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性表現という概念を知ってスッキリした話

「時代は変わったから。」

最近、よく聞く話題だと思います。

令和だの。Z世代だの。デジタルネイティブだの。

何かと「今はこれまでの時代と違って、新しい概念が受け入れられている時代」とみなされている傾向があります。
そしてそれは「ダイバーシティ」という言葉でも置き換えられることがあります。

僕としては、確かにそうとも言えるけど、でもどこか違和感も覚えてしまいます。

新しい概念を受け入れるようになったというよりは、これまで水面下で気づかれることがなかったような話題が、ただ上がってきただけ、って感覚。
端的に言うと、いままで潜在的だったものが、顕在的になっただけ。

つまり、何か感覚が変わったものはなく、ただ周囲の多くが何かしらの圧力で考え方を変えざるを得ない、という状況に追い込まれたような感じがします。

だから、世の中はあまり変わってないと思うし、変わったと思っていると全然変わってないって感じるのです。

たとえば、LGBTQの話。
以前よりもジェンダーに関する話題を聞く機会が増えたように思います。
それは一見、LGBTQの当事者が受け入れられる世の中になってきたように見えます。

しかし、実際のところはどうなんでしょう?
当事者が心から生きやすくなったと言えるのでしょうか?
周りの人たちは十分に受け入れているのでしょうか?

変わったように見せかけて、実際は全然変わっていない。
それが僕の受ける「今」という時代に対する印象です。

***

先日、ひとりの友達と会いました。
彼は、同性愛者の男性。つまりゲイです。

僕は去年彼と知り合って、割と早い段階でゲイだという事実を「さらっと」伝えられました。
僕としては、いつどのように知ったのかあまり覚えていません。そして、気づいたら受け入れていた、という感じです。

その彼は、いわゆる「オネエ」の人たちとは全然キャラクターが違います。
一般的な見た目の男性で「元気な少年」という印象。

僕は、彼がゲイという情報を知っていても、コミュニケーションの中でそれを特殊な事実のようには扱うことはしません。
そもそも彼のそのゲイという事実は、恋愛のことやセンシティブな話題にでもならない限り記憶の片隅に追いやられてしまいます。

彼は最近とあるゲイバーで働き始めたらしく、そこでの話を聞かせてくれました。なるほど、こんな世界があるのかと。
僕はゲイバーには行ったことがないため、あくまでイメージするに過ぎません。

そして、そこで僕は一つの事実に気づきました。

オネエとゲイの概念ってイコールじゃない。

ゲイバーにはオネエの人たちが接客しているイメージがあります。
その様子を想像して、「オネエ=ゲイ」という理論が自分にありました。

しかし、実際ゲイの中には見た目も話し方も一般的な男性と全く変わらない人もいます。
もしかしたらオネエの中にはゲイではない人もいるのかもしれません。
これらをイコールと捉えることは間違いでした。

そもそも自分自身を思う性別と恋愛対象の性別の話って切り分けるものではないのか?

最近話題になってきたLGBTQという「ふわっとした概念」について、自分は全く無知だったことに気づきました。

そして、僕自身も性別に対して小さな違和感を抱えていた、ということを思い出しました。

***

僕は中学高校の6年間を男子校という環境で育ちました。
当然、周りに女子はいません。今でも女子高生という存在を幻想のように感じてしまうことがあります。

正直、僕は男子校の中学校に入ることに対して否定的でした。入りたくなかった。
しかし、中学受験の実態は教育親による代理戦争。
小学6年生当時の僕は、自分の意見を伝えても、全く聞く耳は持ってくれませんでした。

そもそも僕は親の意向で行動していたような人間だったので、自分の意見を堂々と主張することができませんでした。

その後、仕方なく男子校に入学し、なんとなくその環境に適応していました。

なんで男子校が嫌だったのか。
当時はわからなかったけど、今はなんとなくわかってきました。

それは僕が持つ小さい時から一貫している姿勢によるものです。

僕は人と会って話す時、相手の性別があまり気になりません

自分は男性と認識しているし、恋愛対象は女性と認識している。
いろんな人と出会っていると、自然な流れで、女性に対して恋愛的な感覚を抱くことはあります。
でも、目の前の人が男性だろうが女性だろうが、それは特に気になりません。名前程度の情報に過ぎません。

僕にとってはこれが普通だったから、世間の人がそうは思わないということを後になって知りました。

もちろん、身体的な違いで性別を分ける意味があるのは理解しています。トイレやお風呂が別々なのは100%同意です。

英語で、身体的な性別をsex、文化的な性別をgenderと言い分けるように、僕自身も身体と文化で性別の捉え方は変わります。

しかし、教育という場でなぜ性別で分ける必要があるのか。
しかも、男女平等が叫ばれている現代で、あえて男子だけの環境を選ぶなんて。

全く理解できない。

学校は社会の縮図とも言えるため、男子校という限られた環境で社会性が学べるのか。
卒業した今もなお、その疑問は抱き続けています。
(学校の先生などにはお世話になったため、全てを否定しているわけではありません)

僕にとってゲイやオネエと言った人を自然と受け入れられるのは、その考えがあるからだと思っています。
目の前の人が男性だろうが、女性だろうが、ゲイだろうが、オネエだろうが、特に気になる存在ではありません。

LGBTQという概念が世間で話題になってからも、その概念がなぜ世間で流行しているかすら、最初は理解できませんでした。

***

そんな僕ですが、男子校の高校を卒業して共学の大学に通い始めてから、ひとつ気になったことがあります。

それは、多くの人から言われるこの言葉です。

女子力高いね。

ひとりやふたりではありません。
同じ大学の人だけでなく、バイト先など学外の人にまで。そして、特に女性から言われることが多くありました。

僕自身はそこに嫌な気持ちはありませんでした。それは、少し自分でも納得するような部分があったからです。

小さい頃から女子っぽいもの、たとえばキラキラしたものや可愛いものをちょっと好んでいました。大きくなってもさりげなくピンクなど暖色系のものを選んでいます。

そして、僕は昔から、いわゆる男の子が好きなもの、かっこいいものや強そうなものにはまったく興味がありませんでした。

社会人になってから感じたひとつのエピソードがあります。

それは、仕事に向かう時に着るスーツについて。その頃から僕の違和感は大きくなってきたようになってきた気がします。

なんか、、、スーツ着たくない。

学生の頃は、スーツを着たかっこいい社会人に憧れていました。でも、その生活を始めるとすぐに気持ちが変わりました。

「嫌だ。着たくない。」

仕事がうまくいってなかったから、当時はそんな嫌だった仕事のアイコンとしてスーツというものがあると思っていました。
しかし、どうやらそんなことでも無かったのです。

実際はスーツという服が持つ「男性」性に対して嫌悪感を抱いていたのです。

***

昨年、突然の死によってこの世を去ってしまったモデルのryuchell(りゅうちぇる)。
唯一無二のキャラクターでテレビや雑誌などさまざまなメディアで活動していました。
しかし、離婚などを契機として、多くの批判も受けていました。

りゅうちぇるが生前言っていたことがあります。

「いっそ僕が、男の子が好きだったらわかりやすいのにな」って思ったこともある

出典:りゅうちぇる「こんな世の中で生きていくしかないなら」

これを知って、なるほどと思った部分があります。

自分が表現したい性別と自分の性的対象となる性別は違う概念なのだと。

りゅうちぇるはその見た目から、女性っぽい自分を表現することが好きでした。しかし、同じくモデルのpeco(ぺこ)と結婚していたことからわかるとおり、りゅうちぇる自身の性的対象は女性でした。

男性の身体を持ち、異性である女性を好きになる。しかし、自分自身を表現する際には女性らしいものを使う。

僕自身、昔から女の子が好きなものになんとなく興味がありました。
親にはバレたくなかったから隠すことも多かったし、そこまで強い意志ではなかったから違和感は大きいものではありませんでした。

しかし、これらを受けてはっきりとわかりました。
僕が自分自身に対して好みが合う、表現したいと思う性別には女性が含まれている。

比率で言うと半々くらいか、女性が少し上回るでしょうか。

たぶんりゅうちぇるは男1:女9くらい極端だったんだろうなと思います。
僕はまだ程度が弱かったから、そこまで強い違和感ではなく、それゆえ気づきづらいことでもありました。

程度は弱いものの、りゅうちぇるが抱えていた悩みと近いものを僕も持っていた。そのひとつの事実に気づきました。

***

身体的性別が不一致の人、恋愛対象となる性別が不一致の人。
昔から、こういった悩みを抱えている人たちのことをメディアを通して知る機会は多くありました。

ゲイが親にばれることは、つまりは破門を意味する。かつてはそんな時代もあったくらいです。
そういった人は自分を隠しながら世間から目立たないように生きていたのでしょう。

そのつらさや苦しさは想像を絶するものかと思います。

2021年の日本アカデミー賞は「ミッドナイトスワン」が最優秀賞を受賞しました。
新宿のニューハーフショーで働く男性と親から虐待を受けて育った中学生の女の子がお互いに成長していく物語です。
とても感動的な作品でした。

この映画で草彅剛が演じるのが、自分を女性と認識している男性です。性同一性障害を抱えていることを家族に打ち明けられず、東京でひとり細々と生活していました。
タイで性転換手術を受けたり、家族に報告して母から号泣されたりといったシーンもありました。

この映画はそういったLGBTQなどの社会問題に正面から向き合い、かつ細かく描写していたことが印象的です。
結果、映画としてのクオリティの高さも相まって、大きな反響がありました。

最近、この映画を見た際、身体中を駆け巡る感覚がありました。

実は他人事でもないかもしれない。

いてもたってもいられず、LGBTQについて調べてみることにしました。

まず、LGBTQという言葉は以下の人たちのことを指すそです。

【LGBTQとは】
レズビアン(L):女性を好きになる女性
ゲイ(G):男性を好きになる男性
バイセクシュアル(B):異性を好きになることもあれば同性を好きになることもある人
トランスジェンダー(T):生まれた時に医師に診断された性別とは異なる性を望む人
クエスチョニングクィア(Q):性的指向や性自認が明確でない人、定義づけたくない人、わからずに悩んでいる人

出典:EARTH NOTE

これら5つが代表的ではあるものの、これだけでは全てをカバーできていません。
他にもさまざまな概念が定義されていますが、今回は割愛します。

そして、セクシャリティ(性のあり方)には4つの要素があると言われています。

【セクシャリティの4要素】
身体的性:生まれながらに決められている身体的な要素
性自認 :自らの性を自分自身がどのように認識しているかという要素
性的指向:どのような性に恋愛感情を抱くかという要素
性表現 :自らがありたい性の表現方法の要素

出典:自分らしく生きる(リンク

たとえば一般的な男性の場合は、以下のようになります。
(一般的という表現は適切ではないですが、わかりやすく伝えることを優先しています。「シスジェンダー」という言葉もありますがここでは使用していません)

・身体的性:男性
・性自認 :男性
・性的指向:女性
・性表現 :男性

先に話した「オネエとゲイは違う」という考えは、性自認と性的指向という別の要素を同じものとみなしていたからでした。
(オネエは性自認が女性の男性(の一部)、ゲイは性的指向が男性の男性)

これに当てはめると、僕自身は以下のようになります。

・身体的性:男性
・性自認 :男性
・性的指向:女性
・性表現 :男性<女性

りゅうちぇるの例で出したのは、このうちの「性表現」の部分でした。

女性として表現したいにも関わらず、性的指向は女性(異性)だったため、なかなか理解されない。
それゆえ悩みを抱えていたのだと思いました。

僕自身、この概念を知って納得できたと共に、スッキリもしました。
普通に生きているだけなのに、「女子っぽい」と言われることの所以はこの性表現の部分にあったのです。

***

性別に関する悩みは当事者でないとそのつらさは知れないでしょう。

一般的な人たちからすれば、考えることが難しいこの概念。
しかし、その苦しみを味わっている人からすれば、目の前が真っ暗になるほどのつらい事実でもあるのでしょう。

時代は変わってきたけれど、LGBTQは人々に受け入れられているのか?

昔よりは寛容になってきたものの、それを「時代が変わった」と安易に片付けているのではないか?

これは人間の本能に関わる部分であって、時代が変化したから解決できるものでもないと僕は思っています。

そもそも「受け入れる」とは、「外の概念を自分の中に取り込む」こと。
自分の中になかった概念を知った時、一種の抵抗感のようなものを覚えるのではないでしょうか。

性の悩みに苦しんでいる人の気持ち、とりわけ社会的な面での悩みを慮ると、その抵抗感にあえて真正面からでも立ち向かう必要があると思います。

それを多くの人はできているのか?

僕が「時代は変わった。」に違和感を覚える理由はそこにあります。

僕は偶然LGBTQに対しての抵抗感はほとんどありませんでした。加えて、少しだけ当事者寄りの立場でもありました。

しかし、それ以外の話題において、新しい概念に抵抗感を覚えた経験があります。

「時代」で片付けることなく、困っている人の気持ちに立って考えること。それこそが、本当の意味での「ダイバーシティ」だと思います。

とはいえ、良い意味でも時代は変わってきているため、ジェンダー的に男と女を明確に区別する機会も減ってきました。
男子校が少なくなってきたのもそういった時代だからでしょう。

ただ、ひとつ矛盾するようですが、僕はアイコンとしての「男らしさ」「女らしさ」がなくなることも、また違うと思っています。
これらは概念として残しても良いと感じています。

概念自体がなくなると、違和感を感じた人がアイデンティティを認識しづらくなってしまうと思うからです。
もしモヤモヤした違和感を感じた人がその正体に気づけなくなってしまう可能性があるのではないでしょうか。
実際、僕も違和感の正体を突き止めるのに何年もかかりました。

VUCAの時代になり、明確な指標がなくなったことで悩みを抱えている人は増えています。

だから、大事なのは受け入れること
他の大勢の人と違うことをしている目の前の人に対して、自然と理解し受け入れること。

これを重ねていくことだけだと思います。

***

変わったように思えて変わってない。
でも、昔より生きやすくなってきたのは事実。

「時代は変わった。」という言葉で世の中が変わったように見せかけるのも、それ自体は悪いことではないのでしょう。
それで思いを告白できる人が増えて、人々が少しだけ生きやすくなるのは良いことです。

僕は去年、昔から少しだけ思っていた気持ちをみんなの前で言ったことがあります。

それは自分が「女の子になりたい願望」があること。

その後、周囲の女性たちのご好意もあり、生まれて初めて女装をしてみました。言葉にはできない高揚感を覚えました。

結局、女装はその一回きりでした。
しかし、その時メイクについて興味を持ったことから、肌ケアから始まり少しだけですが美容用品を使い始めてみました。

今では美容男子の仲間入りができた・・かもしれません。

そのそも「美容男子」という言葉があるまでに、今は受け入れやすくなった時代とも言えます。
脱毛サロンもメンズ専門のお店があるくらいです。

自分を表現し、周囲の人が受け入れる。
そこに社会としてのあるべき姿がある気がします。

人と人とが支え合って生きていくのが社会。
人間の細かくて難しい感情を理解するのもまた人間。

そうやってもっと社会が良くなればいいなと、ちっぽけな人間ながら思うのです。

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