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あえて言う。問題はコンテンツではなく、レイヤーではないのか??

秋になり、純文学のほうは公募の主要新人賞の受賞作がほぼ出揃う季節になってきた。

どの新人文学賞の結果にも共通するのは、作品の発想の突飛さに比して選考委員の評価は低調となる傾向があることである(『新潮新人賞』が特にその傾向が強かった)。更に言えば、面白い、突飛な作品が受賞したとしても、受賞者はその後同じくらいにインパクトのある作品を書き続けられない傾向があることである(むろん村田沙耶香氏や李琴峰氏のように大化けするような例もあるが)。

私は不学と凡庸と煩悩の塊なので、各賞の選評に書かれた選考委員による候補作の要約を眺めると、「ちょっと俺のキャッチーなアンテナがピコンとなってしまった候補作」をどこか読みたくなって記憶に残してしまう。ラーメン屋の店主とアルバイトの諜報戦めいたバトル。地球が二つあって衝突する日の世界のありよう。今回の新人賞では、「善行をシェアするSNSの流行」なんて候補作の発想が一番突飛と思った。

だが、彼らの作品が受賞となって日の目を見ることはないと選考結果が示しているし、その落選理由も納得できる。長らく選考委員を務めた保坂和志氏が言ったように『うまさや面白さはそのうまさ面白さこそがつまらない』という鉄則が厳然と存在しているのだ(それが人文的な文化なのか理学的な法則なのかは判らないが)。

だが、一方でそういった突飛な発想は、松浦寿輝氏が2013年の上田岳弘氏のデビュー作『太陽』(究極の錬金術を追い求めたあげく、最後に人類が滅亡する話)ほか2作の新人賞受賞作を評して、卑近な現実から離陸して想像力を抽象的な高みへと飛ばす試みが見られる、と、「新超越派」の新世代登場を言祝いだことにも見られるように、全く拒絶されるものでもない。新人賞の当落は別として、「だって今の時代のこの閉塞感は、こういう発想でもなきゃ打破できねえんだよ!!!」と叫ぶ権利は誰にでもあるのだ。

◆発想というより、レイヤーの問題ではないのか??

それでは、そういった突飛な発想が評価されるもの、意外と評価されないものを分かつのは一体何なのか。ここでヒントになってくるのが、現代アートとしての見地である。


近年のアート界隈の状況は鋭意勉強中であるのだが、アート界独特の言葉として、「レイヤー」という言葉があることを初めて知った。レイヤーは絵画史でも使われる、平面性に対抗する層のようなものを表す言葉で、現代アートでは作品の創作動機の複数性が「インパクト×コンセプト×レイヤー」を増やし、層を厚くすることに貢献するらしい。この層こそが、作品に対する多様な批評に対する可能性を開き、それによる芸術作品の価値を決めるのだ。

上に挙げた小崎哲哉『現代アートとは何か』では、
①新しい視覚・感覚の追求
②メディウムと知覚の探求
③制度への言及と意義
④アクチュアリティと政治
⑤思想・哲学・科学・世界認識
⑥私と世界・記憶・歴史・共同体
⑦エロス・タナトス・聖性

を優れた現代アートの7つの動機とし、それらの複数性がレイヤー、すなわち多角的な読解可能性を拓くということらしい。「付言すれば、『美しさ』や『完成度』は動機に入らない」という文言まで添えてあり、「うまさや面白さはそのうまさ面白さこそがつまらない」という保坂和志氏の言葉と重なる。そう、発想が突飛なだけで、中身のレイヤーの層が薄い小説はやはりそういった視点から撥ねられるのだ。

このほかにも同著は現代アートというジャンルを超えて普遍的なアートの見方を示しており、一読をお勧めしたい。

◆現代アートのレイヤーという視点から小説を捉え直す必要があるのでは

7月に行われた平野啓一郎氏の「小説の書き方」配信は、これまで美術史的な(?)作品創作の蘊蓄を語っていた氏が、おそらく初めて実践的な小説の書き方を端的に語った場となった。

平野氏の歴代の作品に関して、その設定・着想・視点の面白さや現代性を否定する人は少ないだろう。近未来社会を描く『ドーン』や『本心』、分人主義という新しい人間社会の捉え方を提起した『空白を満たしなさい』や『かたちだけの愛』などへの反響はもとより、人物特定システム「散影」や新しい形状の聴覚機「ミューミ」など、随所に発想力に富んだコンテンツが配備されていて、読み物としても面白い(ちなみに私の中で上述のレイヤーとして最も面白かったのは『かたちだけの愛』だった)。

だが、私は近年ある疑問を抱いている。それは「なぜ、平野啓一郎と似たような作風の作家は出てこないのだろう」という疑問だ。新人賞には奇抜な発想が溢れているし、「転生チート」のようなライトノベルやエンタメ、ミステリー小説の大喜利状態ともいえる発想の宝庫ぶりは周知の通り。純文学に関しても、同じくらい突飛な設定とテーマで書かれたものが出てきて、技術史におけるアークライトやウェスティングハウスのような「売れるのは結局新発明の応用者」のたとえ、平野氏と似たような作風で足を掬う書き手が現れてもいいと思うのだ。

この疑問に対して答えられるヒントになるのが「自分なりに発想したコンテンツを『レイヤー』として整理しながら小説を書いている」というくだりだ。多様なコンテンツを特定のテーマ群のもとにまとめ、それを整理する図まで書いて先に進めない時に物語を整理している、というやり方を聞いて、私は「ああ、これが平野さんを真似した人が成功してきてない理由なのか」と納得した。

要するに、面白い発想、突飛な発想をするだけではなく、それらをレイヤー、つまり多様な批評にも開かれた「層」に整理しなければ小説としてはもちろん、一介の芸術作品としても「なんだ、結局中身はステレオタイプじゃねえか」と思われて終わるのである。だからこそ平野啓一郎氏のエピゴーネンは現れていないし、その分では三島由紀夫に届く人材は現れないのだろう。

だが、小説としてのレイヤーの整理のやり方はやはりすぐれた小説を読んで学ぶしかないのではないかというのが私の結論である。だが賢いやり方として、すぐれた批評を読んで学ぶというやり方はありかも知れない。阿部和重や中上健次、大江健三郎といった面子が、本人の創作と批評家のレイヤーに関する視座のたくましさの充実している作家だろうか。そんな感じで、これから半年間はまた小説を書きながら現代アートとしての「レイヤーの整理」を学ぶ期間になりそうだ(ということで、この記事も結局ステレオタイプというオチを迎えている)。

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