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『グレイテスト・ショーマン』が賛否両論になる理由

(※タイトルは、統計的なデータはまったくとらず、肌感覚だけでつけました、ごめんなさい)

ぼくは最近、知人に紹介された、とある小説を読んでいた。

その小説を半分くらい読んだところで、紹介してくれた知人に「この小説、半分くらいまで読み進めたけど、面白いね」とLINEを送った。

するとその知人が、それに対する返信で、「でしょー!それでそのあと、○○なるの」と、なにを思ったかネタバレをしてきたから、「めっちゃネタバレするじゃん」とツッコんだ。

そしたら、「いや、こんな感じで、前半のストーリーのまま、なにごともなくその小説は終わるから」と言った。じぶんはストーリーではなく、登場人物同士のか会話や描写が好きなの、と。

ああ、またやってしまったと、ぼくは思った。気を抜けばいつも、ぼくは作品の「ストーリー」ばかりに目をやってしまう。

作品の評価の側面は、おおきく分けて2つあると思う。

「ストーリー」と、そして「表現」だ。

なんだけれども、作品に対する捉え方は、ひとによってひとつの側面であることが多いから、それによって評価が二分される作品が後を絶たない。

近年のわかりやすい例でいえば、『グレイテスト・ショーマン』だろう。

けっこうな大ヒットを飛ばしたが、その評判を聞いて観に行ったひとのなかには、ガッカリしてしまったひとも少なくないのではないだろうか。

『グレイテスト・ショーマン』は、典型的な「表現」タイプの作品だ。

ストーリーはなんてことのない、主人公のジェットコースター型人生の顛末を描いた、言葉を選ばずに言えば非常にベタな展開のもの。

だから、「ストーリー」に期待して映画館へ足を運んだひとにとっては、物足りなかったはずだ。

しかし、『グレイテスト・ショーマン』の見どころはそこではない。

この作品の魅力は、あの音楽やダンスのほうにある。

あのミュージカルにハマったひとにとっては、これは傑作なのだ。

ぼくは根っこはゴリゴリの「ストーリー」派の人間なので、『グレイテスト・ショーマン』が期待はずれだったひとの言い分もよくわかる。

「好きなら好きと言えばいいのに。なんでそのひとことのために、わざわざ一曲踊るのか、理解できない」と、彼ら彼女らは言う。

だからこそ、逆に言えば「ストーリー」と「表現」の両方に凝っている作品は、爆発的にヒットする。両派閥のひとが、潜在顧客になるからだ。

『君の名は。』はその予想不可能な展開はもちろんのこと、あの画自体や発されるそのひとことひとことのセリフが、非常に美しかった。

『シン・ゴジラ』も、あのスリリングな展開に加えて、迫力満点の対決シーンなどは、それだけで観る価値があった。

ここでぼくが論じたいのは、「ストーリー」と「表現」の優劣ではない。

そんなもの存在しないし、あるとすれば、そこにあるのは単なる「嗜好」の差だけだ。

ただ、ひとつだけ心に留めておきたいのは、「ストーリー」のほうが、比較的その魅力が「わかりやすい」ということ。

「おお、これは予想外の結末だった!」「あそこの伏線は前半のあそこの粗シーンだったのか!」といった感想は、その作品の展開を追っていれば、容易に理解できる。

一方で、「表現」の魅力に気づくためには、受け手の「教養」や「感性」みたいなものが要求される。

「表現」の魅力とは、なんの背景知識もないまま展開を追っているだけでは味わえない、この「豊かさ」のようなものだと思う。

そして、この「豊かさ」は、世の中やそのひとの人生自身の「豊かさ」にも、直結しているような気がするのだ。

だからぼくは、最近、「むむ、この作品は展開にあまり抑揚がないぞ」と、無意識に「ストーリー脳」になっているじぶんに気づいたときは、意識的にその道中にある「表現」へ意識を向けるようにしている。

根っこが「ストーリー」派だから、どうしてもそっちに意識が向きがちなんだけど、「ラスト5分の衝撃のクライマックス!」とはまた違った楽しみ方も、味わえるような人間になりたい。


★それでもやっぱり、『カラスの親指』は大好きやけどな!


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