くと反対側に渡る必要は無いという事が判明した。
 そここそが『真の源流』だったからだ。それが証拠にくだんのワサビがいくつも自生しているではないか。
 ワサビたちは、滾々こんこんと湧き出す岩清水のさらさらとした流れを一身に浴びて、目に眩しいほど鮮やかな緑色の茎と葉を繁らせていた。その緑色は寿司に添えられるあのワサビとは全く違うのだ。
「す、素晴らしい。これこそ探し求めていたものだ。どうだね甲頭君、遂に見付けたのだよ!」央澤教授は興奮を隠さなかった。
 すかさず水辺に寄ると、ポケットからルーペを取り出し、泥も水も意に介さずつくばってワサビに取り付いた。観察すればするほど色々な事が分かってくるらしく、早口でその分かった事を捲くし立てる。
 僕らも水辺に行き、流石に這い蹲るまではしなかったが、央澤教授の話を聞いた。教授はまるで子供に戻ったかのようだった。
 その様を、ガブリールとターニャは少し遠巻きに眺めていた。まるで子供に戻ったかのような教授に呆れてしまったのだろうか。だが仕方あるまい。研究者は得てしてそういうものなのだから。
 そうするうちに日がかげってきた。暗くなる前にベースキャンプに帰らねばならない。名残惜しそうにする央澤教授を引っ張るようにして、来た道をゆっくりと降りた。央澤教授はここで野営したいと言ったが、水辺の為しっかりとした地面が確保できない為テントが張れないし、そもそも野営の道具を持って上がるのは無理だと諭され涙を呑んだのだった。
 ベースキャンプに戻った僕たちは車座になって話し合い、予定日数ギリギリまで『真の源流』の回りを調査する事を決めた。飛行機の出発時間との兼ね合いがあるので、帰国の前日にはエリゾヴォ市内に戻らねばならない。となると調査期間は残りあと三日という事になる。
 その晩から央澤教授はテントの中にルーペやら顕微鏡やらを広げ、夜中までランタンを煌々と灯して、採ってきたサンプルを調べたり標本を作ったりしだした。
 男性陣は全員一つのテントに寝泊りするのだが、寝る場所が狭くなったし、ランタンがずっと灯され続けて明るいし、気兼ねしてしまうところもあって、僕はテントの外で寝る事にした。
 気付けばガブリールも外に出ていた。反対に甲頭氏はお構いなしで、テントの中でぐっすり眠ったようだ。

 翌朝、央澤教授は採ってきたワサビをまな板の上に載せ、包丁で薄く切り、皆の前に差し出した。
「さあ試してみてくれたまえ」
 昨晩の調べで、このワサビにはこれといった有害物質が含まれていない事が分かったので、ひとつ味見をしてみないかと言うのだ。
 ワサビといえば辛くて鼻にツンと来ると相場が決まっているものだから、僕は正直乗り気がしなかった。寿司ならともかく、直接食べるのはいささ躊躇ためらわれる。
 が、恐る恐る口に入れてみて驚いた。これが大変美味しいのだ。ワサビというよりは果物に近い感覚だ。だがこれまで食べたどの果物とも違う。やや味や匂いにクセがあるが、僕にはほとんど気にならなかった。一つ食べると、ついつい手が伸びてもう一つ食べてしまう。『やめられない、とまらない』というキャッチコピーがあったが、それはこのワサビの為にあると言っても過言ではないとさえ思った。
 甲頭氏も見浪さんも思いは同じようで、一心にワサビの薄切りを頬張っている。見浪さんに至っては少し恍惚としたような顔さえ見せている。
 ところが、ガブリールやターニャは食べる事を拒否した。どうもクセや香りが気になるようだ。国や民族によって好みが違うというのはよくある事なので無理強いはしなかった。
 それを尻目に甲頭氏は試食用の薄切りを人一倍食べた末に絶賛し、満面の笑みを浮かべた。
「央澤君、素晴らしい味だ。こいつはいいぞ!」
「そうだろう、甲頭君。私もそう思うよ、うん。
 早いところ栽培する方法を確立したいね。上手くすれば食糧自給率にも寄与できるかも知れないよ、うん」
 央澤教授も試食の結果に大いに満足した様子だ。
 それから調査の為、再び崖の上の『真の源流』に向かった。僕や見浪さんは央澤教授に付いて、雑用をしたり記録を取ったりなど大忙しだった。一人アカデミズムとは無縁の甲頭氏は辺りの写真を撮ったり、ガブリールやターニャと世間話をしたりなどしているようだった。
 が、その日の帰りにハプニングが起こった。急斜面を降りている途中で甲頭氏が足を踏み外して滑落したのだ。とは言えさほど高さは無かったので、足を捻挫した程度で済んだのだが、明日以降はベースキャンプで留守番する事になった。
 無理して怪我を悪化させればエリゾヴォに帰るのすら困難になってしまう。何しろ自動車までは徒歩だし、しかもかなり距離があるのだから。
 電波も届かない山の中ゆえ、甲頭氏はどうヒマ潰しをしようか頭を悩ましていた。
 一方の僕たちは、最終日である翌々日まで『真の源流』でワサビの調査に勤しんだ。ワサビそのものはもちろん、繁殖するのに必要な条件としての地質や水質、周りの環境などをできるだけ調べておかねばならない。
 やがて太陽が西に傾いてきた。遂に『真の源流』とワサビたちに別れを告げる時が来たという事だ。央澤教授はまだまだ調査が足りないと残念がったが、だからと言って夜になるまでここに居る訳にはいかない。
 必ずもう一度戻ってくるから待っているんだぞと、ワサビたちに向かって教授が声をかけた。
 ただの手伝い、かつ門外漢の僕だがこの時ばかりは何だか名残惜しいようなセンチメンタルな気分になっていた。不思議だが、毎日見るうちに少しばかりワサビたちに愛着が湧いたようなのだ。
 日が暮れては大変なので急ぎ足で(でも慎重に)甲頭氏の待つベースキャンプに戻った。大分足元が暗くなってしまってはいたが何とか無事に帰り着けた。
「やあ、随分待ったよ。ご苦労様」
 物音を聞きつけ、甲頭氏がテントから顔を出した。足は大分良いようだ。随分ゆっくり休んだようで、顔の色艶いろつやが随分良くなった印象だ。何なら全体的に丸っこくなったような気さえする。でもたった二日テントでゴロゴロしていたからと言って見た目で分かるほど太るだろうか。流石にそれは気のせいだろう。
 すっかりくたびれてしまったが、ガブリールとターニャは一息つく間もなく夕食の支度に取り掛かった。そこでその間に我々調査チームは疲れた身体にむち打って調査機器などの片付けを行った。明日の朝はできるだけ早目に出発したい。
 片付けが一段落した頃に夕食もできた。皆揃って焚き火を囲んで取って置きの缶ビールを飲み、談笑した。ガブリールが民謡らしき歌を聞かせてくれたりもした。最後の晩くらいは楽しんでもバチは当たるまい。
 帰るまでは野営も交えてまた長いこと歩かねばならないが、甲頭氏や見浪さんは久々(というほどでもないか)の文明復帰が楽しみで仕方がない様子だった。何しろ風呂にも入れなかったのだから。唯一央澤教授だけは帰りたくないと言い続けているが。
 何はともあれ、皆すっかり良い気分となってテントに入り、寝袋に潜り込むやぐっすり眠ったのだ。数時間後に災厄が降りかかるなど露ほども思わずに。

*  *  *

 バリバリメキメキというけたたましい物音、そして誰かの悲鳴に目を覚ました。重たいまぶたをこじ開けると、まだ開けきらない、太陽がまだ昇りかけの時分だった。
 顔を上げると、テントが真っ二つに切り裂かれ、真ん中に大きな黒い塊が居て、それがどうやらヒグマらしい事が分かると同時に自分の目と頭を疑った。
 ヒグマが? テントの中に居る? でもなぜだ? ヒグマがテントを襲わないよう荷物は外に置いておいたのに? いやいや、今はそんな場合じゃない、とにかく逃げるのが先だ!
 幸い僕が寝ていた位置はテントの出口のそばだったので、そこから慌てて外に転がり出た。続けて央澤教授が這い出してきた。が、腰が抜けたようになって中々出られないでいるので慌てて駆け寄り、テントから引き摺り出した。
 少しでもテントから離れたかったのだが、央澤教授に肩を貸しているため思うように動けない。同じテントで寝ていた筈の甲頭氏とガブリールはどうなったんだ?
 異音を察したか隣のテントから見浪さんが目を擦りながら出て来た。が、半分潰れたこちらのテントとその中で蠢く黒い毛むくじゃらを見ると眠気が吹き飛んだようだ。
「見浪さん、ヒグマだ! 早く逃げて!」僕は叫んだ。
 すると彼女は僕らの方に駆けてきたので一緒に逃げる事にした。そして一瞬テントの方を振り向いたその時、ぺしゃんこになったテントの向こうに、ヒグマに抑え付けられている甲頭氏が見えた。
 そのままヒグマは甲頭氏にし掛かり、彼の身体を弄ぶようにしながら鋭い爪を立てる。するとその拍子に甲頭氏のリュックが地面に転がり、開いた口から緑色の物が幾つもまろび出た。――ワサビだ。
 甲頭氏はワサビを大量に隠し持っていた……?
 だがそれ以上の事は何も考えられなかった。なぜならヒグマはそのまま甲頭氏の腹を裂き、そこに顔を突っ込んで内蔵を喰らい始めたからだ。甲頭氏の目は虚空を見つめ、口からは止め処なく血が溢れた。
 余りの惨たらしさに僕らは吐き気を堪えながら、甲頭氏が犠牲になっている隙に森の中へ逃げ込むのが精一杯だった。

 どれくらい歩いただろうか。僕らは、まさに着の身着のままで森の中を彷徨さまよっていた。
 どこまで逃げても、あの巨大なヒグマが襲ってくるのではないかという恐怖で一休みする事もままならない。しかし当ても無く歩いた所で遭難するだけだ。それでもどうにか冷静さを取り戻してきた僕は、未だパニック状態の見浪さんをなだめながら一旦休憩して落ち着く事にした。
 央澤教授はその頃にはどうにか歩けるようにはなっていたが、ずっと全身を震わせていて、僕が肩を貸さねば前に進むこともままならなかった。
「ああ、甲頭君……どうしてあんな事に……」腰を下ろした教授は、戦慄わななきながら呟いた。
「そういえば、甲頭さん、ワサビを沢山カバンに入れてたスよね……」見浪さんの言葉で僕はあの惨劇を思い出してしまい、また吐き気がこみ上げてきたが我慢した。
「た、確かに僕も見たよ、見浪さん。……つまり甲頭さんがテントの中に隠していたワサビをヒグマが嗅ぎ付けたって事だろうか」
 僕の言葉に一瞬顔を上げた央澤教授はすぐに項垂うなだれて話し始めた。
「うん……実は知っていたんだ、甲頭君が山葵をバッグに沢山入れていたのは。――何しろ僕がこっそり持ち帰って渡していたんだからね」
「ええっ!」僕と見浪さんは同時に声を発した。
「あの山葵はただ美味しいだけでなく、栄養価も非常に高いんだ。大雑把に調べただけだが、完全食品に最も近いんじゃないかなと思うよ、うん。あれを独占的に栽培できれば非常に大きなビジネスになる。
 それで彼はワサビの栽培会社を本気で立上げる気になったんだ。あの試食で心を決めたんだね。共同経営者にならないかと持ちかけられたよ……」

 驚いた事に、今回の調査の発案からして甲頭氏が主導していたと央澤教授は言うのだ。
 彼は最近投資が上手くいっておらず、出資者を納得させる新たな事業を早急に見付ける必要があった。その折に、偶然にもワサビの話を央澤教授から聞き、すぐに調査を決めたという。彼は実際に食べた事があるという移民に話を聞きに行く事までした。すると、誰もが皆もう一度食べてみたいとうっとりした表情を浮かべるのだ。が、源流は山深く、途中でヒグマに襲われたり遭難したりなどした為、二度と足を踏み入れる事はなく、ワサビは幻となった。
 甲頭氏は央澤教授と共に秘密裏に計画を練った。甲頭氏は出資者へのアリバイ工作、央澤教授は現地の調査の資金が得られて双方ウィンウィンという訳だ。調査資金などは甲頭氏の感覚からすれば大した金額ではない。そうして寄せ集めの急造チームが作られたのだった。
 当初はそんな風に走り出したプロジェクトが、瓢箪から駒を出し、金の卵が見付かってしまった。
 これで出資者を黙らせられる。いやそれどころか更なる出資を呼び込めるだろう。となれば大量にサンプルを持ち帰る必要が生じる。現物が最も説得力があるからだ。税関が通るかという問題はあるが、今となっては彼がどうするつもりだったのかは分からない。ともあれ甲頭氏は調査の度にワサビを持ってくるよう央澤教授に要請し、教授はそれに応え続けたのだった。
 そのうち甲頭氏自身があのワサビの虜になってしまったという。彼が負った怪我自体は偶然の事故なのだが、実のところ大した事は無かったのだ。しかし彼はテントに留まる事を選んだ。甲頭氏は我々が調査に勤しんでいる間、ワサビ食に勤しむ為だ。
 日がな一日運動もせずに栄養価の高い食品を食べていたという事ならば、テントから顔を出した彼の印象が変わって見えたのもあながち勘違いではなかった訳だ。
 そうして溜め込んだワサビはテントの外には出さず ――何しろヒグマが出る確率が低い事は分かっていたのだから―― 後生大事にバッグに詰め込んで隠し持っていたのだった。
 彼の頭脳と金儲けの才能があの新しいワサビに敏感に反応した。そして溜めたワサビに敏感に反応したヒグマが彼を襲った……。因果応報とはこの事か。
 巻き込まれた僕や見浪さんにとっては災難以外の何物でもないが。

 それにしても今の状況は非常にまずい。
 人里離れた山奥で、食料は無い、着替えも無い、道具も何一つ持ってない。このままでは野垂れ死にを待つばかりだ。
 僕としても全く気が進まないのだが、一旦ベースキャンプに戻る事を二人に提案した。少なくともベースキャンプに戻れば何かしら食べ残されている食料があるかもしれない。その代わりに変わり果てた甲頭氏も目に入れざるを得ないが、このまま座して死ぬよりはマシだろう。
 それにここからでは駐車した四駆車までの道だって分からない。そうだ、ベースキャンプに戻ればまだ道が分かるかもしれないではないか(正直分かるかは怪しいが、だとしてもだ)。
 気付けば太陽はもう真上よりも西の方に傾いている。日が暮れてしまってはさらにまずい。渋る二人を説得して、僕らはあの酸鼻極まる現場に戻る事にした。
 ところが、いくら歩いても目的地に辿り着かないのだ。道に迷ってしまったのだろうか。なくただ徘徊する一方で時間ばかりが過ぎていく。
「さ、佐古川君、少し休ませてはくれないか。もう無理だ……」弱々しい央澤教授の懇願に、僕と見浪さんは足を止めた。
 木々の梢の向こうに見える空が真っ赤に染まっている。
「もう日が暮れかかってる……ここで、野宿スか……?」見浪さんの声は少し震えていた。
 ガブリールやターニャが居てくれればまだ何とかなったのかも知れないが、土地勘も無ければ装備も全くない烏合の衆だけではもうこれ以上打つ手なしだ。
「ガブリールたち、どうしたんスかねえ。やっぱりヒグマにやられちゃったのかな……」
 見浪さんはそれ以上喋る事をやめた。うつむいた顔の下の地面には、ぽつりぽつりと水滴の跡ができ、それは次第に数を増やした。
 その場に座ったまま、もう一歩も動けぬ僕たちの上で空はどんどん暗くなっていった。火を起こす事もできず、身を寄せ合い木陰にうずくまった。ヒグマではないにしても何かしらの猛獣に襲われる危険性は否定できない。不安ばかりがおりのように心に積み重なっていく。

*  *  *

 トン、トトン、トン、トトトン――。
 そんなリズムの軽やかな太鼓の音が聞こえた気がして目を開けた。皆眠りが浅かったらしく、そろって顔を上げた。
 僕らの頭上に大きな月が昇っていた。空はよく晴れて月明かりが森の中を照らしている。
 斜面の下の方に明かりが見えた。ゆらゆらしているところを見ると松明たいまつだろうか。明かりは次第にこちらに向かってくるようだ。もしや救援か?
「おーい、ここだ! ここに居るぞ! 助けてくれっ!」
 あの弱りきっていた姿からは思いもつかない大声で央澤教授が叫んだ。少し遅れて僕と見浪さんも声を上げた。
 松明はどんどんこちらに近付いてきた。ようやくその姿が確認できたのだが、それを見て三人共に声を失った。
 松明に照らされたのはヒグマの顔だったのだ。ヒグマが松明を持って夜の森を歩いている? 太鼓を鳴らしながら? そんなおかしな事があるだろうか。
 よくよく見ると、それはヒグマの毛皮を被った人間である事が分かってきた。毛皮はポンチョのような形に加工されており、ちょうどヒグマの頭の部分が頭頂部に被さるようになっているのだった。肩紐が付けられた細長い太鼓を斜め掛けにし、右手に松明、左手にばちを持っている。
 そして毛皮の中に居るのは――ガブリールじゃないか。
「おお、おお、ガブリール君、ありがとう、ありがとう」そう言いながら央澤教授はふらふらとガブリールに歩み寄った。
 ガブリールは何の感情も湧かないような目で央澤教授を一瞥し、懐から何かを取り出して教授に差し出した。食べ物のようだ。
 央澤教授はそれを受け取ると、すぐさまかぶり付き、がつがつとたちまち平らげてしまった。それも当然だ。もうずっとまともなものを口にしていないのだから。
 ガブリールの後から、やはりヒグマの毛皮のポンチョをまとった人間が現れた。どうやらターニャらしい。それにしても二人揃ってどうしてそんな恰好をしているんだろう。
 どうもおかしい――僕の第六感がそうささやく。
「ああっ!」
 突如央澤教授が一つ声を上げた。視線が宙を彷徨い、表情は恍惚としている。何事が起きたのだ? 全く分からない。
「あなたたちはсвятилищеスビティーリシェを侵しました」
 全く平板で、感情の一つも篭らぬガブリールの声が夜の森に響いた。途中で何語か分からない単語が挟まる(ロシア語だとは思うが)。
「あなたたちが『ワサビ』と呼ぶ植物、これはдар от Богаダールァトボゥガです」
 そう言って彼はワサビを懐から取り出して見せた。
「あなたたちが『真の源流』と呼んだ場所こそ、我々アイニリメン族の聖なる場所、святилищеなのです」
 僕は面接から出発するまでに少しばかりカムチャツカ半島について調べていたのだが、ここにかつて暮らしていた先住民族や、今も住む少数民族にそのような名前は無かったと思う。すると彼は僕の心を読んだように、こう言った。
「そうでしょうね。邪教の徒として歴史から消し去られた民族ですからね。私とターニャが最後の生き残りです」

 ――一九一七年にロシア革命が起こり、混乱のうちにソビエト連邦が成立すると、それまでのロシア人による少数民族弾圧はますます苛烈となった。カムチャツカ半島、そしてそこに暮らしていた少数民族のひとつであるアイニリメン族もまた例外ではなかったのである。
 かつてカムチャツカ半島にはカムチャツカオオヒグマという大型のヒグマが生息していたのだが、ロシア革命の数年後に絶滅したとされている。
 その原因は毛皮目的の乱獲とされているが、それだけではない。カムチャツカオオヒグマを信仰の対象としていたアイニリメン族を根絶やしにする布石でもあったのだ――。

 おおよそそんな事柄をガブリールは僕らに話して聞かせた。
「дар от Богаは神からの賜り物です。アイニリメン族だけのものです。外に持ち出す事は決して許されません。
 我々はチャンスを与えましたが、あなたたちはそれを無駄にしてしまった」
 そういえば『真の源流』に向かう際、とても強く反対していた。あれは行かせまいとしていたという事か?
「そうです。素直に引き返していればこのような事にはならなかったのです。дар от Богаを汚い金儲けの道具にするのを見逃す訳にはいきません」
 おもむろにターニャが前に進み出た。手にしている杖のようなものを差し出すと、その上端に何か大きな丸いものが付いているのが見えた。
 松明に照らされると、それが串刺しにされた生首――それも甲頭氏の――だと分かった。僕も見浪さんも思わず息を飲んだ。
 甲頭氏の生首は全体的に緑がかかっていて、ところどころに濃い緑色の筋が入っている。また断面や傷口も緑色に染まっているように見えた。
 ガブリールは言う。
「甲頭は神の御許へ旅立ったのです」
「そ、そんな!」声を上げる僕にはお構いなしでガブリールは続ける。
「彼にとっては幸いです。よこしまな精神とけがれた肉体を浄化せしめられたのですからね。――さあ、次は央澤の番です!」
 ガブリールは手にした松明を差し出して央澤教授を照らした。
 するとどうだ、いつの間にか、彼の顔や腕など露出している部分がすっかり緑がかっていた。それだけではなく、彼の体は次第に全体が変形し始め、内部から緑色のつたのようなものが生えてきて、見る見るうちに悍ましい人ならざるものへ変身していった。まったく言葉で言い表す事のできない、まさに異形だ。
 どうしてそうなってしまうのか全く分からない。現代の科学では解明はできない不可思議な現象だ。全く想像もつかない未知の物質が含まれているのだろうか。それとも呪いか魔法の類か。
「甲頭は中途半端でしたが、央澤はよく熟成されましたね。
 彼は供物くもつになる素質があったようです。実に素晴らしい。神は満足されるでしょう」
 ガブリールはそう言うとターニャと共に踵を返して夜闇に消えていった。
 立ちすくむ僕と見浪さんはただ、彼らが消えていった闇を見るばかりだった。やがて目が慣れて、月明かりに照らされる森が見えてくると、木々の向こうから何かが近付いてくるのが分かった。
 それは巨大なヒグマだった。最初ガブリールたちが戻ってきたのかと思ったが、どう見ても毛皮を被った人間のサイズではない。
 これほどまでに巨大なヒグマがいるものだろうか。絶滅した筈のカムチャツカオオヒグマかもしれない……僕はまるで蛇に睨まれた蛙のように身じろぎもできないままそんな事を考えていた。
 やがてヒグマは地面でうごめく、元央澤教授だった異形の前まで進むと、鼻息荒く異形に齧り付いた。
 そこで初めて体が動くようになった僕は、同じように固まっていた見浪さんを促し二人して森の中へ逃げ込んだ。

*  *  *

 どこをどう歩いたのか、気付けばどこかの沢のほとりに居た。
 沢の向こうに独特の緑色をした葉っぱが月明かりに照らされていた。ワサビ ――ガブリール言うところのдар от Бога―― だ。ここ数日飽きるほど見てきたのだから間違いない。
 なぜ生えているのだろう。ここは『真の源流』とは別の場所の筈だ。それとも彷徨っているうちに『真の源流』まで来てしまったのだろうか。しかし、どうやって?
 混乱する僕の目の前にあるワサビは、とても美味しそうに見えた。何しろ空腹だし、実際にあれは美味しいものなのだと知っている。しかし食べる事によって異形に――即ち供物になるのは御免だ、そう理性が止める。
 どうにか誘惑に打ち勝って僕らはその場を離れ、沢の上流へ向かった。山で道に迷った場合の鉄則は頂上に向かう、これは山小屋で仲良くなった歩荷ぼっかの教えである。もちろん頂上まで行ったとて助かるとはとても思えないのだが、ただ黙って座っている訳にもいくまい。
 しかし、満身創痍で体力も残っていない。何かに足を取られ、斜面を滑落した。そのまままっすぐ沢まで逆戻りだ。
 周りにはワサビが沢山生えている。どうやら群生地の真ん中に転げ落ちたようだ。
 僕を助けようと急斜面を下ってきた見浪さんが大量のワサビに目を丸くした。今すぐにでもこれを引き抜き口に頬張りたい――彼女の頭の中はそれで一杯になっているだろう。現に僕はそう思っている。だが、それは……ならない。
 僕は食べたい思いを必死に頭から振り払い、見浪さんの手を取るとできるだけ見ないようにしながらワサビを掻き分けて岸に上がり、水辺を離れるように必死で斜面を登った。

 気が付くと、僕は一人で気を失っていた。斜面を登っている最中に力尽きてしまったらしい。
 見浪さんは? どこだ? まさか……。そう思いながら斜面を下っていくと、さっき僕が落ちた沢に出た。
 そこで愕然とした。彼女は群生地の浅い水底に座り込み、一心不乱にワサビを食べていたのだ。根も茎も葉も、全てを味わい尽くしながら食べている。泥や雑草なんかが一緒に口に入ろうがお構いなしだ。
「あァ……佐古川さん……これ……ほんっ……とォに美味しいっスね……」
 彼女は僕に気付くと、うっとりとした顔でそう言った。まるで酔っぱらっているかのように呂律ろれつが回っていない。一体どれぐらい食べたのだろう。
 既に彼女の全身は緑色になりつつあった。身体の形も徐々に変形していってるようだ。
「佐古川さァん、一緒に食べましょうよォ……。これェ、すご……く、美味しい……それに、とっても、気持ちイィ……」
 僕に向いた彼女の顔が、僕の目の前で溶けかかったソフトクリームのようにどろりと歪み、見る見るうちに人ならざる形状へと変化していく。
「ひぃっ!……ひぃぁあああああああああ!
 僕は悲鳴を上げながら、彼女(だったもの)を残して元来た道を引き返した。
 斜面を登り、踏み外して転げ落ちてはまた登ってを繰り返しながら、ただただひたすら逃げた。

 トン、トトン、トン、トトトン――。

 後ろからあの太鼓の音が聞こえてくる。
 食べたい、ああ食べたい、食べたい、食べたい、あのワサビが食べたい、дар от Богаが食べたくてしょうがない、頼む何とかしてくれ、食べたい、食べたいが食べてはいけない、食べてはいけないが食べたい。

 トン、トトン、トン、トトトン――。

 ああ太鼓の音が追いかけてくる。逃げないと。いや待て、なぜ逃げる必要がある? 食べたいなら食べろよ、楽になるぞ……そんな思考と必死に戦う。

 トン、トトン、トン、トトトン――。

 気付けば斜面を登り切っていた。辿り着いた尾根に立つと、その向こうは切り立つような急勾配で落ち込み、真っ暗で何も見えない。
 ――ふいに足元が崩れ、僕はその中へ転がり落ちた。歯止め無くどこまでも転がり落ちていった。
 闇はどこまでも続いていた。

<了>

あばちゃがわ《あばちやがは》
【アバチャ川】
◇[英]Avacha River
○[地]ロシア連邦極東、カムチャツカ半島南部の川。カムチャ
ツカ州(Kamchatskaya Oblast)の州都ペトロパブロフスクカム
チャツキー(Petropavlovsk-Kamchatsky)南方でベーリング海の
アバチャ湾(Avachinskiy Zaliv)に注(ソソ)ぐ。

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ほけんけいりにん
【保険計理人】
◇[英]actuary
○[経]⇒あくちゅありー(アクチュアリー)
 あくちゅありー
 【アクチュアリー】
 ◇[英]actuary
 ○[経]保険や年金の数理専門家。
  生命保険や信託の商品開発などで、数理統計学をもとに統計
 資料から死亡率・事故発生率などを計算し、さらにその確率か
 ら保険料を決定する予測データを算出する。
  「保険計理人」,「保険数理士」とも呼ぶ。

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わさび
【ワサビ】
【山葵】
◇[学]Wasabia japonica
○[植]フウチョウソウ目(Brassicales)アブラナ科(Brassica-
ceae)ワサビ属(Wasabia)の多年草。
 渓流の浅瀬に自生、または流水を用いたワサビ田で栽培する。
地下茎は肥厚した円柱状で節があり、すりおろして香辛料とす
る。葉は根から束になって長い柄を出し、円いハート形で質は
薄く毛がなく光沢がある。3~5月ころ30センチメートルほど
のびた花茎の先に白色四弁の花を開く。
 日本の特産で、北海道~九州に分布。
 「ミズワサビ(水山葵)」,「サワワサビ(沢山葵)」とも呼ぶ。
◎春の季語。
◎すりおろすときは根側を上にし茎側からおろす。保存すると
きも根側を上にし、水を入れたコップに浸して冷蔵庫に入れ、
毎日水を取り替えれば1ヶ月くらいはもつ。
 辛み成分:⇒ありるいそちおしあねーと(アリルイソチオシ
アネート)
◎ユリワサビ:⇒ゆりわさび(ユリワサビ,百合山葵)
 西洋ワサビ/ワサビダイコン/オカワサビ/畑ワサビ:⇒ほ
ーすらでぃしゅ(ホースラディッシュ)

私立PDD図書館/百科辞書
http://pddlib.v.wol.ne.jp/japanese/index.htm

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