見出し画像

「本当の自分」のその先には、何があるのか

昨日に引き続いて、スタジオジブリが発刊しているフリーペーパー『熱風』9月号の感想を書きます。

昨日は、現代美術鑑賞の効用について書きました。

今日はタイトルの通り、「本当の自分のその先」について。

『熱風』のなかで、ぼくが一番好きな連載『十二の禅の言葉と「ジブリ」』を取り上げます。

この連載を受け持っているのは、細川晋輔さんという龍雲寺住職の方。

今月の連載タイトルは、『「水自茫茫花自紅」(水は自ずから茫茫、花は自ずから紅なり)と「レッドタートル」』です。

これだけだとなんのことかサッパリわからないけど、読み進めていくとこれは「本当の自分のその先」についての話なんだなと感じました。

この連載の書き手である細川さんは先日、インドへ行ってきたそうです。

そこで見たガンジス川の風景は、圧巻でした。

火葬、洗濯、沐浴、といった、人間の生活だけでなく、その信仰も、人の生き死にさえもすべてがそのガンジスの流れのなかにあったのです。

この大いなる自然を目の前にして、細川さんはジブリの映画『レッドタートル ある島の物語』を思い出します。

ぼく自身はこの作品を観たことがないだけれども、1人の男がとある無人島に流れ着き、そこで様々な出会いや出来事も経験しながら、そこで一生を終えるというストーリーなのだそう。

そしてこの自然との関わりが密接な『レッドタートル』について思いを馳せるなかで、細川さんは次に、禅の書物である『十牛図(じゅうぎゅうず)』を思い浮かべます。

『十牛図』は、一二世紀に中国で作られた禅のテキストと言われています。

人間が本来持っている仏性(ぶっしょう)を、中国で最も身近な動物である牛にたとえ、その仏性を求める修行の過程を、牧人が牛を飼い慣らすのになぞらえて、十枚の絵とコメントで表現されています。

牛を見失った牧人が、再び牛を見つけ出し、野生に戻っていった牛を飼い慣らしながら、牛との一体を目指していく。

十枚の図は、それぞれ禅修行の段階を表現していて、禅の悟りを目指す一つの行程を指しているのです。

『熱風』2018年9月号より

そしてその後の本文中にて、細川さんは『「仏性」とされるこの牛こそ、知識や経験を具える(そなえる)前の「本当の自分」にほかなりません』と言います。

つまり、ぼくたちは生まれた瞬間はなにもない「本当の自分」であるものの、学校に行ったり会社に行ったりして他者と交わるなかで、その「本当の自分」とやらを見失ってしまうのです。

そして、あるときふと「本当の自分ってなんだっけ?」という疑問に直線します。

この瞬間こそが、自分探しの旅の始まり、つまり『十牛図』のスタートになります。

『十牛図』のストーリーとして、まずやっとの思いで牛を探し、見つけ出して飼い慣らし、牛と一体になっていきます。

7番目の図には牛がいなくなり、8番目には探している当の本人である牧人までいなくなってしまいます。

しかし実はこれは、迷いも悟りもなくなってしまった、いわゆる「無」という心の状態を指しています。

一瞬、ここで自分探しの旅は終わってしまいそうなんですが、そうじゃないのが「禅の面白いところ」なのです。

そこからさらに一歩進めるとどうなるのか?

9番目の図には、花が咲き乱れ、水が流れている様子が描かれています。

この図にまつわる禅語こそが、本連載の今月のタイトルでもあった「水自茫茫花自紅」(水は自ずから茫茫、花は自ずから紅なり)です。

(やっとつながったぜ。。。)

この9番目の図は「返本還源(本に返り源に還る)」と題され、はじめに返り源に還ることを意味しています。

一大決心をして牛を探す旅に出て、見つけ出し、そして迷いも悟りもなくなった「無の心」を手に入れることができた。

しかしそこでは留まらずにもう一歩進めると、結局はいつもと同じ景色、つまり振り出しへと戻る。

本当の自分のその先は、いつもと同じ風景だったというオチです。


3流と1流は、表面上は同じ言動を装う

そういやこの禅の話、僕自身が似たようなことを前に考えたことがあったかも、と思っていたら、noteに書いてました。

若干議論の対象はズレるかもしれないけど、構造や通底するものは同じな気がしています。

つまり、「どうせ見える風景が同じなら、そもそも修行なんてしなくていいじゃねえか」という簡単な話でもない気がするのです。

たしかに、修行をする前の人と、修行を経て「無の心」のその先に行き着いた人で、網膜に投影される風景は同じかもしれません。

しかし、その「実」には雲泥の差がある気がするのです。

ココらへんは、まだうまく言語化できません。

ただ少なくとも、修行が無駄なんていう安直な結論にはならないはずです。


「本当の自分」についての、違う角度からの議論

「本当の自分とは?」論争については、ある種人類の永遠のテーマかもしれません。

ご多分に漏れず、ぼくもなかなか深刻にそんなことを考えていた時期がありました。

今回の禅理論もまあ一つの答えではあるのかなと思いますが、もう少し違う角度からこのテーマについて深掘りしたい人には、平野啓一郎さんという小説家の方が書いた、『私とは何か―「個人」から「分人」へ―』という本がいいかもしれません。

ぼくはこれを読んで、「ああ、もう本当の自分とは?で悩まなくていいんだ!」と、視界がパァと開けた覚えがあります。

当時、感想をブログにも書きました。


修行が無駄では全くなく、むしろ1度はそういう経験をしておいたほうがいいとは思いますが、修行ばっかりしてアウトプットの段階に移れずにいるのも考えものなので、そこで立ち止まっている人は、早く自分なりの答えを出して、次のステップに進んだほうが、最終的な幸福度も高いと思います。


★最近はプログラミングを少しかじりだした


この記事が参加している募集

推薦図書

最後まで読んでいただいて、ありがとうございます!!!すこしでも面白いなと思っていただければ「スキ」を押していただけると、よりうれしいです・・・!