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スポーツ選手がアンチスポーツを提言してみる


スポーツ選手は優秀な人間なのか?

先日、大谷翔平の結婚発表が報じられた。
日本一のスポーツヒーローの結婚にスポーツ新聞は「大谷 結婚」で一面が埋まり、地元岩手では号外が配られ、テレビもネットも話題は大谷翔平の結婚一色となった。
このおめでたいニュースに水を差すのも違うだろう。僕としてもまずは素直に祝福の言葉を述べたい。大谷翔平選手、ご結婚おめでとうございます。

日本野球史上最高の選手であり国民的スーパースターでもある大谷翔平についての説明は不要だろう。老若男女問わず好感度は抜群で、好きなスポーツ選手ランキングではダントツの一位に輝く。また、今季から入団した米大リーグ・ドジャースとは10年約1000億円という破格の金額で契約したことも世間を大きくにぎわせた。能登半島地震の被災地支援や小学校へのグローブ寄贈などの社会貢献活動もしており、国民的スーパースターの大谷翔平は我々日本国民にとって社会的、経済的に大きな貢献をしているのは間違いない。また、画面に映る彼は純朴な野球少年がそのまま大きくなったような人物に見え、野球に対する真摯でひたむきな姿やスキャンダルと無縁の人柄も含めて好印象でしかない。なので僕もどちらかというと大谷翔平は好きなのだけど、昔から他人に興味が薄い性格のせいか、個人的には特定の人物に入れ込んで熱心なファンやアンチになる人の心情があまり理解できない。
なので結婚相手の特定にまで過熱している今回の報道も「騒ぎすぎだろ……」と冷ややかな気持ちで傍観していたのだが、お相手が女性アスリートではないかと報じられるとまだ産まれてもいない子どものスポーツ適性についての言及が目立ち、大谷翔平の遺伝子が受け継がれることを喜ぶ声も多く見かけ、挙句の果てには大谷翔平の子どもを産みたいとか、大谷翔平だけは一夫多妻制を認めて優秀な遺伝子を増やすべきとか、自分も大谷翔平の遺伝子だったらとか、過激な優生思想もあった。
それらの意見に対する反論をざっと見た限りだと、「大谷翔平が遺伝子(才能)のおかげだけで成功した風に聞こえる」といった大谷翔平の努力を無視するな系や、「スポーツ選手への期待が凄くて子どもが生きづらそう」などの才能で人生を決められる子どもの自由と選択の侵害に怒ってる系、「会ったこともないのに大谷翔平の子どもを産みたいとか気持ち悪い」との軽薄な女性嫌悪系の三つが多かったんじゃないか。
しかしそれらの反論にしても、大谷翔平の遺伝子が優秀なものであるという前提自体に対する反論や疑問ではないように思う。僕はこの点において、疑問を呈したい。

上述した通り、大谷翔平個人は嫌いじゃないし批判する気もないので、それはご承知いただきたい。ただこの遺伝子云々は昔からあり、他に室伏広治や吉田沙保里といった名前もよく上がる。共通点としては優れた競技実績と高い身体能力だろう。各アスリートの、弛まぬ努力を経て輝かしい活躍を遂げた精神性はもちろん称賛に値する。しかし彼らの肉体的ポテンシャルは、果たして本当に優れているのだろうか?そしてスポーツでの活躍は、そのまま優れた人間であることの証明になるのだろうか?

人類の進化的傾向と、スポーツ選手の身体的傾向

進化学から読み解くと、ご存じの通り現生人類は脳が巨大に発達した動物だ。進化とはコストの兼ね合いでもあり、特定の器官の発達は別の器官の退化や能力の消失を招く。巨大な脳は多くのエネルギーを必要として、それに伴い今まで筋肉に充てられていたエネルギーが脳へと移行した。結果、人類は筋力が低下し、かつて樹上で暮らしていた頃のような生活スタイルは送れなくなった。実際に、霊長類の安静時代謝における脳の割合は8%にとどまるのに対し我々人類は脳によるエネルギーの消費が25%も占める。巨大な脳の維持コストは人間をひ弱な姿に変えた。
霊長類よりも更に脳の代謝割合が低い他の野生動物はより強靭で驚異的な身体能力を誇る。人類最速の男ウサイン・ボルトがたたき出した100メートル9秒58は時速に直すと40キロに満たないが、100メートルをわずか3秒で走りきる地上最速の動物チーターの時速は100キロを軽々と越えている。人類の身体能力なんて野生動物とは比較にすらならない。
「別に動物と比べてない。人間の中で凄いんだろ」と思われるだろう。しかし上記のボルトや人類最強と目されるジョン・ジョーンズ、フランシス・ガヌーなどの優れたアスリートの遺伝子を取り込もうといった意見を見かけないのは、大谷翔平の遺伝子を残そうと言う人もやはり身体能力至上主義者ではないことがわかる。日本が黒人の国になるのは嫌なんだろ?それならばなぜ嫌なのかを考察する意義はあるのではないだろうか。
日本国籍を持つ偉大なハーフアスリートでも、大坂なおみや八村塁は正直あまり応援されずに室伏やダルビッシュは受け入れられている印象がある。この辺は人種差別的な傾向も感じるが、要は容姿や性格が日本人的ならアリという感じか。つまり大谷翔平遺伝子熱望論(と名付けよう)は、あくまで日本の風土で育ち日本の文化を理解して、日本を愛する日本人の優れたアスリート、という条件の優生思想であることがわかる。では条件に適合した大谷翔平は、極めて優秀な日本人の遺伝子を持つ人物だということで問題はないのだろうか?
しかし僕はここで、誰もが信じ込んでいる「偉大なスポーツ選手は優れた身体能力を備えている」という大前提を覆してみたいと思う。

スポーツとは何か?と聞かれれば運動競技だと誰もが答えるだろう。まあ確かにその通りだ。運動競技の頂点に君臨するトップアスリートは最高の運動能力を有していると考えるのも自然なことに思える。しかしスポーツとは、エンターテインメントである、ともいえる。

人間の筋肉繊維というのは大きく速筋繊維(二種類あるけど割愛する)と遅筋繊維に分けられる。速筋は瞬発的に大きな力を出すための筋肉で、遅筋は持久的な運動に使われる筋肉だ。この割合は生まれた時から変わらないとされ、それを覆す結果の出たマウス実験もあったが、比率が大きくは変わらないとみていいのだろう。
鍛えることで大きく盛り上がるのは速筋繊維で、遅筋繊維はあまり筋肥大しないことも特徴的な違いだ。ムキムキな短距離ランナーと細身のマラソンランナーを思い浮かべてもらえればわかりやすいだろう。昨今のボディメイクブームは高重量のバーベルを瞬間的に持ち上げて速筋を筋肥大させる筋トレが主流で、見た目の変化がわかりやすい。長い距離をジョギングしても使われるのは遅筋繊維で、カロリー消費によるダイエットにはなるがムキムキになることはない。
諸説あるが速筋繊維と遅筋繊維の比率は50:50くらいが日本人の平均ともされる。もしくは若干遅筋繊維の方が多いとも。この比率は人種による差も顕著で、オリンピックの花形種目である陸上100メートル走で上位を席巻するジャマイカ人は元々狩猟民族なこともあり70:30で速筋繊維が多く、トップアスリートに至っては80:20にもなるという。黒人しか残らない100メートル走ファイナリストの顔ぶれや街を歩く黒人が当たり前にみんなムキムキなのも納得だ。反対にトップのマラソン選手は80:20で遅筋繊維が多いとされる。
では、多くのトップアスリートはどうなのだろう。おそらく、速筋繊維の割合が高いのではないか。マラソン、トライアスロン、競歩のような持久運動が主の競技はそう多くはない。ほとんどの競技は瞬発的な運動を必要とする。大谷翔平の野球や室伏広治のハンマー投げなどは最たるものだと思う。
それはなぜか。それは、スポーツがエンターテインメントだからだ。動きが派手になり大きなアクションが起こりやすい速筋繊維優位のスポーツの方が見ていて楽しい。また、競技時間の短縮にもなることでやる側見る側の両面から利点になりやすい。

体格面はどうだろう。
大谷翔平は193センチ95キロの巨躯を誇る。平均身長170の日本で190を超える高身長の人を街で見かけることはほとんどない。それほど突出して恵まれた身体だ。これは野球という競技特性上、大きなアドバンテージになる。
高身長が有利に働く競技の代表格はバスケットボールで、その最高峰NBAには日本人は前述のハーフアスリートの八村塁を含む三人しか出場を果たしていない。それほど狭き門にもかかわらず、身長7フィート(約213センチ)あるアメリカ人男性の4人に1人はNBAプレイヤーだというデータがある。それだけバスケットボールは身長が重要なことがわかる。
しかし平均身長を大きく超えた身長とは、果たして人類の進化論的に正当な発達なのだろうか?

中央アフリカの森に住むネグリロと呼ばれる民族は、平均身長1,5メートル未満と特に身長が低いことでも知られる。これは彼らの地政学的な進化の結果で、熱帯雨林では小柄な体格が生き残るために有利だといえる。また、同種の動物では寒冷地帯に住むほど大型化することがわかっており、これは体積と表面積の関係から大型個体の方が熱放射による体温低下を防げることに由来する。発生から約20万年の我々ホモサピエンスよりも遥かに長い100万年の間地球で暮らしていたヒトの一種ホモハビリスは平均身長1.3メートルの小柄な体格をしていた。これらの例から鑑みるに人は必ずしも大型化に向かって進化してきたわけではないし、高身長遺伝子は生物学上の優位を示すものでは決してない。
もちろん高身長の個人を悪く言う気は全くないし、僕も小さい頃は誰よりも背が高くなりたかったものだ。しかし多様性を尊ぶ者としては、高身長が結婚の条件に挙げられたりする昨今の日本社会の風潮には誤った優生思想が内在している点を否定したい。足りない頭で定義された杓子定規で画一化した優劣や勝敗のジャッジメントにこれから生まれてくる子どもたちが晒されるのは忍びない。これから親になる人はどうか、どんな姿で生まれてくる君でも愛おしいよと言ってあげてよ。

天才という虚構に踊らされないで

そういった理由から、スポーツにおける才能とは優れた身体能力を指し示すものとは限らない。スポーツに限らず、天才とは現代社会が定義した特定の条件に、たまたま個性が適合した一種の特異点と呼ぶほうがより実態に近い気がする。
食糧難の時代が訪れればコスパの悪い大きな体格の持ち主から先に餓死するだろうし、狩猟民族と農耕民族ではよく使われる筋肉の質も違う。別に優劣ではないのだ。大切なのはスポーツで勝つことではなく、自分の身体を愛おしみ、必要に応じて上手に動かして生きていくことだ。

スポーツを見るのは確かに盛り上がる。スポーツは現代社会における巨大なマーケットであるし、動く金額も桁外れだ。しかしその人気に踊らされて、人間として大切なものを多くの人が忘れてはいないだろうか?
所詮はエンタメよ。見るのもやるのも楽しめればそれでいいじゃないか。本気でやるなら命懸けになることがあるのはプロ格闘家になった僕ももちろん理解しているけど、別に負けたからって存在価値を否定されたわけじゃないんだ。逆に、エンタメごときの優劣で決まる存在価値なんてこちらから蹴とばしてやる。
親が過熱化したスポーツ教育も否定したい。たしかに勉強に限らず幼少期からの英才教育はスポーツでも有利だ。でも子どもは親の夢を叶えるための道具じゃないし、エンタメごときの勝敗なんてつまらない価値観でお前が一喜一憂してんなよ。みっともない。

このままだと行き着く先は人類のサラブレッド化か。競走馬は人が作り上げた競馬というエンタメの勝者だけが子孫を残すことを許され優秀な遺伝子だとされるが、果たして本当にそうだろうか。
「より速く」だけを追い求めて作られたサラブレッドはほかの馬よりも骨折しやすく、力も強くない。ただ、競馬という設定条件に合った個体が持て囃されただけじゃないか。G1ホースになんかなれなくたって生まれてきた可愛い馬は無価値なわけがない。金にならないなんて理由で殺処分されていいわけがない。こんな残酷で不幸な価値観を、僕たちは自分自身にも持っていかなくちゃいけないのだろうか?
足が遅いとバカにされてる男の子にも、自分の容姿に悩んでいる女の子にも、その生は愛と祈りに値するのだと教えてあげるのが大人の役目じゃないか。

エンタメに限らず、現代社会の価値観なんて薄っぺらだ。それを追ってばかりいたら自分がいなくなるよ。僕は大谷翔平じゃないし野球もできないけど、格闘技だって大して強くはなかったけど、それでも僕はこれからも自分は最高なんだと信じて生きていく。関係ねえよ。自由に動かせる四肢、休まずに動き続ける心臓、目まぐるしく動く情勢を捉える眼、忙しなくいつも考え事をしている頭、最高以外の何物でもないに決まっている。無論それは、ここまでこのnoteを読んでくれている貴方にも言えることだ。
大谷翔平じゃないすべての人と、この度ご結婚された大谷翔平選手に、どうか祝福あれ。

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