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「社会」と「反社会」

政府が桜を見る会において、いわゆる“反社会的勢力”を招待し問題になっていた件で、「反社会的勢力の定義は困難」と閣議決定したらしい。

答弁書において、「その時々の社会情勢に応じて変化し得るものであり、限定的・統一的な定義は困難だ」とされた。

そもそも「社会」とは何を指すものなのか。おそらく、この言葉を定義することもまた難しい。ただ、社会という場合にはっきりしていることは、複数の個人によって成立している共同体ということだ。それはすなわち、社会の大小に関わらず、その構成員たりうる複数の個人の間で、共通の価値観や認識などを共有している状態と言える。これは人間だけに当てはまるものではなく、例えば動物の群れも一種の社会と考えられる。つまり、大雑把に言えば、社会とは、複数の個を束ねる何かを相互に共有している状態ということだろう。

この前提に基づいて、現代の社会において私達が共有している価値観や認識とは何かと考えると、その中心にあるのは法であろう。また同時に、道徳や倫理などの慣習法的な規範もまたそうだろう。私たちは恐らくこの社会に生まれ育つ過程において、良いことと悪いことの区別を無意識のうちに内面化してきた。まさしくそれがこの社会で共有されている価値観や認識に基づくものであり、それがあるからこそ、社会が成立し私たちはその中で暮らすことが可能になっている。法や規範の中身は様々だが、例えばその最たるものは、他者に対する暴力や威力、詐欺行為が犯罪である、ということである。単純化して言えば、反社会とは、こうした社会の中において、共有された法や規範を犯す個人や集団ということになる。しかし、この区分は相対的でしかない。共有された法や規範が社会の中で意味をなさなくなった場合、この区分そのものが曖昧になるからだ。

ここに、今の政権が反社会的勢力を定義しないことの意味がある。彼ら自身がこれまでの政権運営において、法的・道徳倫理的に明らかにおかしいと思うことに関して説明責任を果たさずに、力でゴリ押ししてきた結果として、社会の中で、法や規範の持つ意味が薄くなってきている。つまり、何をしても彼らの側にいるものは許されるということがまかり通っている状態である。今回、政権が反社会的勢力を定義できないとしたことそのものが、今までの社会で共有されてきた価値観や認識そのものを壊し、道徳や倫理観を亡きものにする行為に他ならない。それはすなわち、社会そのものを壊す行為とも言い換えられる。そして、1つの矛盾が生まれる。それは、彼ら自身が社会の代表でありながら、反社会的な存在であるということである。政府として反社会勢力を明確に区別しないのは、そうすることによって自らを反社会の側に追い込むという矛盾に直面したからだ。

「そんなことばかり議論してないで他にやることがあるだろう」と街頭インタビューで答える人がいるが、まさにそのように答える人の出現こそ、社会が壊れ始めている証左ではないかと感じてしまう。




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